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第三部 4.8 (月)13:00

「失礼します!」

 大きな声がジムの内部に響く。

 丈一郎は深々と頭を下げ、そして真剣な、そしてやや緊張したその面持を上げた。


「ほっほっほっ、いやいや、今日は本当に良く来てくださいました」

 両手を広げ、初老の男性が迎え入れた。

 その男性は西山大学付属高校ボクシング部顧問にして聖エウセビオ学園ボクシング部OB、鶴園監督だった。

 鶴園は右手を差し出し

「今日は急な申出お引き受けいただき、本当に申し訳ありませんでしたな」

 とにこにことした微笑みを返した。


「そ、そんな、こちらこそ!」

 さすがの奈緒も、あわててそう答えた。

「名門西山大学付属高校からの合同練習の申し出なんて、本当に夢のようです!」

 その日は始業式のみの午前授業で、午後からは部活動が許可されていた。

 そして、岡添理事長を通じて鶴園監督より申し出があり、西山大学付属高等学校ボクシング部との合同練習が組まれていた。


「……本当に申し訳ありません」

 やや暗い表情の女性。

 今年度より聖エウセビオ高等学校ボクシング同好会顧問を務める岡添女史は、むせかえるような熱気と汗の匂いに辟易とした様子だ。

「うちの母、理事長から伺いました。お忙しい中、わざわざ合同練習をお申し出いただき、本当に痛み入ります」


「いやいや、何をおっしゃる」

 好々爺然とした表情を崩すことなく、鶴園はそれに答えた。

「ただでさえボクシングに取り組んでいる学校は少ないのですよ。共存共栄で、オリンピックスタイルのボクシングの質を高めていくことができれば、これほどうれしいことはありませんよ。それに、何よりもあなた方は私の後輩なのですから。遠慮することはありませんよ」

 同じく岡添に右手を差し出した。


「……は、はあ……」

 やや緊張しながらも、右手を握り返した。


 緊張する三人をよそに

「よう、鶴園サン」

 全く物怖じすることなく、飄々とした表情の少年。

「今日はありがとうな。俺もしばらく丈一郎としか練習してなかったからよ」

 そう言うとジムの内部をぐるりと見回す。

 最新鋭の設備、というわけではない。

 ぼろぼろのサンドバッグに色あせた壁板、そして小さな無数の血の跡の染み着いたリングのキャンバス、そこに刻まれた無数の少年たちの血と汗、そして涙の跡。

 使い込まれたジムの懐かしき匂い、そこに真央の心は久しぶりに沸き立つ。

「なかなかいいもん揃ってんじゃねーか。それに生きのよさそうな連中もよ」

 そしてにいっ、と笑う。

「まっ、今日はよろしく頼むわ」


 その一見傍若無人ながらも、気持ちの良い態度を

「ほっほっほっ」

 頷きながら鶴園は眺めていた。


「おっ、川西君じゃん!」

 ストレッチをしていた西山大の選手の一人が、丈一郎の姿を見つけると近寄って来た。

「一か月ぶりだな。今日はよろしく頼むよ」

 その選手は一か月前、スパーリング大会において丈一郎を打ち破った杉浦だった。

 そして杉浦も右手を差し出し


 その姿を見て、丈一郎の緊張は一気に和らぎ

「久しぶりだね」

 さわやかな表情で、丈一郎も右手を握り返した。

「強豪校の練習、ついていけるかどうか不安だけど、一生懸命頑張るよ。お手柔らかにね」


「ああ」

 と、微笑みをたたえていた杉浦の表情が一気に真剣なものに変わり

「……と、ところでよ……」

 丈一郎の肩に腕を組み、その耳元にささやく。

「……あ、あのかわいい子、さ……」

 そういうと、ちらり、奈緒の方に視線を移す。


「?」

 その視線の意味は理解できなかったが、とりあえずにこにこと微笑みを返す奈緒。

 

 ドキッ、杉浦は顔が赤くなった。

「……あの女の子さ、エウセビオのマネージャー?」


「? う、うん。そうだけど……」

 と言葉を返す丈一郎に対し


「……な、なあ川西君、あとで、紹介してくれよ……」

 わずか一年間の男子校生活であったが、杉浦は完全に女性に対する免疫を失ってしまったようだ。

 そしてそれは、西山大付属高校の生徒の多くが同様である。

 ストレッチをしながらちらちらと目をやる生徒、これ見よがしに声を張りあげシャドウを行う生徒、みな奈緒、そして大人の色気を我知らず発する岡添女史に気をとられていた。


 そしてそれに気づいた丈一郎は苦笑し

「うん。わかった。練習終わったらね」

 と返した。


「ん?」

 ポケットに手を突っ込み、西山大付属の生徒たちに目をやると、真央はある人物に気が付いた。


「ん?」

 祖に人物も真央の存在に気が付い、その目が交差する。

「あー! てめー!」

 その人物は大声を張り上げ、真央を指差した。

「てめー、本当に聖エウセビオの生徒だったのか?」

 その人物は、スパーリング大会の後、リング上で真央と拳を合わせた、川西大付属の山本選手だった。


「おお、どっかで見た老け顔かと思ったら、おめーだったんか」

 真央は相変わらず飄々とした態度で言った。

「その様子から察するに、おめーはもう卒業した見てーだな」

 真央の視線の先には、川西大学のジャージーのロゴがあった。

「ま、大学合格おめでとさん」

 にやにやと笑って言った。


「てめー、あの時はよくも……」

 そう言って真央のもとへと近寄って行ったが


「あん?」

 片眉を吊り上げ、睨み返す真央。


「うっく……」

 その表情に、あの日のリングでの思いがよみがえる。

 何度も繰り返すジャブ、ワンツー、様々なコンビネーション。

 しかしクリーンヒットは一発も当たらない。

 ほぼノーガードの状態でそれをかわし続ける真央。

 ダッキング、スウェー、細かく刻まれるフットワーク、みながらも、一切後退することなくその場でそパンチをかわし続けるその姿が、山本の頭に蘇って来た。

「……さっさと着替えろ! 俺が今この部のコーチだからな! ちゃんと指示に従えよ!」

 吐き捨てるようにして山本は踵を返した。


「ん、んじゃまー、そうさせてもらうわ」

 そう言うと真央はクラブバッグを肩にかけた。

「丈一郎、さっさと着替えようぜ」


「あ、ああ、秋元君、それじゃあ、こっちに来てくれ」

 そう言うと杉浦は二人を更衣室へと案内した。



 練習着に着替え終わった選手たちは、それぞれ入念なストレッチをしながら練習開始の合図を待った。


 すると

「よし、全員そろったかぁ?」

 山本の低いどなり声が響く。


「「「ぅおっす!」」」

 西山大学付属の選手、そしてそこに混じった真央と丈一郎、二人の聖エウセビオの生徒、総勢10数名のボクサーたちは、気合の入った言葉でそれに答えた。


「いいかあ? これから合同練習を開始する!」

 そう言うと山本は、指で玄関を差して怒鳴った。

「まずはロードワーク10キロだ! この後のジムワークのために体力残そうとか思ってんじゃねーぞ!? ここで体力使い果たすつもりで死ぬ気で走れ! わかったな!?」


「「「ぅおっす!!」」」

 男たちの気合の入った叫び声が響く中


「みなさーん、頑張ってくださいねー!」

 この男くさい男子校の中に似合わぬ、奈緒の可憐な声がそれに続く。

「あ、そーだ、わたしも自転車で追いかけるんで、タオルとか預けてくださいねー!」

 とにっこりとほほ笑んだ。


「「「……」」」

 そのかわいらしい、甘い微笑みを無言で見つめる、真央と丈一郎を除く西山大付属の生徒たち。

 一瞬の空白の後

「「「うぉっしゃあああああ!!!」」」

 その場で腿上げを始める者たち、急に腕立てを始める者たち、そしてまたもや意味もなくシャドウを始める生徒たち。

 この男子校の中で、しかもただでさえ女子と触れ合う機会のないボクシング部の生徒たちにとって、奈緒の存在は彼らの興奮を嫌が応にも掻き立てる作用をもたらした。


「ほえ?」

 きょとん、としながら不思議そうにその様子を見つめる奈緒。

「みんな、一体どうしちゃったの?」


 そしてそれは

「ぅおらぁ、おめーら! 気合入れていくぞ!」

 当の山本本人も同じだった。


「ったくよぉ」

 真央は頭をかいた。

「……なぁにが名門西山大付属だよ。女一人に舞い上がりやがってよぉ……」


「まあまあ」

 丈一郎はなだめるように言った。

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