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    4.8 (月)14:00

 カァン、デジタイマーのゴング音がジムに響き渡る。

 その音にあわせ、十数名の男たちが一斉にロープスキッピングを開始する。

 

「よーぉし、3ラウンド、休憩なしでぶっ続けだ! 気合入れて行けよ!」

 学生コーチの山本のどすの利いた声がそれに続いた。


「「「おーっす!」」

 ロープを飛びながら、ボクサーたちはそれに答えた。



「あれは……何となく見たことがあります。ボクサーの縄跳びですよね」

 さすがにボクシング音痴の岡添でも、それくらいは知っていた。


 ヒュンヒュンヒュン、空を切り裂く鋭利なロープの音、タタタン、タタタン、タタタン、ほとんど体を上下させることなく、それを警戒に飛び越えるステップ。


 まるで弦楽器と打楽器の小さなオーケストラのようだ、岡添は思った。

「普通の縄跳びとは、スピードも体の使い方もだいぶ違うものですね」

 すでにたっぷりと汗をかき、ジャージーを脱ぎ捨てタンクトップ姿になったボクサーたちの肉体には、しなやかな筋繊維と血管が踊るように浮き出ていた。

「……」 

 その少年たち、すなわち若き男たちが大勢群がるその気迫に、岡添はやはり後ずさりした。

 その中で、フゥオン、フゥオン、フゥオン、フゥオン、空を切り裂く鋭利な音ではない、鈍く響く低温が混じっていることに岡添は気が付いた。

「……この音は、いったい何の音でしょうか」


「ごらんなさい、彼ですよ」

 鶴園が指さすその方向には


 フゥオン、フゥオン、フゥオン、フゥオン、歯を食いしばりながら必死の表情でロープをスキップする真央の姿。

 すでにタンクトップではあったが、先ほどとはうって変わって真っ赤に紅潮した顔、針を差せばはじけ飛びそうなほどに晴れ上がった上腕、そしてかすかにもれるうめきにに似た声。

 同じロープスキッピングを行いながらも、真央だけが何か別次元の動きをしているようにも思えた。

「彼……秋元君だけが周りの選手たちとは様子が違いますが、いったいどうしてでしょうか?」


「あれをごらんなさい。彼の握っている、ロープですよ」

 鶴園はそう言うと、パイプイスの後ろから縄跳びを取り出して示した。

「これが丈一郎君やほかの内の生徒たちがつかっているロープです」


 岡添はそれを手に持ってみた。

 いわゆる一般の縄跳びとは違い、がっしりとした作りであり、激しい使用にも耐えられるような手ごたえであった。

「……結構ずっしりきますね。彼らはこんなに重いものを持って縄跳びをしているのですね」

 その重さに、彼らボクサーの持つ筋力と体力の一端を見たような気がした。

 そして

「秋元君のつかっているロープは、確かに少し違いますね。ロープというか、そう、チューブみたいな……」


「あれは、そうですな、おそらくはタイロープでしょう」

 鶴園は目を細めてそう判断した。

「タイロープはタイ式ボクシング、いわゆる隊のキックボクサーたちがよく使うものです。通常のロープは150~200グラム程度ですが、このタイロープは500~700、場合によっては一キロ近くなるものもあります」


「一キロですか!?」

 思わず岡添は声をあげた。

「もう縄跳びの重さじゃないじゃないですか!」


「ええ。タイ式ボクシングはパンチの何倍にもなるキックがあるものですからな。かのマイク・タイソンなども鉛のようなロープを飛んでいたと聞いたことがあります」

 鶴園は説明を続けた。

「タイ式は、国際式のボクサー以上に強靭な肉体を作り上げる必要があります。その体を作るための道具が、かのタイロープなのですよ。ごらんなさい。あの秋元君があの様子です。それがどれほどの負担を強いるものか、お分かりになるでしょう」


 確かに、先ほどまで楽々とシャドウを繰り返していたはずの真央の全身の筋肉が、破裂しそうなほどい紅潮し、血管が全身で青々と筋を立てている。

 もはや汗すら噴き出ていないように見える。

 パンパンに晴れ上がった筋肉が、汗腺を潰してしまっているかのようだ。

 その苦しそうな表情、乱れた呼吸、ふわふわと揺れる髪の毛。

 体を硬直させて緊張しながらも、岡添はその姿から目を離すことができなくなった。


 カァン、一ラウンド終了を告げるゴングが鳴る。

 しかしだれ一人として手を緩めて休憩するものはいなかった。


「このゴングとゴングの間は、3分間なんですね」

 岡添は訊ねた。


「ええ。うちでは一ラウンドを3分で設定しています」

 その質問に、鶴園は答えた。

「高校生、ジュニアの大会は一ラウンド2分なのですが、ここは大学生も一緒に練習することが多いので、シニアのラウンド、3分間に合わせています。休憩時間は30秒のままなので、聖エウセビオの練習よりも、20ラウンドトータルで、単純計算で20分長く練習していることになりますな」


「そんなに動けるものなのですか!?」

 岡添は驚愕の声をあげた。

 あれほど全力で体を動かし続け、それを3分間こなし続ける、ボクサーの体力とは本当に計り知れない、岡添はそう考えた。

 また、そういえば、最近まともに運動をしていないなあ、とも考えた。

 年齢のせいだろうか、若い頃よりも大分体に肉がつきやすくなっているような気がする。

 そう考えると、自然と岡添の口からため息が漏れた。



 カァン、六回目のゴングが鳴った。

 30秒のインターバルと、三分間の実働時間、合わせて10分近くのロープスキッピングが終了した。

 少年たちはいっせいにその場にへたり込むと、すぐさまロープをまとめにかかった。

 その周りを奈緒がかいがいしくタオルやスクイージーを配って回る。

 そろそろ奈緒という魔法もその効力を失い始めたのだろう、少年たちはもはやその存在を気にかけている余裕すら無くなっていったようだ。


 しかし、あくまでも真央の様子は悠然としたものだった。

 さすがに肩と前身を使って呼吸をしているようだったが、ぞれは横隔膜と腹筋を使って、自らの呼吸を自分の意識下においてコントロールをしようとしているようにも見えた。

 体を折り曲げることも無く、まるで遠くを見据えるかの様に直立した真央の姿は、まるでローマ皇帝の彫像のようにも見えた。

 



 カァン、インターバルの終了を告げるゴングが鳴った後も、そのラウンドは水分補給やパンチンググローブの装着などのためにわずかな休憩時間となった。

 そのわずかな休憩時間終了後、カァン、再びゴングが鳴り響いた。




 ここからはそれぞれが課題を考え、自由に練習をする時間帯である。

 あるものはサンドバッグに、あるものはパンチングボールに、そしてまたあるものはリング上でのミット打ちなど、思い思いの練習に取り組み始めた。

 しかしその表情は、一様に真剣なものだった。


「っつしゃあ!」

 ひときわ大きな声を上げると、真央は巨大な姿見の前でシャドウを開始した。

「っしっ、しっしっ」

 かすれたような、腹部から搾り出すような通気音がジムに響く。


 その様子は、なんとなく岡添にも見覚えがあった。

 ボクシングごっこをする子供がやるような、一見わざとらしく見えるような呼吸音。

「そういえば、ボクサーって必ずああいう声を出しているイメージがありますね」


「ほっほっほっ、そうですな」

 そういうと鶴園は立ち上がってファイティングポーズをとった。

「ボクシングに関わらず、あらゆる運動は呼吸の繰り返しです。息を吸って、そして吐く。その繰り返しの中で行動をしなければなりません。では、呼吸をすうときと吐くとき、どちらが体に力が入ると思いますかな?」


 鶴園の問いかけに、岡添は首をかしげ、そして答えた。

「なんとなくですが……吐くときでしょうか」


「そう。その通りです」

 そういうと鶴園は、しっしっ、しっ、その場でシャドウボクシングを軽く見せた。

 年齢を考えれば、岡添にとっても意外なほどに軽やかなものだった。

「だからこそ、相手に体重の乗ったパンチを当てるためには必ず息を吐くのです。それだけではありません。息をはかなければ新しい酸素を肺に満たせない。これは呼吸を整え、スタミナを維持するためでもあるのです」


「つまり、呼吸をコントロールすることは自分自身をコントロールすることに繋がる、ということでしょうか」

 岡添は再び訊ねる。


 すると鶴園は再びパイプ椅子に腰掛け、そして柔らかく笑った。

「そう。その通りです……しかし……」

 やや表情を硬くして再び口を開いた。

「彼、秋元君の拳、少々気になりますな」


「と、おっしゃられますと?」

 岡添はその意を正した。


「彼の拳と、うちの部員の拳、比べてみてください」

 そういって鶴園は真央とその隣で同じくシャドウに励む西山大附属の生徒を指差した。

「うちの部員、おそらくはまあ、川西君もでしょう。拳を開き、指をやや緩ませて、スナッピーにこぶしを繰り出しているのがわかりますか」


 その言葉を受け、岡添はその拳を見た。

「そうですね、何か拳全体がしなるように、ムチのように繰り出されているように感じます」

 そして、それを真央のものと比べてみた。

「……確かに秋元君のこぶしも早いのですが……何か違うような気もしますね」


「ええ」

 鶴園はうなずいた。

「彼の拳は、完全に難く握り込められているようにも見えます。とはいってもバンデージをまいているので程度はありますが、それでも通常ではありえないくらいに硬くこぶしが握りしめられています」


「バンデージがあると、そんなに違うものなのですか?」

 またもや素朴な疑問をぶつける岡添。


「ええ。バンデージは拳を保護するものでもあるのですが、その分筋肉を締め付けるものでもあるので、握りこみに制限が加えられます。このようにね」

 そういうと鶴園は、タオルを自分の手に巻いて見せた。

「しかし、彼はそれをものともせずに、完全にバンデージを握りこんでいます。よほど強い握力なのでしょう。しかもその拳は、隣にいる選手、彼はバンタム級なのですが、それとそん色ないスピードで打ち出されています」


「確かに、そうですね」

 その言葉に、岡添は小さくうなずいた。

「でも、それがどうかしたのですか?」


 しかしその問いかけに答えることなく、鶴園は真剣な表情で真央のシャドウを眺め続けていた。   

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