4.8 (月)13:30
「岡添理事長はお元気ですかな?」
パイプ椅子に腰掛けた鶴園は穏やかな微笑をたたえて訊ねた。
「この間お会いしたのは、かれこれ数十年ぶりの出来事ですからな。いやはや懐かしいものです」
その隣に座る岡添女史は、相変わらず緊張した面持ちで応える。
「は、はあ、まあ……」
自分の母親がかつてボクシング部のマネージャーであり、目の前にいるこの人物はその母親がマネージャーとしてサポートしていた男性である。
それがゆえに、この目の前に男性、それがいかに優しそうな人間であろうとも、その距離をいかにしてとるべきか図りかねていた。
また、母親が少女時代に、ボクシングと深く関わってきたというその事実、20数年生きてきた中でつい一ヶ月ほど前に初めて知った事実に、いまだ岡添は実感が湧かないままでいた。
その家庭生活に、一度もボクシングという存在が入り込んできたことはない。
だからこそ、母親とボクシングとの間に具体的なかかわりが存在することを信じられずにいた。
鶴園監督は相変わらずにこにこしたまま話を続ける。
岡添が聞いていようがいまいが、まるで自分自身に語りかけているかのように。
「本当に懐かしいものです。私が卒業してから、そうですね、何年くらいたったでしょうか。ボクシング部が廃部になったと聞いたときは、本当に寂しい気持ちになったことを覚えています。あなたは聖エウセビオに、ボクシング部が存在していたことをご存知でしたかな?」
「い、いえ全く!」
あわてて岡添は強く首をふっった。
「そもそも、聖エウセビオとボクシングのイメージがあまりにもかけ離れているような気がいたしますし」
「ほっ、ほっ、ほっ、そうですな」
にこにこと鶴園は返した。
「確かに。わたし自身も、ボクシングをやりたいと言った時には、まあずいぶん反対されたものです。しかし、ご存知ですかな? ファイティング原田、幼い頃に彼の試合を初めて見たとき以来、ずっとボクサーになることを夢見てきたものでしてな」
その目は、どこか遠い何かを見つめているようであった。
「まあ結果として、網膜はく離、これでプロへの夢は断たれてしまいましたが、それでも川西君、秋元君のような若い選手の夢を形にしてあげたい、それがわたしの生きがいなのですよ」
「そんなにいいものでしょうか、ボクシング……」
思わず、心のうちが声になって岡添の口から飛び出す。
はっとして、弁解するようにその意味を説明した。
「あ! い、いえ! そういう……ボクシングをやっている人を見下しているわけじゃなくって! その……」
「ほっほっほっ、まあいいじゃないですか」
岡添の、場合によっては侮辱ととられかねないような言葉にも、鶴園はその表情を変えることはなかった。
「確かにそうですな。岡添理事長や、あのマネージャーの女の子、釘宮さんのような奇特な方はともかくとして、やはり女性にとっては、そうですな、こう……野蛮なものととらえられても仕方がありませんな。しかし、まあ、まずはあなたの生徒たち、川西君や秋元君の頑張る姿、釘宮さんの一生懸命な姿を通して、ボクシングについてどう見方が変わるか、というところでしょうか」
「……だといいのですが」
その言葉を聞いても、それでも岡添は不安だった。
何故自分がボクシング同好会の顧問なのか、それは公務分掌の範疇としてまだ納得させるしかない。
しかし、自分自身が、このボクシングという競技を受け入れることが出来るのだろうか。
そんな人間が顧問を務めていい競技なのだろうか。
この目の前にいる初老の男性が穏やかな人格の持ち主であり、好感を抱くべき人物である、それ時は自覚できたが、それでもまだ不安を払拭できずにいた。
それだけではなく――
すると、ガラガラと乱暴にジムの扉が開けられた。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」
「ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ、ぜえ……」
前身汗まみれの、激しく動機を切らせ顔をしかめた男達がジムへと戻ってきた。
「ひっ!」
岡添は身を硬直させ、パイプ椅子の背もたれに体をへばりつかせた。
幼い頃から聖エウセビオとは別の、エスカレーター式の女子高に通い、男性との接点はほとんどないままに生きてきた。
聖エウセビオで母親の秘書を務めるようになってからも、それは同様だった。
そんな岡添が初めて濃密にその時間を過ごす異性、それが思春期真っ只中の、肉体を極限にまで鍛え上げたボクサーたちだ。
ボクシング同好会の顧問を務められるかどうか、それだけではない。
「……おかーさーん……」
自分自身の男性アレルギーを克服できそうにもない岡添は、顔をひきつらせながら、小さな声で母親に助けを求めた。
疲労により、丈一郎も、そして西山大附属の生徒までもが膝に手をつきへばりこんでいた。
ランニングの距離やダッシュのメニューなどは、やや量が多いものの聖エウセビオでの練習も遜色はないが、これだけの大人数で行う場合、男同士のプライドがそこに微妙に交じり合う。
リング上だけではない、周りの人間よりも一秒でも早く走りきり、自分の力を誇示したい。
それがいつもの練習以上の緊張と疲労を強いる結果となったのだ。
しかし、そんな中
「ふっ、ふっ、ふっふっ」
真央だけは呼吸を整えながら、いつもどおりシャドウをらくらくとこなしながらの調整を行っている。
「……さすがですな」
と鶴園監督は漏らした。
「秋元君の体力が、でしょうか?」
少々体を引きつらせながらも、岡添女史はその言葉の意図を訊ねた。
「もちろんそれも、優れた心肺機能もありますが」
鶴園は、体力だけではない、真央のもう一つの強さの側面を見抜いた。
「ただ走りきるだけではなく、たくさんいる他校の生徒の中においても自分のペースを保ち続け、乱すことがない。これにはなかなかの強い精神力が必要です。普通ならば雰囲気に飲まれてしまいますからな。しかもこの、ボクシングの強豪校西山大学附属においてそれが出来るとは。いやはや」
感心したような、あきれたような言葉を口にした。
「みなさん、お疲れさまー」
にこにこと、いつものあの甘ったるい言葉で奈緒はタオルを配って歩いた。
「水分補給したい人は遠慮なく言ってくださいねー」
「「「……」」」
呼吸を整えながらも、西山大附属の生徒たちは顔を赤らめて無言でタオルを受け取る。
顔を拭きながら、ちらちらと奈緒の様子に目を配りながら。
そして同じく、鶴園の横に座る、この学校ではついぞ目にすることの出来ない大人の色香を発し続ける岡添にも目を配りながら。
嗚呼可笑しくもやがて悲しき男子校の性。
その視線を感じるたびに岡添は体を強張らせるのだが。
「はい、マー坊君も」
奈緒は真央にタオルを差し出した。
「ふっ、ふ、ふっ、ん? おっ、サンキューな」
真央は笑ってそれを受け取った。
そして簡単に頭を拭くと、奈緒に返し、シャドウを継続する。
「でもすごいねー、マー坊君」
それを受け取りながら奈緒は言った。
「あんなにきついワークでもすいすいこなしちゃうし。今もこうしてらくらくシャドウこなしちゃうし」
「ん? そうか。たいしたことねーけどな」
こともなげに真央は言った。
「おれ、カッコいいか?」
その言葉に、奈緒は無邪気に答えた。
「うん。すごくカッコいいよー」
「「「うぉっしゃらあああああ!!!」」」
その言葉に反応するかのように、大勢の男達がばねのように飛びはね、シャドウを開始した。
「ふんふんふんふんふん!」
「うんむんむんむんむん!」
「うらららららあらっら!」
「ほえ?」
急にシャドウを開始した男たちに、奈緒は戸惑った。
「ちょ、ちょっとまってよ! 僕も……」
あわてて丈一郎もつられるようにシャドウを開始した。
「みんな、一体、急ににどうしちゃったのかなー」
小首をかしげるをかしげる奈緒。
「ぎゃっははははは」
破顔一笑、真央もさらにシャドウのスピードを速めた。
「ま、男子校の生徒には、共学の生徒とか女の子にはわかんねーもんがあるんだよ。ま、奈緒ちゃんのおかげでみんなやる気になったってことで、いいじゃねーか」
「……理解できない……」
顔をしかめて、その急激な場面展開に困惑する岡添。
「ほっほっほっ」
そして微笑ましそうにその様子を見つめる鶴園。
「あの釘宮さんを見ていると、あなたのお母様の若い頃を思い出しますなあ」
「母の……ですか?」
岡添は訪ねた。
いつも厳格で、常に教育者としての姿勢を崩すことはない母親が、あの甘ったるい表情の奈緒を思い出すものであるとは、意外だった。
「ええ」
鶴園は懐かしそうにうなずいた。
「あなたのお母様が我々をサポートしてくれると、それだけで部の雰囲気が明るくなり、皆一生懸命トレーニングに励むことが出来ました。なんだかんだで皆男の子でしたからな。あなたのお母さんに、少しでもいいところを見せたいと発奮したものです」
「……」
岡添は無言でその言葉に耳を傾けた。
なぜそれだけで発奮できるというのか、やはり男性の、特に思春期の男子生徒についての理解が浅い岡添には理解ができなかった。
しかしこの鶴園の語り口調、そして目の前で必死になって体を動かし続ける少年たちの姿に、なんとなくその言わんとする意図が、ほんの少しだけ理解ができるような気もした。
「それにしても、不思議な少年です」
またもや鶴園は呟いた。
「うちの生徒たち、都内でもかなりきついメニューをこなしているはずです。その生徒達がこれだけへばってしまうような内容のメニューを軽々とこなす体力と精神力。そしてこの間のリングで、あの山本を、ウェルターの体格でミドルの山本を倒したときに見せた猟犬のような動き。あの若さで、一体どのようにしてこれほどのものを身につけたのか」
そして岡添を見つめて言った。
「一体あの少年、秋元真央君は、何者なのですかな?」




