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    4.7(月)12:00

 ラスベガス郊外、喧騒を離れた位置にジェリー・チック・ボクシングジムは存在する。

 粗末なコンクリート作りのジムの壁には、ファイティングポーズをとるボクサーの壁画が朽ちかけながらも残っている。

 そのジムは、1人の男のために貸しきられ、その扉は厳重に閉鎖されている。


「しゅぅぅっ」

 そのジムの中、エバーラストのボクシングトランクスをまとった脚が前後に開脚し、そのまま静かに、大地に自分自身を垂直に沈めるかのようにじりじりと股を割っていく。

「――――っ」

 深く、体中の酸素を搾り出すようにして息を吐き、瞳を閉じ、手は胸元に合掌し、耳は自分自身の呼吸に静かに傾ける。

 見事にそり挙げたスキンヘッドとチョコレート色の肌は、その姿をあたかも古のガンダーラの沙門のように見せる。

 脚が見事に180度開き、股間はそのままぴたりと床に吸い付く。

 蒸し暑いジムの空気に、体全体の筋繊維と血管が浮き上がり、じりじりと体中から汗が染み出ていくのがわかる。

 その間、彼、フリオ・ハグラーは、苦行する南アジアの修行僧そのものであった。。


 


「さすがだな」

 色味の薄いサングラスをかけた、筋肉質の白人男性がジムの扉を開けてフリオに話しかける。

「まるで一流のバレリーナを見ているようだ」


「リッキー」

 その声に反応したフリオは、少しずつ脚を閉じ

「どうということはない」

 そのまま、すくと立ち上がる。

「いつもの俺のビジネスをこなす、それだけの事さ」

 そして指を後手に組み

「ふぅっ」

 口からゆっくりと息を吐き、上体をかがめて肩甲骨周辺の筋肉をほぐし始めた。

「ランニング前にだって入念にやっている。年も年だ。靭帯を痛めてトレーニングができなくなってしまったら、その損失は計り知れないからな」


「いつ見てもお前さんの柔軟性は素晴らしい。その年齢にしてその肉体、世界中のボクサーに見習わせたいところだよ」

 ネッドの兄にしてフリオのトレーナー、リッキー・トスカネリは首にかけたタオルで汗を拭きながら言った。

「早朝5時に起床で、10kmのランニングか。自転車でついて行くのですら、俺にはそろそろきつくなってきたよ」


「――むっ」

 上体を起こしながらフリオはかすれたような声で言った。

「10kmなどたいした距離じゃない。ハイスクールの女の子のダイエット程度にしかならんだろう」

 そしてそのまま床に座り込むと、左右に180度開脚し、股関節のストレッチを開始した。

「むしろその後のプライオメトリクス・トレーニングの方がよほどきつい。50mダッシュを10本に、ボックスジャンプにデプスジャンプ、よくもまあこんな年寄りの体をいじめるネタを思いつくかと思うぜ」


「はっはっは、お前さんの心臓はそれぐらい追い詰めないとまともに稼動してはくれんだろ」

 リッキーは豪快に笑い、フリオの横に腰をおろした。

「その後に浴びるシャワーを格別のものにしてあげているんじゃないか。ありがたく思え」


「ああ。おかげさんでその後の4時間、夢も見ないでぐっすり眠れるよ」

 床にほおをつけながらフリオは憎まれ口を呟いた。

「しかし、いつまでたってもオートミールの味には慣れん」

 そして立ち上がると、腰に手を当て体を反らした。

「やっぱり朝飯もパンかライスがいいんだがな」


「そこはおれのビジネスじゃない」

 にやりと笑いながら言った。

「朝飯くらいはニュートリショニストの指示にしたがってみたらどうだ? 昼飯夕飯は好きなだけ食わせてやってるんだからな」

 

 ふん、とフリオは鼻息を吐き

「言ってろ」

 と再び悪態をついた。

「まあいいさ」

 パシン、バンデージに包まれた右拳で左の手のひらを叩いた。

「とっとと10ラウンド終わらせて、ステーキの油であの気持ち悪い後味を消し去っちまいたい。早くアミールとエンリケを呼べ」

 

「やめたよ」

 吐き捨てるようにリッキーは言った。

「二人とも。昨日付けでな」

 

 ヘッドギアを装着する手が、ぴたりと止まる。

「何だと?」

 スキンヘッドに青い静脈が浮かび上がる。

「一体どういうことだ? これで何人目だと思っているんだ?」


「お前さんがあまりにも簡単にパートナーを壊しすぎるんでな」

 フリオの背後に回ったリッキーは、そのまますぽんとヘッドギアを装着させた。

 そしてコンコンとその頭を叩き

「1万もらってもお前さんのスパーリングパートナーは割に合わんそうだ」


「そんなことはどうでもいい」

 フリオは振り返り、リッキーに向かって怒鳴った。

「あんたは俺のトレーニングメニューを組み、そして俺はそのメニューを忠実にこなす。それがお互いを尊重したビジネスパートナーなんじゃないのか?」


「仕方ないだろう。あの二人のスパーリングパートナーを見つけるのすら一苦労だったんだからな」

 両手で押しとどめるような仕草でフリオをたしなめた。

「もはやミドル級でお前のパートナーを務められる人間は、世界中探してもいないだろうよ」


 フリオは忌々しげに爪を噛み、

「こっちは20オンスでスパーをしてやってるってのにか?」

 手にしたグローブを地面にたたきつけた。

「根性なしが!」

 

「まあ、そういきり立つな」

 グローブを拾い、ぽんぽんとほこりを払いリッキーは言った。

「代わりにとびっきりの男を用意した」


「代わりの男?」

 その声に、怪訝な表情のフリオ。

「とびっきり? どういうことだ?」


 ガチャリ、扉が開けられた。

「やあ二人とも、もうジムワークかい?」

 数人のスタッフを引き連れてマネージャー、ネッド・トスカネリがジムへと姿を現した。


「そんなことはどうでもいい!」

 フリオは感情を露にし怒鳴った。

「そのとびっきりの男とは一体誰だ?」


「そんなにいきり立たないでくれ、フリオ」

 兄同様、なだめるような仕草でネッドは言った。

「兄さんから聞いたろ? もう君のパートナーを務められる人間がいないってさ。いろいろ考えたんだが、もうミドル級以上の階級出身者しか無理だって言う結論に達したのさ。ね? 兄さん」


「そうだ。そこでうってつけの人物が思い浮かんだ、ってわけだ」

 弟のサジェストを受け、兄、リッキー・トスカネリが言葉をつないだ。

「『リングサイド』のジェームズ、覚えてるか? あのインテリ記者さ。彼と相談したんだ。そして渡りをつけてもらったのさ」


「あんたらの苦労話はどうでもいい!」

 フリオはぴしゃり、叩きつけるような言葉を吐いた。

「その男はどんな人物だ? 本当におれにとってうってつけなのか? その辺をしっかりと説明してくれ!」


「さっき言った通りさ」

 人差し指でメガネを押し上げながら、ネッドは言った。

「何しろ、元三階級チャンピオンさ」


「元三階級チャンピオンだと?」

 その言葉をおうむ返しにしてフリオは言った。


「そうだ」

 にやり、リッキーは笑った。

「ミドル、スーパーミドル、ライトヘビー級の三冠を獲った男だ。しかし、今はセルラー一つ持てないほどに落ちぶれてしまってな。ジェームズもその行方がわからなかったそうだ。な? ネッド」


「そうだね、兄さん」

 ネッドは出入り口にあるベンチに腰をかけた。

「だが、ジェームズの友人、ジェームズはそう呼ばれるのを嫌がっていたけどね、『テキサス・アナリシス』のチャールズ・ブライトマン記者がプライベートで会うことがあるらしいこと聞いたんだ。そこでチャールズを介して連絡を取り、ブロンクスのストリートをふらついているところを捕まえて、そして契約を持ちかけたのさ」

 そういうとネッドは出入り口に向かって手招きをした。

「さ、入ってくれ」


 スタッフの波を、のっそりと巨大な肉体がかき分ける。

 頬を覆う黒い髯、刈り上げられたスキンヘッド、三白眼のやぶ睨みの目。

 そして突き出た分厚い唇とフリオよりもさらに深い褐色の肌。


「君も、この男に見覚えがあるだろう」

 リッキーはその男に近づき、方をポンポンと叩いた。

「アリアン・“ジ・エッジ”・オニール、れっきとした三階級王者だ」

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