4.8 (月)7:50
春休み中、ほぼ毎日のように通った道。
もはや通いなれてしまったといっていいその道、しかしその風景は、今日は少し変わって見える。
東京の景色は、冬の重いコートを脱ぎ捨てた、全く新しい装いに姿を変えた。
左手に見える公園には、折り目正しい色とりどりの制服を着た少年少女が行き来する。
新学期のスタート、今日この日を境に、彼らは本当の意味で新しい春を迎えたのだ。
「どーしたの、マー坊君、元気ないじゃん」
新学期、そして高校進学に胸を躍らせ、足取り軽やかな奈緒の目に、どういうわけか真央の顔は沈んで見えた。
「せっかくの転校初日なのに。もしかして、緊張してるの?」
心配そうに訊ねる奈緒だったが
「……いや、そういうわけじゃねえんだけど……」
真央は、地面に沈み込むほどの重いため息をつく。
「……学校っつうか、勉強が始まるかと思うと、気が重いぜ……」
真央の頭に、数日前の実力テストの時の思い出がよぎる。
国語英語に数学、基本的な内容の確認と聞かされていながらも、実技教科すらまともに取り組んでこなかった真央にとって、その内容に手も足も出るものではない。
悲惨な結果は当然の帰結といえよう。
「……転校したはいいけどよ、俺ぜってー留年しちまう気がするぜ……」
担任を務めるという岡添教諭の勝ち誇ったような態度と罵倒の数々。
これからあれが毎日のように続くかと思うと、気が気ではなかった。
真央は思わずその手を見つめる。
ボクサーになると決めたこの拳、再び鉛筆を握り机に向かうことになろうとは。
一週間前、そのときの感触を思い出す。
その手に蘇るのは、硬く無機質な鉛筆のつるつるした感触と
柔らかくたわわな岡添の胸の感触。
「うおおうっ!?」
バキィ、真央はあわててその拳で自分の左頬を殴りつけた。
ビクッ、その突拍子ない行動に、奈緒と、そして桃は体を硬直させる。
「ど、どうしたのマー坊君!?」
「つ、ついに頭おかしくなったのか!?」
「い、いやー、何でもねーよ」
ツー、左の鼻腔から一筋の血潮が線を作る。
あのときの感触を思い出していましたとは、口が裂けてもいえない、いえるはずがない。
「ほ、ほら、おれボクサーだからよ、いつでも殴られる練習くらいはしとこうと思ってよ、ぎゃははは」
ポケットからティッシュを取り出すと、それを左の鼻腔につめた。
ある意味での幸運に遭遇した真央を待っていたのは、これまたある種の地獄の光景。
同年代の男性をKOするほどの桃の右ストレートと、目の奥に暗く怪しい光を放ちながらも、笑いながら放たれた葵の金的潰し。
腹の底から笑えるほどにおぞましい光景を思い出すたびに、真央は“でりかしー”のなさは命の危険に関わる、そう考えるようになった。
「ったく、本当に君はばかなんだから」
桃はまるで地球外生命体を見るかのような目で真央を見て
「ま、どうせまたやらしーことでも考えてたんだろ」
茶化すように言った。
「ち、ちげーよ! なに言ってんだよ!」
こころの中身を見透かされたような真央は、動揺しながらも打ち消さざるを得なかった。
これ以上ぶん殴られたら、絶対に進級するのは不可能になるだろう、真央は心底恐怖を感じた。
「俺はそんな男じゃねーよ!」
「あ、マー坊君、おはよー」
いつもの十字路を過ぎる頃。
さらさらとした髪の毛に中世的な顔立ち、川西丈一郎のが後から声をかけてきた。
「あっ! 丈一郎君、おはよー!」
「よっ、丈一郎」
「あ、川西君、おはよう」
思い思いの言葉、仕草で挨拶を返す三人。
「あ、マー坊君、エウセビオのブレザー届いたんだ」
へにゃっ、としたいつもの笑顔を向ける。
「うんすごく」
そして真央の姿を頭のてっぺんからつま先まで見回すと
「……似合うと思うよ……」
真央の視線をはずし、うつむくようにして言った。
「この野郎、人の目を見て言いやがれ!」
ゴンッ、真央は丈一郎の頭を殴りつけた。
「あいたっ!」
「わかってんだよ俺だって! ブレザー似合ってねえのはよ!」
「痛ったぃなあ。 痛いよ、マー坊君」
眉をひそめ、頭を押さえる丈一郎。
「いやー、やっぱり見慣れていないせいかな? マー坊君はやっぱり、学生服の方が似合うような気がするよ」
今度は気を使うことなく、ストレートにその感想を伝えた。
「でもさ、マー坊君胸板厚いし背も高いから、初めて会う人はきっとスタイルいいなって思うよ」
悪びれず、にこにことした表情でフォローする。
「けっ、何とでもいいやがれ」
口元をゆがめて子どものようにすねて見せた。
「男はなあ、見た目じゃねえんだよ」
そういってばしんっ、と胸を叩き
「内面だよ、内面。こころだこころ! わかるか?」
とその分厚い胸を張った。
「いいか? 人間にはこころってもんがあるんだよ! 言葉じゃねえんだ!」
いきなり飛躍する理論に、
「? どういうこと?」
丈一郎はわけもわからずに言葉を返すしかなかった。
「人間はな、言葉じゃねーんだよ。こころで通じあえんだよ」
にやり、真央は勝ち誇ったような笑い。
昨日の夜、桃の言った言葉を一度自分でも使ってみたい、そんな子どもじみた心がそうさせたのだ。
「教えてやろう、一週間前の夜な、桃ちゃんから――――」
「ここだっけ、レバー」
ドスッ!
真央の右わき腹に、シャープな桃の拳が突き刺さった。
「おごひぇぁっ!」
小動物がひしゃげるような叫び声とともに、真央の体は奇妙な形に折れ曲がった。
「マー坊君、大丈夫!?」
あわてて丈一郎が駆け寄る。
「ああっ! マー坊君! 口から、よだれだかなんだかわからないものが流れているよ!」
あわてる丈一郎に対し
「胃液かなー? 胆汁かなー?」
マイペースに奈緒はそれを眺めていた。
ぴくぴくと体を震わせる真央をよそに、桃は穏やかな微笑を浮かべ
「ん、ねえマー坊、余計なこというとこういうことになるから、それだけは覚えておいてね」
しかし、その目は決して笑ってはいなかった。
丈一郎に肩を抑えられながら、無言でこくこくとうなずく真央。
なぜ桃がおこったか、それは真央にはよくわからないが、こういう場合、たいていの場合“でりかしー”の関わる問題なのだろう。
女性と二人で話した内容は、他の人がいるところでは話してはいけない、今回の体験をまとめるとすれば、まあ、そういうところになるだろうか。
しかし卒業までの二年間、“でりかしー”を持った男になるまでに体は持つのだろうか、真央の心配の種は尽きない。
「そういえばさ、マー坊君のクラスってどうなるのかな?」
丈一郎がふと口を開いた。
聖エウセビオ学園のキャンパスに近づくにつれ、ブレザーを着た男女の割合が高まってくる。
カトリック系の名門校聖エウセビオ学園は都内郊外に存在する男女共学の学校ではあるが、スクールカラーのせいか、もともとが女子高であったことの名残のせいか、女子の比率が多い。
そこを狙って入学試験を受ける男子の数も当然少なくはないが、しかしその高い入試偏差値の壁が下心を持つ多くの男子受験生の入学を阻んできた。
通常であれば、真央などは近づくことすら難しいような学校だ。
「わかんねえけどな、少なくともお前らと同じクラスじゃねえと思うぜ」
両手を後に組んで答える真央。
「こないだの手ごたえからいっても、まともな成績なんか取れていたはずはねーからな」
あの悲惨な一日を思い出す真央の胸に去来するものは
柔らかくたわわな岡添の胸の感触。
「うおおうっ!?」
バキィ、真央はあわててその拳で、今度は自分の右頬を殴りつけた。
ビクッ、再びの唐突な行動に動揺する三人。
「さ、さっきから一体どうしたのマー坊君!?」
「か、完全に頭おかしくなったのか!?」
「こ、今度は右から鼻時出ているよ!?」
「……ははは……」
力なく笑いながら、今度はティッシュを右の鼻腔につめた。
「まあ、なんにしろ俺がお前らと同じクラスになるってことはなさそうだな」
ゆっくりと、静かに首を振りながら桃は言った。
「……全く理解できない……」
キャンパスに近づくにつれ、薄紅色の桜の花びらが心地よい春風とともに頬をくすぐる。
花びらは、あるいは髪の毛に、あるいは新品のブレザーに、いっそう鮮やかな彩を添えた。
華やいだ道には、聖エウセビオの生徒の初々しい空気が満ち溢れていた。
硬い表情の中に、新しい人間関係や生活への期待が混じる新入生の顔、後輩たちを迎え、また一つ大人の階段を上った在校生の顔、そして
「……かったりーなぁ、もう……」
転校生にもかかわらず、これから続く勉強の日々を重いくらい表情の真央の顔もそこにはあった。
「何言ってるんだ。それを承知で聖エウセビオに転校してきたんじゃないか」
腕組みをして、厳しい態度で臨む桃。
「それに、高校ボクシングで活躍して、君には目指すべきところがあったんじゃないのか?」
その言葉に、真央のこころは数週間前の出来事へと飛んで行った。
あの日、スパーリング大会のあとのいざこざでリングに上がり、西山大学付属の生徒をナックアウトした。
その後、理事長の岡添臨席のもと、西山大学付属ボクシング部の監督鶴園と出会い、目指すべき頂フリオ・ハグラーと戦うための最短ルートを示してもらった。
真央はもしゃもしゃと頭をかき
「ぎゃはははは」
と大きな声で笑った。
「そうだったな。高校ボクシングで名前を上げて、オリンピックで金メダル、それがおれの目標だったもんな」
そういうと、にいっ、といつもの自信に満ち溢れた笑顔を返した。
「ま、おれほどの天才ボクサーが本気で勉強すれば、高校の勉強くらい1ラウンドKOだぜ」
「そうそう。マー坊君なら絶対大丈夫だよ」
と励ます丈一郎。
「僕も手伝うからさ。それに、もう少しもしたら関東予選だもん。まずはそこでの一勝目指して頑張ろうよ」
「わたしも手伝うからね!」
奈緒も意気込んだ。
「あたしも成績あまりよくないけど、でも頑張れば絶対大丈夫だからね。まずは、インターハイ出場目指して頑張ろうよ!」
「ああん? インターハイ出場?」
ふんっ、ふてぶてしい笑顔を浮かべて
「ちっちぇえ、ちっちぇえ。金メダリストがそんなところで足踏みできるかよ。まずはインターハイ優勝! それ以外ねえ!」
と胸を張った。
「……ったく、調子いいんだから……」
はあっ、とため息をつきながらその三人の様子を桃は眺めていた。




