4.9 (火)11:35
「んな必要はねーぞ、丈一郎」
あくびをしながら退屈そうに、気だるそうに男子トイレに入ってくる大柄な少年。
「あ!」
その方向を振り返る丈一郎。
「マー坊君!」
その大柄な少年、明らかにこのカトリック系の学校にはそぐわない、殺伐とした空気を身にまとった秋元真央は、何一つ臆することなくその場にたたずんだ。
「あのな、そんな連中にお前がわざわざ殴られてやるこたーねえよ。大体な――」
ちらり、丈一郎の背後に隠れる一年生に目をくれる。
びくっ、その一年生はいっそうおびえた表情で丈一郎の背後に隠れる。
「大体な、そこのガキがわりーんだよ」
ガリガリと頭をかく。
「さっさとこのイチビリ野郎どもを教員にチクっちまえばいんだよ。大体よ、教員なんてこんな時にしか役に立たねえんだからよ。たけー学費払ってんだ。とっととチクっちまえよ、な? 簡単だろーが」
「な、なんだと? だ、誰だてめーはよ!」
「チ、チクるだあ? てめえ何このブタに吹き込んでんだ?」
再びの、しかも自分たちよりもはるかに屈強な肉体の少年の闖入に、三年生たちは声を震わせる。
「あ?」
ギロリ、底冷えのするような冷たい目で上級生をにらみつける。
ビクッ!
体を凍り付かせる上級生。
いや、凍り付いたのは、上級生だけではない。
丈一郎もまた、心胆凍り付くような感覚を覚えた。
ボクシングの時に見せる、猟犬のような目とはまた違う、黒い影を纏たような瞳。
リングで向かい合う時とはまた違た意味で、丈一郎は恐怖心を覚えた。
わずかばかりの付き合いではあるが、この学校の中で唯一親友と呼べるこの友人に。
こういう表現は適切ではないかもしれない、しかし、あえて言うならば、その目は“腐った”目だ。
どういう生き方をしてきたらこのような目ができるのだろう。
ごくり、丈一郎は息をのむ以外に何もできなかった。
「ガタガタ騒ぐんじゃねーよ。このガキにおのれらみたぁなクズどもの処理の仕方教えとんのじゃ」
声のトーンが少しづつ低く、なおいっそう落ち着いたものに変化する。
こういうシチュエーションに置かれたのはどれくらいぶりだろうか、真央自身首を傾げたが思い出せない。
ああ、いやな気分だ。
いっそ、あのころのように、一人残らずこの手で叩きのめし、血祭りにあげてやろうか。
しかし、真央は思い留まる。
くだらない話だ。
頭が悪かろうが良かろうが、こういう連中はどこにでもいる、こういう人間を叩きつぶせば叩き潰すほど、素手でギンバエをすりつぶしたような気持ち悪さしか残らない。
もう二度とこういうもめごとには巻き込まれない、そう決めたはずだ。
ふう、真央は大きく深呼吸をし、心の平静を取り戻す。
そしてにやり、自分自身のためかその少年のためか、あえて笑顔を作り少年に話しかける。
「こんな連中な、とっとと教員にチクっちまえばいいんだよ。チクることなんかな、別にだせえことじゃねえんだ。一番だせえのはな、自分が一番言いたいこと、一番腹の立たこと、一番悲しかったことを言葉にして言えないことなんだよ」
「……」
少年は目を潤ませながら、真央の言葉に耳を傾けた。
そして、何度もうなずいた。
「な? わかったらその情けねえツラそのまんま、情けねえまんまさらけ出して、先公に洗いざらいぶちまけちまえよ。こういう連中はな」
今度は三年生の顔をなめるようにじっくりと見回し、そして、吹き出すようにして笑う。
「こういう連中はな、少しでも自分より立場上の人間にはへこへこするもんなんだよ。教員がきちんと一喝いれりゃあな、そんでなんもできなくなっちまうもんなんだよ。わかるか?」
「なんだとこらぁ!」
先ほどよりへらへら笑っていた三年生が懸想を変えて真央に詰め寄る。
「俺らなめてんのか? 俺ら教員なんて、何一つ怖かねえんだよ!」
「な? 図星だろ?」
その様子を一向に気にすることなく、真央は丈一郎に微笑みかける。
そして一年生に向かい
「こうやって声を張り上げる連中に限って、何もできやしねえんだ。さっさと教員のところ言ってチクって来いよ」
と微笑みかけた。
「いい度胸じゃねえか。上級生になめた態度取りやがって」
その上級生は指をぽきぽきとならす。
「丁度いい。てめえもそいつらと一緒にぼこってやるよ。てめえもボクシング同好会なんだろ? 手ぇだしたら」
そしてあのいやらしい蛇のような笑いを浮かべる。
「同好会なんてあっという間に消滅しちまうんだからな」
「ああ、んと」
耳を小指でほじりながら面倒くさそうな様子の真央。
「やれよ。やりたきゃ勝手になぐれよ。ほれ」
そして顔をその上級生の前につき出す。
ぐいぐいぐい、フルフルと細かく顔を振る。
そして顔面を指差し
「ここだここ、間違えんなよ? しっかりねらえよ」
その挑発に、顔を真っ赤にして震える上級生。
「上等だこらぁ! 血みどろにしてやらあ!」
そして、拳を振り上げ、血相変えて真央に殴りかかる。
「うらあああああああああああああああ!」
そしてその拳が真央の顔面に突き刺さる。
バキィッ!
何かが折れたような、乾いた音がする。
「う、い、い、い、い」
しかし、それは真央の顔面ではなかった。
「いがぁぁあああああ!」
それは、殴り掛かった上級生の右拳だった。
右拳を抑え、上級生はうずくまる。
「いでえ! いでえ! いでえよを!」
丈一郎は目撃していた。
そして、それは丈一郎もリングの上で経験をしていた。
そう、真央は拳に対し、額で思い切り頭突きを返していたのだ。
まともに作ったことのないやわな上級生の拳は、固い頭部の中でも特に強固な額を思い切り殴りつけ、柔らかい拳の骨がその勢いに負けてぽきりと折れたのだ。
「あーあ、やっちまった」
顔をしかめる真央。
「素拳で顔をダイレクトに殴るなんてよ、よっぽど拳鍛えてなきゃぁ絶対に拳いわしちまうぜ。やっぱお前ら単なる弱い者いじめしかしてこなかったんだわな」
さすがに痛みは残るのか、額を抑えながら言う真央。
「なあ丈一郎、覚えとけよ? グローブとベアナックルじゃあよ、殴り方って違うもんなんだよ」
似合わないウインクを丈一郎に返した。
そして今度は一年生に向かい
「なあガキ、痛いときってのはな、ほれ、こうやって声をあげるのが当たり前なんだ。本当の弱虫ってのはな、痛みに声をあげる奴じゃねえ。自分の気持ちをキチンと言葉に、声にできねえ奴のことを言うんだ」
「……」
目を見開き、無言で真央を見つめる一年生。
「やりやがったな!」
今度は中心人物と思われる上級生が、真央に殴り掛かる。
その刹那
パシッ!
「あがっ!?」
真央はその上級生の花を掴む。
そして、ギリギリと少しずつ力を込めながらねじりあげる。
「あっ、あっ、あっ」
情けない声を出しながら、花の中心から徐々に広がる痛みに、なすすべなく両手を泳ぐようにもがく上級生。
周囲の上級生たちも、なすすべなく見守るほかない。
「きぃつけえよ」
再び瞳が曇り始める真央。
「下手に動いたら、それこそあっさり、ぽっきりいくけぇの」
そして鼻の付け根を持つ指に一層の力を込め、ギリギリとねじ上げる。
「あっ、あっ、あっ」
つうっ、ついにその上級生の鼻から、真っ赤な鮮血が流れ始める。
「あっ、あっ、あっ」
そのままボキリと鼻骨が折り取られるか、その瞬間――
すぽっ
真央は自分の鼻腔に詰めた、鼻血止めのティッシュを引き抜くと、その上級生の鼻字が流れだした鼻腔に詰め替えた。
そしてぽんぽんとその上級生の肩をたたく。
「それ、俺からのプレゼント。大事に使えよ」
「は、は、は」
へなへなと両足の力が奪われ、へたり込む上級生。
「いてぇ! いてぇよ! おがあちゃん! いしゃ! いしゅが!」
気が付けば、指の骨を折られた上級生が、言葉にならない言葉を派しながら転がりまわる。
「ないきごとゆーな」
再び底冷えのするような冷たい、見透かすような目で睨みつける真央。
「さ、丈一郎、いこーぜ。腹へって死にそうなんだよ」
「あ、ああ。うん」
あっけにとられながらもなんとか自分を取り戻し、うなずく丈一郎。
「よっしゃ。とっとといくぞ」
ふわあ、再びあくびを浮かべる真央。
「これから部活紹介もあんだろ。めんどくせーからとっととおわすぞ」
その声に従い、真央の後を追う丈一郎。
すると
「で、で、電撃バップだ!」
上級生たちから解放された一年生が、二人を指差して叫ぶ。
「お、お、お、お二人は、電撃バップですよね!?」
「「はあ?」」
振り向き、困惑した表情を浮かべる真央と丈一郎。
「「でんげきばっぷ?」」
「はい! はい! はい!」
ぶんぶんと何度も首を縦に振る一年生。
「お、お、お、お二人は、ブルーバップとイエローバップっす! すごいっす! かっこいいっす! 自分にとってのヒーローっす!」
困惑する二人をよそに、一人興奮気味の一年生。
困惑しながら、いつもの柔らかい微笑みを浮かべる丈一郎。
「あのさ、ごめん、君の言ってる事、何一つ意味が……」
しかし
「お、お、お二人は! 電撃バップっす! さささ、最強の、ひひ、ひ、ヒーローっす!」
相変わらず興奮冷めやらぬ少年。
「どうでもいいわ」
頭をわしわしとかきむしる真央。
「おら、ガキ。とっととセンコんとこ行って来い。もう俺らぁかんけーねーからよ。じゃあなガキ」
興味なさそうな様子の真央。
それに引きずられるように
「ごめんね」
小さく両手を合わせ謝る丈一郎。
「先いってんぞ」
ギィ、ドアを開けトイレを後にする真央。
「じゃあ、御大事にね」
小さく微笑みかけ、その後に続く丈一郎。
「うをおおおおおお!」
興奮を自分自身で抑えきれない少年は、何事かわからぬ声を発する。
「みみみ、見つけた! ぼぼぼ、ぼくの、ぼくのヒーロー!」




