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    4.8 (月)15:30

「いいか皆川? 緊張するんじゃねえぞ?」

 コーナーポストからせり出したスペース、エプロンと呼ばれる場所に立つ山本は、後輩の皆川の口にマウスピースをねじ込む。

 そして、チラリ、向こう正面のコーナーで軽々とフットワークを踏む真央を横目でにらみつけた。

「あの野郎も今度の関東予選、ウェルター級でエントリーだ。中量級以上の選手層から考えたら、どうあがいたってお前はあいつと対戦するんだ。今のうちにしっかりとあいつの動きを体感して研究するんだ。わかったな?」


 しかし、肝心の皆川の方はと言うと 

「い、いやでも、山本さん……」

 すでに向こうサイドの真央の存在に飲み込まれていた。


 一ヶ月ほど前のスパーリング大会の会場に、この皆川もいた。

 そして自分たちのコーチを務める、ミドル級のインターハイ選手の山本にほとんど何もさせずにナックアウトした瞬間を目の当たりにしていた。

 この皆川も真央の動きに魅了された一人であった。

 しかしその男が、目の前にいる。

 そしてマススパーながらもグローブをあわせることになる。


「……山本さんをノックアウトするような奴、俺なんかで……」

 ゴングの前から完全に戦意を喪失していた。


「つべこべぬかすんじゃねえ!」

 山本は皆川のタンクトップを掴んだ。

「ウェルター級はお前しかいねえんだからな! 関東予選の前哨戦だと思ってやれ!」


「わ、わかりました……」

 その剣幕に押されるように、恐る恐る山本は言った。

「……じゃ、じゃあせめて……あいつの弱点とか、なんでもいいんで、山本さんの知ってる範囲で教えてくれれば……」


「あぁ?」

 山本は再び真央の様子を見る。

 再びこころにあの瞬間がよぎる。

 無意識のうちに山本は自分のあごを撫でた。

「……と、とにかく手数だ! 手数出して何でもいいからナックアウトしちまえ!」


 すると皆川は疑り深そうな目をして言った。

「……山本さん……もしかして、なんも思い浮かばないですか?」


「うるせえ!」

 山本は皆川の肩口を叩いた。


「おーい、ふけ顔、準備はいーかぁ?」

 手足をぶらぶらと振り、リラックスした表情を見せる。

「こっちはもう準備万端だぜ?」

 首をコキコキと鳴らすと、退屈そうにあくびをした。


 再び真央にチラリと顔をやると、皆川の肩を組み耳打ちした。

「……いいか? 相手はお前より力量は数段上だ。だからこそマスだと思うな」

 今度は励ますような、やや優しいトーンで語りかける。

「お前だって、この名門西山大附属で一年間みっちりトレーニング積んで、この間のスパーリング大会でも勝ったじゃねえか。試合のつもりで、ノックアウトするつもりでやれ? わかったな?」


「……でも、山本さん……」

 生まれたての子鹿のような表情の皆川。

「……そんなことしたら、あいつも本気になってくるんじゃ……」

 

 その言葉を聞くと、山本は真っ赤になって怒鳴り

「うるせえ! やりゃあいいんだよ! やりゃあよ!」

 皆川の頭に拳骨を振り下ろした。


「準備いーですかー?」

 にこにこと、リング下から奈緒が山本に話しかける。


「うん、うん、いつでもいーよー」

 その笑顔につられ、急にデレデレとした表情に変わる山本。


「……」

 その様子をじとりと見つめる皆川。


 はっとそれに気づいた山本は

「とっと準備しろ!」

 と怒鳴りつけた。


「じゃあいきまーす!」

 元気な声と


 カァン、三分間の開始を告げるゴングの音が響いた。




「ボクシングの試合、とはいってもマススパーですが、ご覧になられるのは初めてですかな?」

 鶴園は岡添に語りかけた。

「これはマススパーといって、試合形式の練習でもライトコンタクト、寸止めで行われるものです。インターハイ予選も近いですからな。まあこの程度で、というところです」


「え、ええ」

 困惑を隠すことが出来ないまま岡添は答えた。

 生まれて初めて目にする、ボクシングの試合。

 鶴園は試合ではないといったが、そもそも両者の区別がつかない岡添にとっては同じことだ。

 目の前の、50センチばかり競りあがったステージのようなリングで半裸の男達が殴りあう、岡添にとっては全く理解しがたい光景が目の前に広がっていた。


「ほっほっほっ」

 小さく何度もうなずきながら鶴園は笑った。

「まあ、ボクシングというのは煎じ詰めれば個人間の闘争、プライドのぶつかり合いですからな。女性にとって野蛮なものに見えても不思議はない。さきほどっ申し上げたように、まずは秋元君がどれだけのボクシングを見せるか、そこに注目することとしましょう」


「……わかりました」

 顔をしかめながらも、リング上に目を移す岡添。

 そこで展開されていたのは――




 ――ヒュン、ヒュン、ヒュン、左右に頭、そして体を振り、皆川のジャブのほとんどを交わし続ける真央の姿だった。


 ガードをがっちりと固めて左ジャブを放つ皆川。

 しかし真央は刹那のステップで左に回り込み、左ストレートをカウンターで返す。

 あっという間に皆川の顔が赤くなる。

 そのたびに皆川はピボットをしてその姿を射程圏内に捉えようとするが、真央はにじり寄るようなウィービングで皆川の懐にもぐりこみ、ボディーとあごへアッパーカットを放つ。

 皆川は意地になって左右のフックやアッパーを試みるも


 ヒュン、ヒュン


 ほぼノーガードの真央はそれの全てに反応しダッキングやパーリングでそれをカットする。

 たまらずクリンチをする皆川を無理やり引き剥がすと、皆川は大げさな後退を見せる。


 すると真央は

 

 シュンッ


 わずか一足で数メートルの距離を縮め、再び皆川に挑みかかる。 

 



「いやはや、なんとも……」

 鶴園はリングで展開される光景に、鶴園は驚嘆の混じったため息をついた。

「これでも皆川は、一年間徹底的にトレーニングさせて技術を叩き込んできたつもりなのですがな。関東大会、インターハイ出場も狙えるはずだったのですが……教えるほうとしてもなんとも無力感を感じさせられますな」


「……」

 岡添は無言でその様子を見つめていた。


 真央の、ライトコンタクトとはいえ確実に捕らえるその拳を浴び、見る見る変色する皆川の顔、そしてボディーに拳が食い込むたびにゆがむその表情、その一つ一つがまるで自分に浴びせかけられているかのような気がした。


 本当にこれがライトコンタクトなのだろうか、ぶつかり合うグローブの音、そして叩き込まれる拳の音は、それだけで相手が壊れてしまいかねないと危惧してしまうほどのものだった。


 気がつくと、岡添の手はぐっしょりと汗でぬれていた。

 あわててバッグからハンカチを取り出すと、それをぎゅ、っと握りしめた。




「ふっ、ふうっ!」

 完全に真央に主導権を握られ、さらに幾度となく内臓へのダメージを重ねた皆川は、あっという間に呼吸を乱しはじめた。

 絶え間なく繰り出される真央の攻撃、それに反応する細かい動きだけでも皆川の体力は消耗させられた。

 さらに

「!」


 パァン




「いやっ!」

 岡添は小さな叫び声を上げ、顔をしかめた。

 ふん、と息を吐く皆川の鼻から、霧のような血が舞っていた。




 今まで手を合わせたどのボクサーとも違う、独自のリズムを刻む真央のスタイル。

 ガードしたはずの左拳はそれをかいくぐり、確実に皆川の急所を捉えていた。

 当然ライトコンタクトのルールであったが、あまりにもタイミングがそろいすぎ、さらに真央の不規則な動きに体が不要な反応を示し、ガードをしながらもノーガード状態で拳を被弾したのだ。


「あの子は大丈夫なんですか? すぐに医者に見せた方が」

 顔をしかめながら、岡添は鶴園に訴えた。


「いや、あの程度ならば大丈夫でしょう」

 鶴園は、真剣に、そして冷静にその情況を分析した。

「おそらくは粘膜同士がぶつかり擦れての出血でしょう。骨に異常があれば、あの程度の出血ではすみませんよ。それに秋元君も、マススパーでこれ以上顔面を攻め立てることはしないでしょう」




 その言葉通り、真央の拳はこれ以上顔面を攻め立てることはなかった。

 しかし、真央は再び体を上下左右に変幻に動かし、今度はストマック、レバーといった内臓、そして肋骨の先端部分などに拳をぶつけた。

 ある意味では顔面を打たれるよりもきついかもしれない。

 コーナーに追い詰められた皆川の顔は、今度は見る見る青くなった。

 絶え間なく浴びせられるボディー攻撃に耐えようと体を踏ん張らせると、まさしく呼吸をする間もなくなっていたからだ。

 このままでは呼吸をするどころではない、むしろ喉の奥から胃液がこみ上げてくる。

 もう無理だ。

 そのとき、ようやく


 カァン、三分間の終了を告げるゴングがなった。


 皆川はフラフラとコーナーへと戻っていく。


「おらしっかりしろ、皆川!」

 言葉とは裏腹に、心配そうな様子で駆け寄る山本。


「……やまもっさん、しゃれなんないっす……」

 いやいやをする赤ん坊のような表情の皆川。

「あいつの拳、痛いんです。わかります? とにかく、痛いんです」


「……」

 その言葉の意味を、山本は誰よりも知っている。

 再びあのときのことを思い出し、ぞっとする。


 卓越した反射神経によるディフェンス技術だけではない、何よりも、真央の拳は痛いのだ。

 グローブをつけているはずなのに、まるでベアナックルで殴られているかのような感覚を覚えた。

 重いパンチ、シャープなパンチ、様々な質のパンチを経験してきた。

 しかし、真央の拳の質はそのどれとも違う。

 とにかく硬くて痛いのだ。

 おそらく皆川も、途中から嫌倒れしたいほどの痛みを味わっていたのだろう。

 山本は戦慄した。

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