4.7(月)13:20
「ぜえ、ぜえ、ぜえ」
コーナーから伸びるロープに両手をかけ、そこにもたれかかるように背中を丸める。
アリアン・オニールの背中は大きく波打っていた。
「大丈夫か? まだ初日なんだ。無理をすることはない」
スタッフの一人が、ヘッドギアを装着したアリアンの頭の上に水をかける。
「今スパーリングパートナーはお前しかいないんだからな」
「があああああ!」
ドン、両腕でロープを強烈に叩く。
ビィ……ィン、感情を爆発させた激しい力にロープは悲鳴を上げる。
「……いったいどうなってやがる……」
一度も防衛戦に成功しなかったが、それでも自分は三階級を制覇した。
一旦引退した後、現実の壁にぶつかり、その苦さを嫌というほど味わった。
自分にはこの両拳で生きていくしかないと心に決め、カンバックを目指してトレーニングを積んできた。
そして、転がり込んできたビッグチャンス、逃す手はない千載一遇の機会。
コンディションもモチベーションも最高だ。
それなのに
「……なんで倒れやがらねえ……」
三階級を制覇した自慢のこの豪腕、それを何度も何度もたたきつけた。
8ラウンドもの間ずっと。
しかし、それがこのフリオ・ハグラーには全く通用しない。
あれだけ攻めたてたのに、疲弊しているのはむしろ自分の方だった。
インターバルを多少長めにとっているとはいえ、フリオのアジリティーは、またく変化していない。
手ごたえは、確かにあったはずなのに。
「……なぜだ……」
肩越しに、背後をにらみつける。
アリアンの背後に、トレーナーのリッキーより指示を受けているであろうフリオ・ハグラ―の姿が見える。
「今日のメニューはなんだ?」
陽気に笑いながらフリオは訊ねた。
「基本は栄養士に任せるしかないんだが」
ネッドは眼鏡のブリッジに手をやり、首を傾げながら
「そうだな……ステーキにペペロンチーノ、ライチってところかな」
「またか。スパゲッティはやめてくれ」
その言葉に憮然とした表情。
「常々言ってるだろう。焼いたビーフには、白いライスが一番合う、ってな」
「それは俺たちイタリア系に対して喧嘩を売ってるのと同じだぜ?」
リッキーがその言葉に噛みついた。
そしてフリオの頭に、ペットボトルから水をじゃぶじゃぶと注ぐ。
「イタリア系の俺には、その感覚はどうも理解しがたいがな」
「まあそう言うな。お互い様だ」
フルフルと頭を振り、二の腕で顔を拭いた。
「そうそう、君に朗報がある」
ネッドが言った。
「日本国内に、丁度いい拠点を見つけた。次のキャンプはそこで張ろう」
「そうか。君たち兄弟は実に手腕がいいな」
そしてニヤリ、と笑った。
その穏やかな様子を、アリアンは目にした。
「……ふざけやがって……」
アリアンの瞳に、暗い灯がともる。
体が怒りで、小刻みに震えるのがわかる。
自分の存在は、あの男にとっては全く取るに足らない存在という事か。
自分の内部から、激しい怒りがふつふつとこみあげてくることがわかった。
「……ぶっ潰してやる……」
カァァン
「があああああ!」
怒りを爆発させるかのように、両腕を振り回してフリオに向かって突進する。
フリオは冷静にそれをスウェーし、ガードする。
ヒュン、ヒュン、フリオの顔に、すさまじい風圧が、切れんばかりに感じられる。
トン、トン、トン、縦に揺れる重厚なフットワークで距離をとると
「ッン」
パパパパ、パン
左の三発とストレートを叩きこむ。
しかし
「!」
「ふぅうあああ!」
全身全霊、力を振り絞り、アリアンは前進する。
5ラウンド、何度もジャブを受け続け、徐々に顔がはれ始めている。
しかし、どんなに被弾しようと、自分の希望と、そしてプライドにかけ、アリアンは全身をやめるわけにはいかなかった。
そして
「はあっ!」
フリオをロープに貼り付け、巨体を揺らしてボディ、フックを叩きこむ。
栄光からの没落、それを許した自分の愚かさ、傷つけられたプライド、抱えていた矛盾のすべてを目の前のこの男、フリオ・ハグラーに投影し、破壊しようとする。
ガチャリ、ジムの扉が開けられる。
ネッド、そしてリッキーは後ろを振り返る。
そこには
「オーヤー、ミスター」
ひょっこりと、専属ドライバーのベンジャミン、ベン爺さんの顔があった。
「そろそろ迎えの時間なんですが、オーヤー。まだ早かったようですかね」
「やあ、ベン」
その笑顔に、ネッドもまた笑顔で答えた。
「いや、今日はもうそろそろ切り上げるつもりだったから」
そう言うと腕時計に目をやり
「かえって丁度良かったかもな」
「オーヤー、あれ、ミスターはロープ際に押し込まれているじゃないですか。珍しい」
飄々とした様子で、時折抜け落ちた歯の隙間からひゅうひゅうとなる通気音を混じらせながら言った。
「オーヤー、相手は一体だれですかね。強い方なんでしょうかね、オーヤー」
「爺さん、ボクシングはあまり見ないかい?」
片方の眉を上げ、笑いながらリッキーは訊ねた。
「オーヤー、子どもの頃はよく見てましたがね、オーヤー。懐かしいもんです。モハマッド・アリがリストンとやった頃ですかね、オーヤー」
不揃いな歯をむき出しにし、懐かしそうにベンは語った。
「オーヤー、今はもっぱらメジャーリーグ専門です。オーヤー」
「そうか。なら仕方ないな」
再びリッキーはリングへと目を戻した。
「今のこの状況、見慣れない人間にはフリオが一方的に押し込まれてるようにしか、見えないだろうからな。まあ、爺さん、あんたもこっちに来て一緒に見ないか?」
ベンは言われるがままに、トスカネリ兄弟のいるリングサイドへと歩みを進めた。
そして、一見何もできないままパンチを浴びせかけられるフリオを見た。
そこで、この誰にも愛される老人にも、一つ気が付いたことがあった。
「オーヤー、ミスターは、いつもとは違う体の使い方をされてますね、オーヤー」
ロープに押さえつけられながらオーソドックスに構え、右腕を大きく上げて右ほおをガード、左手はやや肩を突き出しながらボディーをガードしている。
アリアンは何度も何度もフリオに拳を浴びせかけ続けるが、ボディーは左腕がガード、左右のフックは太い腕と左のショルダーががっちりとガード、パーリングで防がれている。
時折ガードを突き抜ける拳は、上下左右に細かく揺れる上体がすべてスリップアウトする。
驚異的な柔軟性を生かし、あらゆるパンチの勢いを殺していた。
「ベン、君も知っているだろう、“キンシャサの奇跡”」
ネッドがベンに語り掛ける。
「1974年、コンゴで行われた、正規のタイトルマッチ。ジョージ・フォアマンにモハメド・アリが挑み、下馬評をひっくり返して勝利した試合。あの時、フォアマンの猛攻を、アリはすべてロープ際でしのぎ切りそして勝利したんだ」
「その時アリがとった戦術が、“ロープ・ア・ドープ”。これはアリアンはきっと、手数から言っても、手に伝わる衝撃から言っても、自分が主導権を握っていると思っているだろう」
リッキーは冷静に言った。
「しかし、それは間違いだ。主導権を握っているのは、フリオ・ハグラー、偉大なるチャンピオンだ。これはフリオ・ハグラー・スタイルの“ロープ・ア・ドープ”だ」
「がああああ!」
ぶん、ぶん、ぶん、とにかく体を振り続け、腕を回転させ続ける。
「! っ! なんっで! たおっ! れねえっ!」
酸欠と混乱の中、耐え切れないかのようにアリアンは叫んだ。
「ねえ、ベン、フリオのニックネーム、なんだかわかるかい?」
ネッドがベンに訊ねる。
「オーヤー、確か、地獄の番犬、なんて呼ばれているらしいですね、オーヤー」
腕組みをしながらのベン爺さん。
「なんでも、つるっつるの頭とグローブと並ぶと、頭が三つあるように見えるとか、オーヤー」
「それはフリオに言っちゃだめだよ。“ハゲてんじゃねえ! 俺はあえて剃ってるんだ!”って怒鳴られるよ」
ネッドは苦笑した。
「でもまあ、確かに。下の階級から這い上がって来たあらゆるボクサーを退け続けている、という点では間違いではないかな」
「もう一つ教えてやろう、爺さん」
リッキーが口を挟んだ
「“ミスター・パーフェクト”だ」
何度も腕をふるい続けるアリアン。
「ふぅ! ふっ! ふわっ!」
しかし、それにも限界があった。
当然のことながら、徐々に疲労が限界を迎えつつあった。
そして、最初はきちんと前後に開かれていたはずのスタンスが、拳をふるうことに集中しすぎていたために知らず知らずのうちに揃い始めていた。
冷静さを失ったこともまた、アリアンのパンチの威力が減少していった理由でもあった。
そして、フリオは、そこまでを含めてすべて計算の内においていた。
「わかるかい? 彼が本気で中距離の打ち合いを挑めば、おそらく二階級上のアリアンだってマットに立ってなんかいられないだろうさ。だけど、今彼はあえて打ち込ませる、打ち込ませてやっているんだ」
リング上から発せられる熱気に、ネッドは眼鏡を外しその曇りをハンカチで拭き取った。
「もしフリオがディフェンスに専念し、ポイントアウトでの勝利をよしとする男なら、今のこの男はだれにも負けることはないだろうよ。それぐらい、隔絶した技術を持っているんだ」
「だけどな、それがどうにも性に合わんらしい。“客が喜び、俺は早く帰れる。KOこそがボクシングだ”ってな」
リッキーは続けていった。
「みんな勘違いしているが、フリオの正体は単純なハードパンチャーじゃない。単純にスォームするわけでもないし、単なるボクサーファイターでもない。フリオは、インに、アウトに、あらゆる局面に対応できる技術を持っている男なんだ」
リングが鳴り、そして新しいラウンドが開始されても、同じ光景が繰り返される。
フリオはあらゆるテクニックを駆使して、アリアンの豪打を殺し続ける。
ふとアリアンは。ロープに押し付けた、鉄壁に見えたフリオの構えに隙を見つけた。
ボディーをガードするために下げられた左側頭部、そこはいかにもガラ空きに見えた。
何度かガードをかいくぐった拳は、すべて右ストレートだった。
ここをこじ開けるほかにない、アリアンはそう考えた。
「ここだ」
リッキーは冷静に言った。
「やっぱり、あの約束、カンバックのわたりつけは、どうにも無理そうかな」
冷静を通り越し、冷酷にも聞こえる言葉をネッドは放った。
「フリオのスパーリングパートナーくらいにしか、使い道がない」
「がああああ!」
アリアンはありったけの力を振り絞り、右ストレートの連打を放った。
「バカが」
とリッキー。
「右の連打を放つなんてね」
とネッド。
一度目の右ストレートを、左ショルダーでブロックする。
そこに、二発目のストレートが浴びせかけられる。
それを再び左ショルダーでガード下その瞬間、やや体を開き、パンチを肩の内側で受け止める。
その勢いを利用し、腰を左に切ると、その拳を迎え入れるように懐へと引き込んだ。
アリアンははバランスを崩し、顎を浮かせたままフリオの射程距離に無防備にさらけ出した。
そこに待っていたものは
「!」
シュンッ
それまで右顔面をガードしていた右拳が軌道を伸ばし、見事にアリアンの下顎を揺らした。
「ぎっ!」
アリアンはカエルがつぶれるような声をあげた。
アリアンの足元から、ざわざわと細かい痺れが上り、そしてそれが脳まで達した時、アリアンは足元から崩れ落ちた。
「オーヤー」
ベンは驚嘆の声のみがジムに響いた。
「この後の予定は?」
対照的に、あくまでも冷静にリッキーがネッドに訊ねる。
「そうだね、昼食が終わって3時から練習再開だね」
そう言うと、ネッドはポケットから携帯電話を取り出した。
「……もしもし? ああ、ネッドだ。そろそろだ。うん、そう。スパゲッティゆでておいて。僕たちが帰った時に、丁度食べごろになるように。そうそう、うん。アルデンテになる直前の……いやいや、だからいつも言っているじゃないか! ゆですぎは絶対にいけないって! え? 話が違うじゃないか! 甘ったるいカルボナーラなんかじゃないよ! ガーリックを聞かせたペペロンチーノにしろって! え? うん。そうそうそれでね……」




