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    4.8 (月)15:40

「ふっ、ふうっ!」

 第2ラウンド目、皆川は必死の形相で左ジャブを主体とした、基本に忠実なコンビネーションを繰り返す。

 しかし、その拳はことごとく空を切った。

 独特のリズムを刻む真央の一挙手一投足、そこにあったはずの急所は、拳が届く頃には全てそこには存在しなかった。

 細かな、変則的なリズムを刻む真央の姿を追う、たったそれだけのことで皆川の体力は少し筒削られていった。

「ふわぁあ!」

 渾身の力を込めた左フックを放つも


 クンッ、大きく体を沈めるダッキングでそれをかわす真央。

 そして上体の起き上がりと同時に右拳を構え、的確に皆川のあごを捉える。

 しかし、その力は皆川自身が驚くほどに柔らかなものであった。

 グローブの中にある拳の硬さを感じさせない、まるで拳を覆うグローブの厚さを完全に測りきり、威力が伝わる領域を薄皮一枚で止めているかのようだった。


 しかし、皆川の頭の中に、真央が山本をノックアウトしたシーンと、つい3分前の硬い拳の痛みが蘇った。

「ひっ!」

 顔をしかめ、大げさに頭をのけぞらせ、逃げるように後退する。


 その様子にもかまわず、真央はまた猟犬の如く一挙に距離をつめる。

 完全に皆川のリーチを把握したのだろうか、もはやグローブの薄皮一枚を当てるだけのパンチを何度も繰り返す。

 

 しかし皆川は完全に戦意を失っていた。

 ただ顔に一枚吸い付くだけのグローブの皮面に、大げさに反応していた。

 ぐいぐいと迫り寄る真央の圧力と、記憶に刻み込まれた拳の痛みに、完全に心が膝を屈していた。

 

 シュンシュン、シュンッ

 真央の拳はその回転数とスピードのみが上がり、その威力は完全にダメージを与えるか与えないかの寸前で止まっている。

 何度も体を、そして頭を振り、その圧力のみが強まるも、決してダメージを与えることはない。


 


「……」

 その姿を、一言も発することなく岡添は見つめていた。

 前ラウンドは不意の出血に思わず目をそらしてしまった岡添ではあったが、リング上の真央の動きはそれを忘れさせるようなものだった。

 全身を小刻みに揺らしながら、さらに大きく揺れる頭と全身、そして獲物に位つくように飛び掛る猟犬のような跳躍、そこには暴力の持つ凄惨さが完全に姿を消していた。


 その様子を見ながら、鶴園は岡添に語りかけた。

「素晴らしいとは思いませんかな?」


「えっ?」

 ドキッ、その声に岡添は体を硬直させた。

「……ど、どういう……」


「ほっほっほっ」

 柔らかく笑って鶴園は言った。

「あの秋元君の動き、単なる喧嘩などとは一線を画すものです。ある作家の言葉ですが、ボクシングとは、唯一“暴力が芸術に昇華された”形態なのですよ」


 その言葉に、岡添は小さくうなずいた。

 もはや目の前で繰り広げられている光景は、もはやまるで一個の前衛芸術における身体表現を見ているかのようだった。


「しかし、彼、秋元君は素晴らしい」

 鶴園は再びリング上に目を移す。

「もはや完全に皆川との力量差を見切ったのでしょう。まるで皆川を相手にシャドウボクシングをしているようなものです」


 その言葉に、岡添もリング上に目を移した。

 確かにその通りだった。

 もはや真央は完全にリングを支配し、リングにおける唯一の人間であるかのように振舞っていた。

 そう、まるでたった一人で踊っているかのように。


「技量だけではありません」

 鶴園はじっと真央の動きを見つめたまま言った。

「何よりもあの闘争本能、力量を見切ったとしても手数を減らすことはない。そういう点では全くの手加減を知りません。そしてなによりも――」




 リング上では、真央が小刻みな動きと大きな動きをミックスし、独自のリズムを刻みながら皆川に挑みかかる。

 皆川はその一つ一つに反応し、まるで怯えた子どものようにも見えた。




「――なによりもあの独特のリズムです。通常のリズムとは違う、彼独自のリズム」

 真央のステップに合わせながら、首でそれをカウントするような動きを鶴園は見せた。

「独特のリズムのフットワーク、ボディーワークの動きと、まるで不協和音を醸し出すかのような小さな全身のリズム。まるでその動きの一つ一つ、全てにナチュラルなフェイントがかけられている様なものです。その証拠に、ほら――」




 真央がフットワークやジャブを繰り出そうとするたびに、ピクリ、皆川は何かにつられるかのようにそれに反応する。

 そのたびに体は一瞬の硬直を見せ、その柔軟性を失った体に拳がフィットする。




 鶴園はその様子を指差した。

「――御覧なさい。秋元君がただその場でフットワークを踏むだけで、皆川はいちいち何かに反応し、体を硬直させています。あれがいけない」


「何がいけないんですか?」

 その言葉の真意を測りかね、岡添は訊ねた。


「“のれんに腕押し”なんて言葉もありますが」

 言葉を選びながら鶴園は語った。

「フェイントの怖いところは、まず、体をデコイの拳に反応させ、無防備の状態を作り出してしまうところにあります」


 岡添はうなずいた。

 サッカーなどでもよく耳にする言葉だ。

 それがボクシングにおいても成立しうる、十分にありうることだ。


「しかし、それだけではない」

 鶴園は言葉を続けた。

「フェイントに体が反応するたびに、体は一瞬の硬直を見せる。普通ならば、多少被弾したとしても、体重移動などで威力を逃がすことができます。しかし、体が硬直した瞬間を狙われてしまえば、その威力を逃すことが出来ずに100パーセント体重の乗った拳を食らうことになります。これは――」


 岡添は先ほどリング上で展開された光景を思い出した。

 そしてその意味がわかった。

 寸前で威力を殺すライトコンタクトであるとはいえ、一瞬一瞬で皆川は体を硬直させ、その一瞬、最高のタイミングを逃すことなく、急所をピンポイントで捉えたのだ。


「――これは通常のトレーニングで身につけられえることとは到底考えられません。本当に、一体これほどの技術を、どこで彼は身につけたというのでしょう」

 鶴園はため息をついた。


「彼は常々口にしているのですが」

 岡添は言った。

「自分は天才だ、と。もしかしたら、本当に彼は天才なのでしょうか」

 

「ほっほっほっ」

 傲岸不遜なその言葉に、鶴園は顔をほころばせた。

 そしてすぐに、その表情は真剣なものに戻った。

「まあ、確かにそれもあるのでしょうな。最高のタイミングで急所に噛み付くあの嗅覚。センスによるところが大きいのでしょう。しかしそれにしても……」

 そして、再びそのまま鶴園は押し黙ってしまった。


 岡添も、黙ったままリング上に目を移した。




 カァン、3分の終了を告げるゴングがなった。


「さて、と」

 それを待ちかねたかのように、鶴園はパイプ椅子から立ち上がり、リングへと歩みを進めた。


「あっ」

 慌てて岡添もその後を追った。




「おつかれー、マー坊君」

 奈緒は試合用の水瓶から、真央に水を含ませた。

「いつものスパーは2分間だから、疲れたんじゃない?」


「んあ」

 真央はそれを口に含むと、ぐちゅぐちゅとすすぎ、バケツにマウスピースごと吐き出した。

「そうでもねーよ。もともとプロ目指してトレーニング積んできたからな。まあ確かに久しぶりだったけど、体は覚えてるもんだな、いつもよりも調子よかったくらいだぜ」

 そういって口元をゆがめた。

「さってと、もう1ラウンド、張り切っていくかなっと――」


「今日はこの位にしてもらえんかな」

 リング下から鶴園が声をかけた。


「鶴園監督!」

「おう、鶴園さん」


「君はまだまだこれからが本調子、というところでしょうが――」

 そういうと鶴園は顔で向こうサイドのリングを指した。

「見ての通りです。これ以上やったら、皆川は完全に立ち直れなくなるでしょう。やはり自分の生徒はかわいいものですからな」

 向こうに見える皆川の顔は蒼白だった。

 一年間、インターハイに向けてトレーニングを積んできた。

 スパーリング大会では、多幸の生徒を相手に一勝もできた。

 しかし今日この瞬間、その自信は完全に打ち砕かれた。

 インターハイ予選で確実に対戦するであろう男に、自分のボクシングが全く通用しなかったのだ。


 その言葉に、真央はグローブを解いた。

「ん、まあしょうがねーな。久々の同階級とのスパーだったモンで、ついつい嬉しくってな」


「ほっほっほ」

 鶴園は柔らかく笑った。


 岡添は、そこからだいぶ離れたところでその3人のやり取りを眺めていた。


 そして鶴園は、真央に向かってこう切り出した。

「リングを降りたら、少し話したいことがあるのだが、よろしいかな?」

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