4.9 (火)8:40
「それでは、あらためて自己紹介をします」
活舌よく、大きすぎず小さすぎない、完璧なトーンの声は、小気味よく後の席にまで響いた。
しっかりと糊付けされた紺のスカートスーツ、陽光を反射させるブラックリムの眼鏡というスタイルは、その全身から知性と冷静さを醸し出している。
そして、カツカツカツ、練習を重ねたのであろう、手馴れた手つきでチョークを黒板に走らせる。
振り向き、すう、と一呼吸はさみ
「今年度より、この2年A組の担任を務めることになる、岡添絵梨奈といいます」
目を伏すようにしながら、小さく会釈を行う。
「今までは事務関係でこの学校の運営に関わってきましたが、今年から教員としてあなたたちの前に立つことになりました。教員としてのスタートを切ったばかりです。まだまだ経験不足のところもありますが、しっかりと皆さんを指導していこうと思います。しかし――」
岡添の冷たい視線がクラス内を見回す。
そのクールな視線は、クラスの生徒たちを凍りつかせるには十分なものだった。
岡添の内面を知っている桃、葵、丈一郎、そして我らが秋元真央を除いては。
「――もうすでに受験はスタートしています。二年生の夏休みをいかに過ごすかで、今後の人生が決まってくるといっても過言ではありません」
岡添は堂々と、ある意味では芝居がかったような様子で言った。
「私が新人教員だからといって、あなた方と馴れ合うつもりはありません。教員としてびしびしと厳しくあなた方を指導していくので、そのつもりで」
ぴいん、張り詰めた空気はいつの間にか生徒たちの姿勢は正された。
秋元真央と、彼に関わった生徒たちを除いては。
「……岡添先生、気合入れすぎだよ……」
丈一郎は小さく呟き、苦笑した。
対照的に、葵は心配そうな面持ち。
「……気持ちを張りすぎて、空回りするようなことが無ければいいのですが……」
葵の頭に、数日前の図書館での思い出が蘇ってきた。
この人は、こうあろうという気持ちが強すぎて、結果思わぬところで足元をすくわれるタイプなのかもしれない、そう考えていた。
年上の女性に対して抱くことではないが、葵は目の前にいる新人女性教諭のことが少し心配になった。
窓際、右一番奥の席に座る桃は、やれやれ、といった面持ちで机に肘を突いていた。
目の前にいるのは、まるで大会社の重役のように足と腕を組み、悠然と椅子に座る真央の姿。
桃は少々苛立っていた。
どう見ても、自分がこの大きな子どものお守りを押し付けられたかのような座席の配置だったからだ。
早く席替えが行われることを祈るばかりであったが、どうやらそれも望み薄のようだ。
はあ、桃はため息をついて窓の外へと目を移した。
「くあぁ」
教壇上で何事か弁を振るう岡添をよそに、真央は大きな伸びとあくびをした。
すると
ガンッ!
「らっ?」
真央の椅子が後から蹴飛ばされた。
「てめー何すっだ! 喧嘩うってんのかよ!?」
振り向くとそこには
「……」
無表情の中に押さえきれない、休火山のような怒りを秘めた桃の顔があった。
「……ねえ、秋元君、せっかく先生がお話して下さっているんだから、もう少ししっかりと効いた方がいいんじゃないかな?」
そういうと、今度はにっこり笑った。
しかし真央は、その表情の裏に阿修羅神像のような憤怒の形相が隠されていることを、その鋭敏な野生の感で察知した。
「……うっす……」
真央は背中をちじこませて拳を握り、まるで卒業アルバムの集合写真のように前へと直った。
「それでは、私からの自己紹介と話は以上です」
岡添は、ふうっ、ゆっくりと、深呼吸をするようなため息をつく。
人知れず握りしめていたハンカチが、ぐっしょりぬれていることがわかった。
「もうお一方、皆さんにご紹介をしたい方がいます。皆さんもお気づきでしょうが、本年度より、新しい仲間をクラスに迎えることになります」
すると、右奥の窓側の席、借りてきた猫のようになってしまった真央に目で合図をする。
「昨日は始業式だけでホームルームの時間が取れませんでしたので、改めてのご紹介になります。本年度より、この聖エウセビオ学園に転校し、同じクラスですごすことになりました秋元真央君です」
「あん?」
不意を突かれた真央は、寝ぼけたような声を上げたが
ガンッ!
「ぁらっ?」
真央の椅子が後から蹴飛ばされ、その拍子にガタリ、とその場に起立する形となった。
「……ってめ!」
眉間にしわを寄せ、後を振り返るが
「……」
抗しがたい圧力を秘めた桃の笑顔に、何も言えずに黒板の方を見た。
「……どぉも、秋元真央っす」
苦虫を噛み潰したような顔で言った。
「自己紹介とは、そんなところでするものではありません」
後ろに桃が控えていることに安心したせいだろうか、岡添は冷静に言った。
「前に来て、きちんとみんなの顔を見て自己紹介をなさい」
その教員としての態度、振る舞いが、真央の反発真に火をつけた。
「ぁんだと? ずいぶんいつもと態度が……」
と食って掛かろうとしたところ
ガンッ!
「がっ?」
もう振り向くまでもない。
小さく舌打ちをして、真央は真っ直ぐに黒板へと向かった。
真央が近づくのにあわせ、岡添は少しずつ、いつでも逃げ出せるように、と考えたためであろうか、廊下の出入り口付近に移動していく。
「ったく……桃ちゃんがいるからってよぉ……」
その様子を見て、真央は再び小さく舌打ちをした。
「え、ぁーっと、んん」
教壇の上に立ち振り返ると、目の前にはおよそ40名近くの生徒の姿が見えた。
廊下側、左手奥から、桃の座る右手奥の窓際まで。
ひそひそひそ、女子生徒達がなにやら耳打ちをしあっているのが見える。
真央にたいして興味津々のようだ。
なんか、すげぇいいにおいするな、真央は思った。
どこかでかいだことがある、それはすぐに思い当たった。
奈緒や桃、葵から感じ取ることの出来る匂いだ。
匂い、というよりも香り、と呼ぶべきなのだろう、それが教室中に充満していることに初めて気付き、真央は戸惑った。
改めてもう一度教室を見回す。
小さく手を振る丈一郎、にこにこと微笑を返す葵、そして肘をついて窓の外を眺める桃。
知った顔をのぞけば、その多くが女子生徒であることに気がついた。
中学校までは共学校に通っていたが、男子生徒の方がどちらかといえば多く、女友達といえるようなものは存在しなかった。
そして、転校する前に通っていた学校は男子校だった。
真央は、これほど多くの、同年代の女性を目の当たりにするのは初めてだった。
初めておかれた環境に、心を大きく乱しながらも
「んっと、俺の……自分の名前は……」
そういうと黒板へと振り返り、チョークを握ると、力強く走らせた。
そこに大きく、秋元真央、自分の名前を書いた。
「……あきもと・まお?」
誰かが、初めて釘宮兄弟と会った時を思わせる読み違えをしたようだ。
怒鳴りつけてやろうという気持ちを抑え、真央は振り返って言った。
「まおじゃないっす。あきもと・まひろって読みます」
この少年にしては珍しい、慇懃な態度で頭を下げる。
「えー、っと、今高校2年生です」
くすくすくす、小さな笑い声が響く。
女子生徒は一様に、はにかんだような様子で真央の顔を見つめていた。
「……みんなそうだよ……」
そういうと桃は目じりを人差し指で押さえた。
今までに経験したことのない感覚にペースの乱れを感じながらも、真央は言葉を続ける。
「えっと、広島からきました。勉強とか、あんま得意じゃないんで、助けてもらえるとありがたいです」
そして、再びぺこりと頭を下げた。
「よろしくお願いしまっす!」
パチパチパチ、拍手が教室に鳴り響いた。
にこやかな笑顔を向ける丈一郎と葵。
そして、あくまでも形だけだからね、といわんばかりに無機質に手を叩く桃。
ほうっ、大きなため息つく。
柄にもなく緊張したな、と真央は胸をなでおろした。
クラスの大半が女子生徒いう環境ではあったが、思いもよらぬフレンドリーな雰囲気に、不安を抱いていた学校生活に、多少のゆとりがもてたような気がした。
しかし、それはあくまでも多少の、という形容詞の範囲内においてのことでしかない。
この甘ったるいような、シャボンのような清潔な香りの中で、真央は自分の胸がむせ返るような思いがしていた。
釘宮家でも感じていたこの香りが、何倍にもなって自分に襲い掛かってくる。
この中で、まともに取り組んだことのない、死ぬほどに大嫌いな勉強に二年間、取り組まなければならないのだ。
拍手をする生徒たちにぎこちない笑いを返しながらも
「……やっぱ俺……共学校向いてねーんじゃねーかな……」
払拭しきれない不安にとらわれていた。
「ありがとう、秋元君。もう結構よ」
冷静な岡添女子の言葉が、ようやく真央を現実世界へと解放した。
そそくさと、やや小走りに真央は自分の席へと帰って行った。
「今彼が言ったように、秋元君は広島から引っ越してきたばかりです。いろいろわからないこともあると思います。皆さん、協力してあげてください」
岡添の呼びかけに、生徒は一様にうなずいた。
「さて、本日はこのまま身体測定を行って、そのあとは新入生オリエンテーションになります」
そういうと岡添は腕時計に目をやった。
「9時半、A組は身体測定スタートになります。それまでに更衣室で体操着に着替えて、この教室に集合してください」




