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    4.8 (月)17:40

「んーっ、と」

 電車の座席で、丈一郎は両手を前に組み、大きく伸びをしてみせた。


 西山大学附属は、都心から離れた聖エウセビオよりもさらに離れた市部に位置している。

 本来ならば帰宅ラッシュでごった返している時間帯ではあるが、まるで地方路線の車内のように人影はまばらだった。


「あー、つっかれたなぁ。マー坊君との練習もきついけど、今日は別の意味でも疲れちゃったよ」


 それもそのはずだ。

 高校ボクシング界の強豪校、西山大学附属での合同練習。

 強豪校の濃密な練習内容に加え、ライバル校の生徒たちとともに同じ練習をこなす。

 自分たちの学校のプライドも混じった、奇妙な空気の中で練習を行ったのだ。

 肉体面、それ以上に精神面における疲労が練習後の緊張の弛緩とともに一気に襲ってきた。


「でもさー、すごくいい練習がでいたと思うよ」

 丈一郎の右隣でにこにこと笑顔を返す奈緒。

「それに、インターハイ予選で対戦しそうな選手ともスパーリングできたじゃない?」


「そうだねー。けど意外だったなー。杉浦くんがバンタム級に階級を上げちゃってたなんて」

 アマチュアボクシングにおけるバンタム級とは、丈一郎が所属するフライ級の一階級上に属する。

 ウェイトで言うと、52kg~56kgに相当する。

「まあ、もしかしたらもともとそれぐらいが適性体重だったのかもだけどさ」


「そうだねー。この間のリベンジ、インターハイで果たせるかと思ったから、ちょっと残念だねー」

 両足をプラプラさせながら奈緒は言った。

「その代わり、今度の関東予選のフライ級の選手とスパー出来たし、よかったんじゃない?」

 そういうと、ドアの横にもたれかかり、車窓を眺める真央を見た。

「ね? マー坊君もウェルター級の選手とスパーできたし、関東大会までの道筋が、少しはついたんじゃない?」


「そうだよ、マー坊君」

 同じく丈一郎も語りかける。

「相手のウェルター級の選手、皆川君だっけ? もうはっきり言って全然相手になってなかったよ!?」

 興奮気味に、拳を握りしめる丈一郎。

「あの西山大の選手相手に、一方的に、何もさせずに勝てるだなんてさ。もう絶対、マー坊君なら関東勝ち上がってインターハイ出場できるよ!」


 しかし、その二人の興奮をよそに

「……」

 真央は車窓に流れる、緑の多く残る郊外の風景を無言で眺め続けていた。





「リングを降りたら、少し話したいことがあるのだが、よろしいかな?」

 鶴園は、リング上の真央にこう語りかけた。

「ニ三、気になることがあってね」


「おう? 別にいいぜ」

 グローブとヘッドギアをはずし、肩にタオルを掛けたまま真央は言った。

 そしてそのままロープをかいくぐると、タオルで頭を拭きながら鶴園の前に立った。


 岡添は、その接近した分そのままに真央から距離をとった。

 リング上では、今度は丈一郎がスパーリングに臨み、奈緒は真剣にその様子を眺めている。


「なんか用か? 鶴園サン」

 スパーリング直後の興奮を抑えいれないかのように、大胆不敵な様子で真央は言った。


「いやはや、素晴らしいものですなぁ」

 柔らかい笑顔を見せながら鶴園は言った。

「反射神経にスピード、それにパンチ力、もはやいうべきこともない」

 真央の持つその才能への賛辞を送った。


「ああん? 当然だろ」

 その言葉とは裏腹の、少々の照れを含んだ笑顔を見せた。

「なんつったって、天才だからよ。オリンピックで金メダルとって、ラスベガスでデビュー戦やる男だぜ、俺は」


「それだけに、少々修正すべきところも見受けられる」

 そういうと、鶴園はファイティングポーズをとった。

「君のディフェンスは、ほとんどがダッキングやウィービングに頼っているところが多いね。一応気を使ってはいるようだが、時折」

 鶴園は肩を支点に両腕を上げ下げした。

「時折、というよりもかなりの頻度で、このようにガードが下がるときがある」


 その言葉に、真央は頭をぼりぼりとかいた。

「あぁーん、と。まあな、あんたのいうように自覚はあるんだけどよ。くせなんだよな」


「今はまだいいだろう。うちの皆川程度の相手ならばな」

 その声のトーンは、次第に真剣なものへと変わっていった。

「しかし、君は確実に関東大会へ出場するだろう。そしてそれ以上の相手、インターハイにおいてそこを弱点として必ずついてくる相手が現れるだろう。ましてや、それに君が最終的に目指すプロのリング、そこにおいては文字通りの致命的なミスとならないとも限らない。」


「……」

 その言葉に、真央は無言で、鶴園を睨みつけるようにして耳を傾けた。


「おそらく君のディフェンス技術、防御勘、君の言うとおり天性のものなのだろう」

 鶴園は冷静に、先ほどまでに分析してきた真央の能力を言い当てた。

「しかし、もしそれが少しでも衰えを見せ始めたとき、その勘をも上回るようなスキルを持ったボクサーと戦うとき、必ずガードする技術というものが必要になってくるはずだ。そう、君が最終目標とする、フリオ・ハグラーと戦うときにはね」


「わかってんだけどな」

 再び真央は頭をかいた。


「それともう一つ」

 そういうと鶴園は再びファイティングポーズを取り

「君の繰り返すこのダッキング」

 リング上で真央が見せた、上体を大きく前に倒すダッキングを再現する。

「プロのリングではともかく、オリンピックルールのボクシングでは、自分のつま先の位置を超えるようなダッキングは、バッティング行為と取られかねない。気をつけた方がいい」


「ああ、これか」

 そういうと真央は、確かめるかのようにダッキングを繰り返す。

「わーったよ。確か……こう……」

 集成するかのように膝を大きく曲げるダッキング方法に修正した。

「……確かこうでいいんだよな」


「そうだね」

 鶴園はうなずいた。

「それと、これも時折見せる君のフックだ。こう、こうだ……」

 今度は何度か左フックを繰り返す。

 体の回転を使いながら、肘を小さく折りたたんだ、上から負いかぶされるようなフックだ。

「オリンピックルールでは、きちんとナックルパートを当てなければならない。君のこのフック、プロのリングではともかく、アマチュアではオープンブローの反則を取られかねないだろう。注意した方がいい」

 そして、教科書通りの綺麗な弧を描く左フックを見せた。


「こう……こうか?」

 その動きをトレースするかのように、真央も左フックを放った。

「……慣れねーと結構大振りになるんだな。まー、予選までには修正しとくわ」


「最後に」

 そういうと鶴園は小さな咳払いをした。

「君は、リングの上だけの人ではないね?」


 その言葉を聞くと、真央の視線は急に険しくなった。

「どういう意味だ?」


 その様子を見て、鶴園は小さくうなずき、言った。

「やはりな。君のシャドウの様子を見れば、なんとなく理解がいく。君は幾度と無く路上での経験を繰り返しているね?」

 そういうと鶴園は、小さくジャブとストレートを繰り出す。

「君の拳の握り、どちらかというとベアナックルでの出し方に近い。君の拳の与える痛さ、硬さの正体はそこにあるのだろう」


その言葉を聞くと、真央は小さく舌打ちをした。

「昔の話だよ。蒸し返したってしょうがねーだろ。もう路上で無茶なんかしてねーよ」


「その上で聞きたいことがある」

 鶴園は真剣な表情で、じっと真央の目を見つめて鶴園は言った。

「確かに君のボクシングスタイル、中南米にいる路上上がりのボクサーをほうふつとさせるものだ。しかし、君の持つリズム、それは常人のもつそれではない」

 すると鶴園は小さくステップを刻んだ。

「加えて君の持つ、尋常ではない反射神経とセンス、君がただの路上上がりのボクサーであるとは到底思えない。君は――」


「勝手に人を見透かしてんじゃねー」

 殺気のこもった視線と、怒気を含んだ言葉を真央は返した。

「それ以上口開くな。あんたにゃかんけーねーだろうがよ、そんなこと」


 かなり距離をとっていたはずの岡添でさえ、背筋が凍り引き付けを起こしかねないほどの迫力だった。


 ふうっ、鶴園は小さくため息をついた。

「わかりました。ならばあえて聞くことはやめましょう。ただ、細かなルールの違いについてはしっかりと把握しておきなさい。わかったね?」


 その言葉に、真央は小さくうなずいた。

「ああ。わかった」




「――ん――」

「――坊くん――」

「マー坊君!」


「お!? おお、どうしたよ?」

 その呼びかけにようやく真央は反応した。


「それはこっちのせりふだよー」

 ケラケラと笑いながら奈緒は言った。


「ずっと窓ばかり見てたからさ」

 同じくへにゃっとした笑いを見せる丈一郎。

「立ちながら寝ちゃったのかと思ったよ」


 へっ、真央は小さく笑って鼻をかいた。

「わりーな、ちっとばかし疲れたみてーだわ」

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