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    4.8 (月)19:10

「ただいまー。んっ、しょっと」

 玄関でローファーを脱ぐ。

 そして質の良い、ふかふかとした感触のスリッパに履き替える美しい少女。

 白いエナメルのクラブバッグを抱え、住み慣れた勝手知ったる我が家を、ランウェイを歩むモデルのように歩を進める。

 やや短めのスカートから延びるすらりとした足は、白亜の階段をさっそうと通り過ぎ、そして同じく長い腕が伸び、リビングへの扉を開ける。

「あ、奈緒とマー坊、もう帰ってたのか」

 そう言ってにっこりと笑った。


「あー。おかえりー、桃ちゃん」

 甘えたような声と、甘い笑顔が桃を迎え入れる。

 奈緒は制服の上にエプロンを着て、夕食の支度をしているところだった。


「ごめんごめん、今日はあたしの当番なのにさ」

 リビングのソファーの上にバッグを置くと、桃はブレザーを脱いだ。


 ガチャリ、

「よう、おかえり」

 ふわぁ、とあくびをしながらリビングに入るのは真央。

 いつもの着古した学生服のズボンに、黒いタンクトップ。

 リラックスできているのかできていないのかわからない、いつもの真央の服装だ。


「君はいつでもその格好だな」

 呆れた様子の桃。

「ほかに君は私服を持っていないのか?」


「まあな。つーか中学校のころからいっつも学ランでいたからよ、まともな私服なんてもともと持ってねーんだよ」

 事もなげに真央は言った。


「まあ、どうでもいんだけどさ」

 桃は小さくため息をついた。

 そして奈緒に向かって

「ごめんな。明日はあたしが夕食作るからさ。それでチャラにしてよ」


「え? いいよー、気にしなくたって!」

 あわてて両手を振って見せる奈緒。

「前も言ったかもだけど、最近ねー、ご飯作るの結構楽しいんだー」

 そしてリビングに足を運ぶと

「まあまあ、すわってすわって」

 桃を着席させた。


「おう、待ってんぜー」

 その言葉に、便乗するかのようにテーブルに座る真央。


「……君も少しは手伝ったらどうなんだ?」

 じとり、とした目で真央を睨む桃。


「まあまあ、こまけーことは気にすんなって」

 そう言って口元をゆがめる真央。


「えへへへー」

 その様子を見た奈緒はとろけるような笑顔を見せ、再びキッチンへと消えていった。

 


 

「今日の練習会、どうだったんだ?」

 リビングのテーブルに、コーヒーを乗せたトレイを手に桃が声をかける。

「あの、この間の鶴園先生たちと練習したんだろ? 手ごたえとか、つかめたのか?」

 そして二人の前にコーヒーカップを置いた。


「うん!」

 大きな笑顔で答える奈緒。

「丈一郎君もね、マー坊君もね、二人ともすっごく頑張ってたよー。特にマー坊君なんか、インターハイ出場間違いなし! って感じだったんだから」


 興奮気味の奈緒の様子を、桃は目を細めて眺めた。

「そっか。よかったな」

 そして真央の方を向き

「すごいじゃないか。インターハイ出場確実だなんて」


「ん? ったりめーだろ」

 真央は胸を張るかのように答えた。

「なんつったって俺はよ、金メダル取ってラスベガスでデビュー戦やる男だからよ」

 そう言うと一口、コーヒーをすすった。

「イギー・ポップの『ラスト・フォー・ライフ』大音量で流してよ、そんでデビュー戦を1ラウンドナックアウトで飾るんだよ」

 

「わー、すごーい!」

 奈緒は目を丸く輝かせて、ぱちぱちと両手を叩いた。


「ずいぶんと自信があるようだけど、インターハイをそんなに甘く考えていていいのか?」

 同じくソファーに座った桃が、疑問を口にした。

「野球もそうだけど、プロに直結する世界じゃないか。そうそうスムーズに事は進まないと思うけどな」

 そして、桃もコーヒーを一口すすった。


「そう言えばね、群馬にすごい選手がいるらしいんだー」

 人差し指を上げ、奈緒が思いついたかのように言った。

「なんかねー、丈一郎君の雑誌に載っていたんだけど――」




「――っていう選手なんだ」


「成程。群馬の超新星、神崎桐生、か」

 腕組みをして桃はうなずいた。

「1年生ですでに全国優勝を二回も成し遂げているのか。本当に天才なのかもしれないな」

 真剣な表情で桃は呟いた。

 桃自身も、陸上選手として全国大会出場を目指している。

 競技が異なるとはいえ、一年生がそれを成し遂げることがどれだけ厳しい事か、桃もよく理解していた。


「関係ねーよ」

 ピッ、真央はリモコンでテレビのスイッチを入れた。

「天才は二人もいらねーよ。俺がそいつぶっ倒して、どっちが本物の天才か、白黒はっきりつけてやるよ」


 その横顔を、桃は無言で眺める。

 この少年がこういう態度をとる時は、その言葉とその心は正反対である時が多い。

 気にしていないとは言いながら、その実何度も頭の中で“神崎桐生”の名を唱え続けていることだろう。

 しかし、強豪西山大学付属の選手ですら太刀打ちでいなかったこの少年に、ライバルの存在という今までにない状況が生まれるかもしれないのだ。

 それは決して悪いことではない、桃はそう考えた。


「でねー、提案があるの」

 再び奈緒が口を開く。

「今度さ、みんなで群馬県に偵察に行こうと思うんだー」


「うん、いんじゃないか」

 桃はそれに同意した。

「全くて気に対する情報がないよりは、あった方が絶対にいいからな」


「うん、だから、桃ちゃんも一緒に行こうね」

 にこにこと言葉を付け加える奈緒。


「あ、あたし?」

 素っ頓狂な声をあげる桃。

「何であたしまでいかなくちゃいけないんだよ!」


「いーよ、奈緒ちゃん。俺らだけでさ」

 TV画面を見ながら真央は言った。

「かんけーねー人間がいったってしょうがねーだろ。俺らだけで行こうぜ」


 ぴくん、その言葉に反応する桃。

「わ、わかったよ! あたしも行くよ! しょ、しょうがないな」

 そう言うと桃は爪を噛んだ。


「? どうしたの? 急に」

 キョトン、として首を傾げる奈緒。

「変な桃ちゃん」




 すると、TVスクリーンから、もはや聞きなれた、耳をつんざくような派手な効果音が流れた。

“さあ今週も始まりました、週刊ワールドボクシングサテライト、ナビゲーターの橋本真奈美です”

“同じくナビゲーターの、松本健二です”

 WEWWEWのボクシング情報番組、ワールドボクシングサテライトだった。




「あー、もう“ワーサテ”放送の日なんだ」

 ちらり、カレンダーに目をやる奈緒。

「一週間たつのって早いねー」




 派手な効果音の中、司会者たちは番組を進行する。

“さあ、今秋飛び込んできた、ホットなボクシング情報をいち早くお届けします”


“まずはこちらです”

 男性司会者がそのように促すと、画面はVTRへと切り替わった。


“元オリンピックメダリスト、スン・シャミンが初黒星です”

 女性司会者が、立て板に水、という風に原稿を朗読した。

“スン・シャミンは、中国人初のボクシング金メダリストとして、フライ級で鳴り物入りのデビュー。連勝を重ねてきましたが、10戦目にして初の黒星が付きました”

 画面では、強烈な右ストレートでダウンを奪われるスン選手の姿が大写しにされていた。


“これは大きな誤算でしたね”

 元ボクシング世界チャンピオンの男性司会者が言葉を加えた。

“スン・シャンミンと、アジア市場、特に中国、日本市場を開拓するために契約を結んだロバート・ホフマンでしたが、これでアジア進出戦略を大きく見直す必要性に迫られると思いますね”




「そうそう、丈一郎君の持ってきた雑誌に、このこともかいてあったよー」

 奈緒は再び口を開いた。


「まあ、いくらボクシングの本場っつても、アメリカ市場だけじゃもう頭打ちなんだろーよ」

 真央も呟くようにして言った。

「そもそもがボクシングにほとんど関心がなかった中国、世界戦もふくめて国内にクローズドの日本、これを一気に黒船来航と行きたかったんだろうけどよ、そう簡単に事は運ばねーだろ」


「そういうものなのか?」

 真央の言葉に、桃が疑問を差はさんだ。

「じゃあ、このスン・シャンミンのほかに、だれが――――」




“そこで注目されるのが、やはりこの男、フリオ・ハグラーです”

 桃の言葉を遮るかのように、モニターから女性司会者の声が響いた。

 そして、先日のビヌワ・ブウェンゲ戦の様子が流された。


“そうですね”

 男性司会者も同意した。

“そもそもロバート・ホフマン氏はフリオ・ハグラーをアジア進出のキーマンとしていたわけです。もう一度このフリオ・ハグラーを、と計算高いロバート氏が考えたとしてもおかしくはないでしょう。そもそもブンブーン相葉にかかわるリング禍もあり、日本では――”


 ピッ、真央は無言で電源を落とした。


「ほえ?」

 不意の、予想もつかない真央の行動に、奈緒は間の抜けた声を漏らしてしまった。

「どうしたの急に? もう見ないの?」


 すると真央は頭をかきむしりながら言った。

「あーん、と。おれさ、さすがに疲れたからさ」

 そう言うと立ち上がり、大きな動作で腰を伸ばした。

「わりーな、先に風呂入らせてもらうわ。んじゃな」

 そう言ってリビングを後にした。


 その後姿を、桃は無言で見つめていた。

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