4.8 (月)7:20
マー坊君、そろそろボクシングしようよ……
「っん、いよっ」
姿身代わりの窓ガラスに映した自分自身と格闘する、一人の少年の姿。
「んっだこれ、めんどくせー」
少年は、しっかりと糊付けされた白いワイシャツのカラーに、生まれて初めてのネクタイをくしゃくしゃと結び付けようとしていた。
「マー坊くーんっ」
ガチャリ、二人の間に存在する親密さを示すかのように、ノックの音もなく部屋のドアが開けられる。
その人物は、新しい一年の始まりを告げるような、春の香りにおう風を引き連れていた。
「準備でーきたー?」
胸元の黒いリボンがよく映える白いブレザーを身にまとった、元気の塊がはじけ飛んでしまいそうな愛らしい少女の弾んだ声が響く。
ドアを開ける音、甘えたような声に、秋元真央は振り返り
「おぅ、奈緒ちゃん」
しかめっ面でそれに答える。
それと同時に、握りしめていたネクタイから手を離し
「いやー、参ったぜ。俺ネクタイなんか締めたことねーからよ」
悪戦苦闘で肩に力が入ったためだろうか、凝り固まった首をコキコキと鳴らした。
すると首元に手をやる真央の視界に、奈緒の姿が飛び込む。
「お、奈緒ちゃんは支度ばっちりみてーだな」
「うん!」
高校生活に胸を膨らませる奈緒は、元気よくそれに答えた。
そして、スカートをつまみながらくるくると回り
「わたしねー、学園に入学してからずっと、高校の制服にあこがれてたんだー。だから、今日から毎日この制服着れるんだって思うと、すっごく嬉しくてしょうがないんだー。昨日の入学式終わった後も、脱ぐのがもったいないような気がしてたんだよー」
そして後に手を組み、真央の顔を覗き込み、微笑んだ。
「えへへへ、ね、どうかな?」
これほど愛くるしい少女、真央でなくとも誰がそれ以外の言葉を口にできようか。
「ああ。すっげー似合ってるぜ」
にっ、と笑って言葉を返した。
「ぷぅー」
しかし、それでも不満そうに奈緒は頬を膨らませた。
「似合ってるとか、そういうんじゃなくって、ほら」
奈緒は、ふたたびくるくる回って真央に微笑みかける。
「ね?」
「あん?」
奈緒が求める言葉の質というものを図りかね、真央は腕組みをし、てその全身を眺め
「おお、そうか!」
手をぽん、と叩いた。
「さっそくそれ、使ってくれてんだな!」
真央が指差す先には
「その、なんだっけ、その、ほれ、髪とめるやつ」
一週間前、真央がプレゼントしたカチューシャがあった。
「え? えと、そっち?」
少々間の向けた声が奈緒の口から飛び出した。
ここまですれば、真央の口から言ってもらいたい、待ちわびていた言葉が聞けるかと思った奈緒だったが、その目論見は完全に外れたようだった。
「う、うん。昨日の入学式にもつけて行ったんだけど……」
ふわふわとゆれる美しい髪を、リボンのモチーフのついたカチューシャがしっかりと止め、そのかわいらしさをいっそう引き立てている。
「そっか、着けてってくれたのか」
生まれて初めて女性に渡したプレゼント、本当に気に入ってくれるかどうか少し不安であったが、入学式という節目の日にそれを付けていってくれた、それが真央には素直に嬉しかった。
「へへへへ、気に入ってくれたみてーだな」
少々の照れを含んだ笑顔を見せた。
「う、うん、えへへへへへー」
真央は、指で髪の毛の先をとかすような仕草をみせたが
「なん……だけど……ぷぅぅ」
期待していた言葉が返ってこなかったことには少々不満そうだ。
たった一言、“かわいいよ”とでも言ってもらえれば、それだけで今日一日がなおいっそう心のときめくものになるというのに。
「……でもまあいっか、マー坊君そういう人だし……」
だれかれかまわず“かわいい”と言うような男ではない、ということは奈緒にとってはむしろ安心できるところでもあるのだ。
そう考え、奈緒は気を取り直して言った。
「うん! ありがとねっ!」
「おう。ところでよ、これ」
もうお手上げだ、といわんばかりに両手を広げると、首元にかかった結ばれていないネクタイが空疎にゆれた。
「何度やってもうまく結べねーんだ。奈緒ちゃん、ネクタイ結べるか?」
「え? わたし?」
奈緒は目を丸くした。
「うーん、わたしもネクタイはむすんだことないなー」
「一応な、ほれ」
真央は握りしめてくしゃくしゃになった紙を見せ
「な? これ一応結び方らしいんだけどよ、これ見ても全然わかんなくてよ」
くしゃくしゃと頭をかいた。
「あーくそ。だからブレザーなんて気持ちわりいもん着たくねーんだよな。何で学ランじゃねーんだよ」
「あ、じゃああたしがむすんであげるー!」
そういうと奈緒は真央の手からしわくちゃになったマニュアルを奪い
「……んー」
その紙とにらめっこし
「……」
硬直してしまった。
「奈緒ちゃんでも、わかんねーのか?」
「……」
しばしの間無言で固まっていたが
「だいじょうぶ! 大体わかったから!」
穴が開くほど眺めていた紙を、くしゃくしゃと丸め放り投げた。
そして
「……たしか、こう、こうやって……」
両手で真央の首元にかけられたネクタイを握りしめ、なにやらもぞもぞといじくり出した。
「お、おお?」
急な出来事に、真央はそれに従うままになった。
「……あ、あのよ、奈緒ちゃん」
5分以上はたったであろうか、ずっと挙げたままの真央の首は悲鳴を上げた。
「……できねえならよ、もうそろそろ……」
「あたまあげて!」
もぞもぞもぞ、結んでは解き、右を左に上を下にと大騒ぎ。
「……うううー……」
真央には何をしているのか見えなかったが、とにかく周りが見えないくらい一生懸命であることは確かだ。
「うううー! こう、か、な? うん! きっとこう、だ、よ!」
そういうと、力ずくでネクタイを締め始めた。
「が、っが!」
その力ははすさまじく、真央の気管と血管を圧迫するには十分なものだった。
たまらず真央は奈緒の腕をタップし
「……も、もうちっと優しく……」
「君たちは一体何をやってるんだ?」
コメディ映画のような二人の醜態に、ため息交じりの言葉をもらす一人の少女の姿。
「うおっ!」
びくっ、背後から声を掛けられた真央は大げさにそれに反応した。
「ん? あ! 桃ちゃん!」
奈緒の顔がぱあと明るくなった。
「あのねあのね、マー坊君のネクタイがね、すごくてね、めちゃくちゃでね、それでね」
混乱していた様子がそのまま言葉に現われた。
「あのさ、俺ずっと学ランだったからよ、こう、ネクタイの閉め方わかんねーから、桃ちゃんにお願いしたんだよ」
首をコキコキ鳴らしながら真央は言った。
ふう、やれやれといったようなため息をついた桃のすらりと伸びた美しい足がストライドを取る。
綺麗にまとめられた栗色のポニーテールが、颯爽とゆれる。
そして真央の元に近寄り
「……ったく、子どもじゃないんだから……」
奈緒の手からネクタイを受け取った。
しゅる、しゅる、しゅる
「「おおー」」
真央と奈緒は驚嘆の声を上げた。
「さ、もういいだろ?」
こともなげに桃は言った。
「ほら、そろそろ出ないと、始業式遅刻しちゃうぞ」
「あ、ああ」
と真央。
「はーい」
と奈緒。
「じゃあ、先に行ってるからな」
というと桃は踵を返し、真央の部屋から出て行った。
あの美しい、駿馬の尾のような髪の毛が揺れる。
いつもと違うところといえば、先日真央がプレゼントしたシュシュがその髪をまとめている、というところだろうか。




