4.8 (月)8:05
「……引退したよ。再起不能、だって。壊されちゃったんだ」
丈一郎は静かに、淡々とした様子で言った。
「……なんだと?」
真央の表情が張り詰める。
そして、グッ、丈一郎の胸倉を掴んだ。
「どういうことだ? つい先月までミドル級のタイトルマッチ戦っていた男が、何で引退なんだ?」
「ちょ、ちょっと、苦しいって!」
その剣幕に押され、丈一郎はもがいた。
「落ち着いてよ! これじゃあ詳しく話せないよ!」
「マー坊!」
「マー坊君! 一体どうしたの?」
桃と奈緒が間にわって入るようにして真央を落ち着かせようとした。
その二人に制されるようにして、真央は丈一郎から手を離す。
しかし、その呼吸はやや荒くなり、その目は何か血走っているようにも見えた。
「じゃあ話せよ。一体どういうことだ? まだ25歳でKO率8割の“マンイーター”がなんで引退しなきゃならねえんだ?」
その様子は、こころの中に溜まっている何かを爆発させているようにも見えた。
「あのおっさん以外には、一度も土付かずだったはずじゃねえか? スーパーウェルター級で間違いなくチャンピオンになれるって男に、一体何が起こったってんだよ?」
その様子、その剣幕、初めて自分に対しこれほど感情をむき出しにする真央を目の当たりにした。
この少年には、自分にも計り知れない何かを抱えているのではないか、丈一郎は以前から抱えていた漠然とした疑問に形が与えられたような思いがした。
その真央の中に潜む、ある種の狂気を帯びた何かに、多少の戸惑いを感じながら
「とりあえず、これ見た方が早いかも」
そういうと丈一郎は、スクールバッグの中から一冊の雑誌をとりだした。
「これ、今月の『ボクシング・ライム』の記事。これ、読んでみて」
その言葉を聞くと、真央はひったくるようにしてその雑誌を受け取り、丈一郎が指し示した記事に目を通した。
“ビッグ・マッチの後遺症か? “マンイーター”・ブウェンゲ、引退の意向”
“世界中のボクシングファンを熱狂の渦に巻き込んだフリオ・ハグラーの防衛戦、米ラスベガスのNGNグランデで挙行されたWBA・WBC世界ミドル級タイトルマッチは、WBC・WBAスーパー王者のフリオ・ハグラー(米)が挑戦者ビヌワ・ブウェンゲ(コンゴ)にニラウンドKO勝ちという結果に終わった”
そこには、先月のタイトルマッチ、右フックの三連打を放つフリオと、それを受けて完全に意識が飛んでいるビヌワ・ブウェンゲの写真が添えられていた。
“顎部の骨折という外傷は負ったものの、試合後の精密検査で頭部への異常は見られなかった。しかし、ビヌワ・ブウェンゲはこれ以上の現役続行を拒否、マネージャーやプロモーターの引きとめもむなしく、26連勝の後の1敗という戦績を残し、若き“人食い男”はリングを去ることとなった(写真提供:HPO)”
真央は無言で、まるで記事のフリオ・ハグラーを睨みつけるかのようにその雑誌を見つめる。
その後姿に、その場にいる全員がただならぬ雰囲気を察し、また彼らもそれを見つめ続けるしかなかった。
「……またかよ」
ようやく口を開いた真央は、ポツリ、と呟いた。
「……また対戦相手、壊しやがったな」
その真央の言葉に、葵の頭に一ヶ月前テレビ寒観戦の時の思い出がよぎる。
フリオ初めての日本国内防衛戦の時、何度も立ち上がるブンブーン相葉に、さらに何度も強烈な拳を浴びせかけ、マットを舐めさせたときのその様子。
今思い出しても背筋が凍る思いがする。
しかし、10数年前のあの時と今回では、そのおかれた状況に違いも存在する。
「でも、ビヌワ選手は、あごの骨折以外に目立った外傷や、少なくとも脳波などに異常は見られなかったんですよね? 将来を嘱望されたボクサーが、どうして引退という道を選んでしまったのでしょう?」
真央は、葵の顔に見向きもせずに言った。
「“壊される”ってのはな、何も肉体だけのことじゃねえんだ。あのおっさんの拳は、ビヌワ・ブウェンゲのこころまで一緒に砕いちまったんだ。ビヌワのこころは、もはやボクサーとしてリングの上に立つことを恐怖するようになっちまったんだろう」
一般的にパンチアイ症状、と形容される状態がボクサーに訪れることがある。
あまりにも強いパンチをボクサーが受けた場合、こころの中に恐怖が刷り込まれ、拳が目の前に近づくだけでその恐怖が再現されるという症状だ。
その恐怖により、拳に対し目をそらし、場合によっては痙攣を引き起こすこともあるという。
確証はないものの、真央はそのあまりにも唐突な引退劇に、ビヌワ・ブウェンゲに襲い掛かった、そのこころを押しつぶしてしまうかのような強い恐怖を感じ取った。
「しかも相手はあのおっさん、フリオ・ハグラーだ。もしパンチアイ症状で引退だってなら、日常生活にも支障がでかねねーぜ」
自分で口にしたその言葉に、真央自身が戦慄した。
リング禍を引き起こし、そして1人のボクサーのこころ自体を砕いてしまうその拳、その威力を考えるだけで、真央のこころに小さなひびが入るような思いがした。
もし自分が、幸運にもフリオと同じリングにたつことが出来たとき、果たして自分は満足な体でリングを降りることが出来るのだろうか。
目指すべき頂は、ただ高いだけではない、その先に待ち受ける危険性を、いまさらながら真央は突きつけられた思いがした。
その様子を、桃もまた複雑な思いで眺めていた。
フリオ・ハグラー、またしてもこの男の名前を耳にした。
遠く太平洋を隔てたところに住むこの男に、自分たちの運命が、まるで神に操られる如くに左右される、そのような奇妙な感覚に桃は戸惑った。
坂道に減りに置かれた石ころのような、不安定な状況の中に放り出されたような感覚を覚えた。
もしこの世に運命というものが存在するのならば――
ばかげている、桃は頭を振るってその考えを頭の中から追い出そうとした。
「ねえ、マー坊君」
真央の言葉に奈緒が口を開いた。
「マー坊君は、フリオ・ハグラーと戦おうことが夢なんだよねー? マー坊君も、やっぱりフリオと戦うの、怖かったりするの?」
「奈緒!」
真央の心情を無視するかのようなその言葉に、桃は怒りを覚えた。
「あんたって子はぁぁぁ!」
そういうと桃は奈緒の頬をギリギリとつねった。
「あんたにはデリカシーってものがないの?」
「いたーいーよぉ」
奈緒は手足をパタパタさせた。
「ふえーん」
その様子に、真央はややあっけに取られたような表情を見せたが
「へっ」
表情を和らげ、笑顔を見せ
「んなわけねーじゃねーか。誰に物言ってんだ? この天才ボクサーにおっかねーもんなんかあるわけねーじゃねーか」
まるで自分自身の中に芽生えた恐怖心を笑い飛ばすかのような態度を見せた。
「僕は信じているよ」
丈一郎が言葉を挟んだ。
「マー坊君なら、絶対ラスベガスのリングで、フリオ・ハグラーをKO勝利できるってさ」
そういって、いつものへにゃっとした笑顔を見せた。
フリオ・ハグラーの強さは、真央も、そして自分も十二分に知っている。
だからこそ、真央のこころに芽生えかけたほころびも感じ取れる。
フリオ・ハグラーを倒せるのは真央しかいない、それを確信として真央に届けようと考えた。
「私も、応援していますよ」
そう言うと葵は真央の肩に両手をやった。
「私も、あのフリオ・ハグラーというボクサーがどれほど強いかは、先月皆さんで一緒に見たあの試合でよくわかったつもりです。でも、真央君も強さというものも、この間の試合でよくわかったつもりです」
そして真央の顔を覗き込んだ。
「フリオ・ハグラーを倒す日本人は、真央君以外にはできないことだと思います」
真央の不安を払拭しようと、努めてそのこころを奮い立たせるような言葉を選んだ。
「そ、そーかな」
真央は褒められて悪い気はしなかった。
「俺って、やっぱ、天才かな?」
「ええ」
真央の目をまっすぐに見つめ、葵はにっこりと笑った。
「天才だと思います」
「ちょ、ちょちょっと葵、それはさすがにほめすぎじゃないの?」
桃が二人の間に割り込んできた。
そして真央に向かって
「ほら、君も早く自分のクラス確認しなくちゃならないだろ? さっさと行くぞ」
といって真央の腕をひぱった。
「いいから! さっさとしろ!」
「わ、わかったって!」
桃の強い力に引っ張られるようにして真央はその後に従った。
腕を惹かれるがままに、奈緒の横を通り過ぎるとき、真央は小さく
「……ありがとな……」
と耳打ちした。
このままこころが沈んだままであれば、自分の心に小さな恐怖心が生まれていたかもしれない。
それはこころの中にとどまったまま、いつしか爆発し自分自身を崩壊させてしまうかもしれない。
その小さなほころびを、奈緒の明るい言葉はリカバーした。
空気を無視し、あえて無邪気な、明るい態度で自分に接してくれた、それが真央のこころの大きな支えとなった。
真央はその感謝の言葉を、ややぶっきらぼうに、照れながら口にした。
「……マー坊君……」
その二人の後姿を眺めると
「えへへへー」
あの無邪気な、甘い笑い顔を見せた。
「ね、葵ちゃんも丈一郎君も早くいこーよー。桃ちゃんたち足速いから、おいてかれちゃうんだから」
といって二人に呼びかけ、駆け足でそのあとを追った。
その様子に、葵も丈一郎も、ようやく心の底からの笑顔を見せた。
「あ、まってよ。皆で一緒に確認しようよ」
「そうですね、私も今行きます」
そういって二人もそのあとを足早に追いかけた




