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    4.7(月)12:10

「まさかこんなところで会えるとはな」う

 フリオは、アリアン・オニールのもとへと近づく。 

 その身長差、10センチはあろうか、フリオがアリアンを見上げるような格好になる。

「お前を見たのはテレビの中だけだったがな。確か、ライトヘビー級のタイトルマッチだったな。右の豪快なフックの連打、ありゃあたいしたものだった」

 飄々とした表情でフリオは言った。


「俺はあんたの試合、何度も足を運んだよ。あんたに憧れてたのさ」

 そのいかめしい風貌に似合わない、落ち着いた温和なトーンでアリアンは言った。

「あのタイトルマッチの時、あんたがウォーレン・スミスを倒した時のことを参考にしたんだ。とにかく俺にはこの強打しかねえ、とにかくハートを強く持って、相手に突っ込んでいって右フックをぶん回したんだ」

 ぶんぶんっ、豪快に右腕を振り回した。


「ふん、光栄だな」

 にやり、フリオは口元をゆがめた。

「そんなお前が何で今スパーリングパートナーとして、おれの前に立っているんだ? 大体お前は去年引退したと聞くが?」


「金が……金が要るんだ」

 眉間にしわを寄せ、心の底からこみあげるようにアリアンは言った。

「俺は三階級を制覇した。だが、手元には1ペニーたりとも残っちゃいねえ。プロモーターに取り巻きに、他にも大勢がおれの金に群がり、毟り取っていなくなったんだ。勝つだけじゃ……勝つだけじゃ自分の金を守れなかったんだ」

 

「……」

 フリオはその言葉にじっと耳を傾けた。

 

「冷たいもんだ。すっからかんになったおれには、誰一人見向きもしねえ。だからジョブフェアにも足を運んだし、昔のつてを使って職探しもしたんだ。だけど俺には学がねえ。職人になれるような器用さもねえ。まともな職につくことはできなかったんだ。人しか殴ることのできねえの二つの拳、一度は恨めしく思ったりもしたもんさ。だけど、そんな俺が」

 そして、すでにバンデージに包まれた量拳を握り締め

「そんな俺が、一瞬だけでも輝くことができたのは、やっぱりこの拳のおかげだったんだよ。今だってそうさ。おれにはもうこの両拳しか残ってないんだよ」


「スシバーの仕事なら、今すぐにでも紹介してやるぜ」

 口髭からのぞく白い歯をむき出しにしてフリオは言った。


「ふざけないでくれ! 俺は本気なんだよ!」

 今度はアリアンは感情をむき出しにして怒鳴った。

「契約が成立したんだよ。契約期間にあんたをダウンさせる度に1万もらえるってな。それだけじゃねえ。一回でもノックアウトできたら、ネッドがマネージャーとして、もう一度ボブ・ホフマンに俺を売り込んでくれるってんだ」


 チラリとフリオのほうを振り返ると、彼は無言でうなづいた。

 そしてふぅっ、とため息をついた。

「三階級制覇したお前が今その境遇にいるのはなぜか、考えてみたことはあるのか? お前の莫大なファイトマネーのほとんどを搾取したあの男に、お前はまた頭を下げようというのか?」


「生きていくためには金が必要なんだよ。金のためなら、俺は悪魔のケツにだってキスするんだよ」

 アリアンはフリオを睨み付け、そして言った。

「カンバックして、後三回、いや二回でいいんだ。あんたを何度もダウンさせて、そしてビックマッチを組むんだ。そうすれば、もうおれは負け犬じゃねえ!」


 アリアンの絶叫にも動じることなく、フリオはその目を睨み続けた。

「……」

 そしてしばしの沈黙の後

「リッキー、今すぐ準備してくれ。20じゃない。今日は16オンスでよさそうだ」


「了解だ」

 その言葉を受け、リッキーは壁にかかった、古ぼけたグローブに手を伸ばした。


「どうだい? 気に入ってくれたかい?」

 メガネを人差し指で押し上げながらネッドは言った。


 するとフリオは口元をゆがめ、あの悪魔のような笑いを浮かべた。

「最高の“動くサンドバッグ”だ」





 カァァン

 

 ゴングの音とともに、ややガードを下げたオーソドックスのアリアンは、べた足のままずんずんとフリオに向かって突進する。

 対するフリオもオーソドックスに構え、両腕でしっかりとガードを固め、上下に大きく揺れるフットワークでアリアンを迎え撃つ。




「アーリアンが身長188センチ、か」

 ロープにもたれかかったネッドが、カルテを点検する医師のように言った。

「フリオの身長が大体180、10センチ近く違うね」


「だがどうだい、リーチを見ろよ」

 今度はコーナーポストにもたれかかるリッキーが顎でリングを指す。

「わずかだがフリオの方が上回っているようだ」




「ガァァッ」

 ブン、ブン、ブンッ

 アーリアンが重い左フックを振り回す。

 ズンッ

 グローブに包まれた巨大なこぶしが、フリオの頭にガードの上から叩きつけられる。

 ガクッ、フリオの上体が、台風にさらされた樹木のように大きく揺れる。




「やるねえ」

 ヒュウッ、リッキーが涼やかに口笛を吹く。

「腕力とタフネスに物を言わせた、典型的なスラッガーだな。単純なパワーなら、フリオ以上だろう」


「これにもう少しフットワークとコンビネーション、精神力がともなっていたならば、彼はもしかしたら“ミドル級のスモーキン・ジョー”と呼ばれていたかもしれないな」

 アリアンのその闘志を、ネッドは元ヘビー級統一王者ジョー・フレージャーになぞらえた。

 モハメド・アリのプロキャリアに初めて土をつけ、ジョー・フレージャーに6度倒されながらもなお前進を続けた男に擬せられるのであれば、最大限の賛辞と言ってよい。

「一昔前の泥臭いスタイルのアリアンが三階級制覇できたのも、この強打があってこそ、さ」



 

 アリアンはフットワークをほとんど使うことなく、べた足で左右のフックを振り回し、フリオをコーナーポストまで追い詰める。

 “ジ・エッジ”の名の如く、左足が出れば右フックが、右足が出れば左フックが、前方に存在するあらゆるものをなぎ倒さんばかりの勢いだった。

 フリオのその鉄壁のガードもお構いなしに、その上からフックの連打を浴びせ続ける。


 フリオは体を密着させ、距離を殺してクリンチすると、ピボットですばやく体を入れ替えて距離をとる。

「シュッ」 

 シュッ、シュッ、シュン

 左手をしなやかに用い、シャープなジャブを側面に繰り出す。

 その脚はリズミカルにステップを踏み続ける。

 パ、パパンッ、パ、パ、パンッ 

 フリオはあくまでも冷静に、鋭い左のジャブを的確に、何度もアリアンの顔面にヒットさせる。

 

 するとアリアンは体の向きを変え、再びずんずんと距離をつめ

「んうううっ!」

 ズシッ、ズシッ

 重い左ジャブを繰り出し続ける。

 ぶしゅうっ、マウスピースの隙間から唾液が霧のように噴出した。

 


「どうやらタバコと薬にだけは絶対に手を出さなかった、ってのは嘘じゃなかったみたいだな」

 劣勢に追い込まれるフリオの様子を見てもなお、リッキーはアリアンの調子を正確に分析できるほど冷静だった。

「長らく試合から遠ざかっているボクサーがこれだけのスタミナを見せられれば上等だ。加えて金とチャンスに飢えているときている。モチベーションの面から見ても申し分ない」


「そうでなくては、わざわざスカウトした意味はないよ。もはや今のフリオに中距離での勝負を挑めるスラッガーは、同階級にはいないだろうから」

 弟のネッドも同様に、異様なほどに冷静だった。

「最後にアーリアンが獲得したのはライトヘビー級のタイトルだ。ライトヘビー級が大体76キロから79キロだとすると、明らかにクルーザー級、90キロ近くはありそうだ」


「しかしフリオのほうも、本格的なキャンプ前で、76キロ以上、スーパーミドルを越えてライトヘビー並みの体格だ」

 リッキーが呟き、そしてフリオを指さした。

「太い大腿筋、盛り上がった後背筋、分厚い大胸筋、体中のどこを切り取ってみても、フリオの体はアーリアンに見劣りするものではない。ボクサーの体は、単純な数字で計りきれるものではないんだ」




 フリオの左ジャブを被弾しながらも、アリアンはタフネスにものを言わせてぐいぐいと前に突っ込んでいく。

「んぐぉぉ!」

 左のボディーフックの連打、頭部にオーバーハンド気味の振り下ろすようなフック、鈍く思い拳を何発もフリオに浴びせ続ける。

 さらに右ボディフックを数発連打、そして右フックの連打、その巨体をねじ込むような突進の圧力で、フリオをロープ中央に押し付ける。

「んぐぁあ!」

 そしてそのままなぎ倒すような左右のフック、そしてアッパーを繰り出し続ける。


 カァァン

 

 3分間のスパーリングの終了を告げるゴングがなった。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁっ」

 息をつくまもなく攻撃を繰り出したアリアンは、肩で大きく息をつき、フリオにもたれかかった。

 ダウン1回で1万ドル、ノックアウトで世界最高のプロモータとの契約、目の前にぶら下がった報酬は、自分をもう一度栄光の舞台へと駆け上がらせるビッグチャンスだ。

 それをこの手に掴むため、アリアンは全身全霊でフリオへと挑みかかったのだ。

 憧れたボクサーとて恐れることはない、自分の方があらゆる点で勝っている、現にミドル級絶対王者が手も足も出なかったじゃないか、次のラウンドで絶対にチャンスをものにすることができる、アリアンはそう考えていた。


 しかし


 ぐいっ、もたれかかるアリアンの巨体を両手で押し返し

「お疲れさん、インターバルだぜ」


「!?」

 アリアンは言葉を失った。


 驚愕するアリアンを横目に、涼しげな顔でフリオはロープから姿勢を戻し、何事もなかったかのようにトスカネリ兄弟の待つコーナーへと戻って言った。


「よぉ、フリオ」

 コーナーに戻るフリオに、リッキーは声をかける。

「絶好調じゃないか」

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