3.31(月)18:30
「あ、マー坊君、お帰りなさーい」
リビングのドアの開閉音に振り返った奈緒は、もはや見慣れたはずのその顔を確認すると、待ちわびたような甘ったるい声で迎え入れた。
丁度夕食の支度を終えたところであろうか、その手には煮物をよそおった、インディゴで染付された瀬戸物の食器が確認できた。
「こんな遅くまで、どこに行ってたの? マー坊君ケータイもってないから連絡とれないし。すっごい心配しちゃったよ」
二つ年下のはずの奈緒が、まるで弟をたしなめるような口調で話かけた。
「ああ、すまねー」
頭を掻きながら真央は肩をすくめる。
「あの後テストとかあったしよ。まあ、色々な」
「そう言えばそうだったね」
かちゃり、食器を配膳しながら奈緒は言う。
「ごめんね、テストの事すっかり忘れちゃってたから。ちゃんと間に合った?」
「ん、まあな」
どすん、練習用具一式の詰め込まれたクラブバッグは重々しくフローリングに音を立てる。
真央はソファーに腰かけ、ふう、リラックスした気分になった。
「あの後葵とシャワー室の外で会ってよ、そんでテスト会場まで連れてってもらったから全然迷わんかったぜ」
「そっかー、そう言えば葵ちゃんが一緒だったんだね」
配膳を終え、真央の方を振り返る奈緒。
そして、身に着けたエプロンの裾を指でくるくるといじりながら
「……その……どう……っていうか……あのあと、何かあった?」
もじもじとしながら言った。
「あん?」
その言葉を聞くと真央は、そのもじゃもじゃした頭を掻き毟った。
その鳥の巣のような縮毛の塊は、一層沸き立ったかのように見えた。
「……ああ、まあ、とりあえずやるだけの事はやった、かな……」
「“やるだけの事”!?」
びくん、奈緒は身を硬直させて声をあげた。
「ま、マー坊君、いったいどういう事? 葵ちゃんと、二人っきりで?」
「いんや」
着古したような学生服を脱ぎながら真央は言った。
「葵と二人ってわけじゃねーけどな。あの岡添って女も一緒だったし」
「お、岡、岡添って? あの秘書の人?」
顔を真っ赤にしながら奈緒は一週間前の理事長室で目にした岡添の姿を思い浮かべる。
赤いアンダーリムの眼鏡に、知性を引き立てる黒いスーツ。
桃ほどではないが、すらりと伸びた手足。
そして、そのスーツの上からもわかる、グラマラスな肢体。
醸し出される大人の女性の色気は、奈緒が自分自身をそれと自覚している子どもっぽさとは、対極の存在だった。
「あ? んん。そうだな」
真央はぐしゃぐしゃと学生服を丸めると、無造作にクラブバッグの上に投げ置いた。
「参ったぜあの女、めちゃめちゃしつこい攻め方でよ。こんなにハードな経験、今まで経験したこともねえぜ」
真央は自習室での出来事を思い出す。
手に持った、明らかにできの悪い解答用紙で真央を責めさいなむ岡崎女史の姿。
それまで真央が近づいただけでも叫び声を上げていたはずが、精神的に優位に立ったと判断したとたんに強気に出ていたのだった。
「あの女さ、あーいう時になると性格変わんのな。あんなに激しいの初めてだぜ」
そう言いながら苦笑した。
「あ、あーいう、あーいう時?」
奈緒は顔を赤らめ、両手で頬を抑えた。
「そ、そ、そ、そこに、葵ちゃんも一緒にいたの?」
「まあな」
白いロング丈のTシャツ一枚になった真央は、後ろ手を組み、悠々と伸びをしてソファーにもたれかかった。
「途中から桃ちゃんも合流してよ」
「も、も、も、も、桃ちゃんも!? よ、四人で!?」
奈緒はその大きなくりくりとした目をさらに大きく広げ叫んだ。
そしてエプロンのはしをぎゅ、っと握りしめ
「ま、マー坊君、不潔だよ!」
「あん?」
そう言うと真央は自分の体中を一つ一つ点検し
「あ、わりいわりい。そういや手も洗ってなかったな」
そう言って笑って頭を掻いた。
「そう言うことじゃないでしょ!」
そう言うと真央に背中を見せ
「わたしだって……わたしだって……その……」
勢いよく振り返り、顔をこれでもかといわんばかりに紅潮させ、手足を金塗油させて伸ばしながら拳を強く握りしめ
「わたしだって! マー坊君のためになら! その……」
体をもじもじさせ、そして意を決したように叫んだ・
「――なこと、してあげられるんだから!」
びくん、そのあまりの剣幕に真央は状態を反射的に起した。
「お? おお」
そういうと真央の頭には、岡添女史の言葉が浮かんだ。
――何割かはうちの中学校の入試問題を混ぜてあるというのに!――
その言葉を思い出すと、真央はチクリと胸が痛んだ。
思い返せば、今まで生きてきた中でほとんど勉強らしい勉強をしたことがない。
しかし、釘宮姉妹のおかげで今こうして高校生活を送ることができるのだ。
自分がしっかり勉強しなければ、この心優しい姉妹に迷惑をかけてしまう事だろう。
中学校レベルの勉強からでも、少しづつ勉強をしていかなければならない、真央はそう決心した。
「そうだな、奈緒ちゃんにお願いするのが一番いいかもな」
「え、え、ええ?」
上ずった声をあげた奈緒な、その年に釣り合わない豊かな胸を両腕で抑えた。
「そ、そ、そ、そう言ってもらえるのは、すごくうれしいし、ちょっと怖いけど、でも、マー坊君なら、って、それに最初からそのつもりだってっていうか……みたいな? そ、そう。うん。わたし、最初からそのつもりだったし……」
そして横目でちらりと真央を見ると
「……マー坊君がいいなら……今日の夜……でも、いいんだよ?」
「サンキュな」
そう言うと真央はニイッ、と笑った。
「そう言ってもらえるとうれしいぜ。だけど、今日は疲れちまってな。その後丈一郎とも、な」
カフェ・テキサコで丈一郎と話し合い、そして心に来またプレゼントを購入のために、疲れた体に鞭を打ち駆け回った。
しかし、その事はまだ言えない。
その喜ぶ顔を見るために、真央はあえてその目的をぼやかした。
「え、え、え、え、え、え、え、え、え、え、えええええええ!?」
奈緒は爆発戦火のごとく飛び上がり叫んだ。
「マー坊君、そういう人だったの!? 両方できる人だったの? 仲いいのは知ってたけど!? そういう関係になっちゃったの?」
「お、おおお!?」
その奈緒のあまりの剣幕に、真央は面食らった。
「ん、ああ、よくわからんけど、まあな」
奈緒の体が小刻みに、プルプルと震えた。
「マー坊君!」
そして再び叫んだ。
「今日は絶対あたしとしなきゃダメ!」
「ああ?」
そういうと真央は苦笑し頭を掻いた。
「参ったな、今日くらいは勘弁してくれよ。こんだけ一杯したんだからさ。もう十分だよ――」
「わたしはしてないもん! 私がしてあげたいもん! マー坊君に――」
「勉強は」
「えっちなこと!」
「あん?」
「え?」
お互いの声は、お互いの声によって相殺された。
しかし、何となく、お互いが自分の発した言葉とは異なる言葉を発したことには気が付いているようだ。
「すまん、奈緒ちゃんの言葉よく聞こえなかったわ。なんつったんだ?」
きょとんとした表情の真央。
「え? えええ?」
体をもじもじさせる奈緒。
「マー坊君こそ、なんて言ったの?」
「ああ、まあ、今日はもう勉強するのは勘弁してくれって」
そういうとはあっ、と深いため息をついてうなだれた。
「おれさ、今日ほど自分の勉強できなさ加減にうんざりしたわ。テストもできねーし、あの岡添って女にはその事で散々なこと言われまくったしよ。桃ちゃんと葵がいなかったら、きっとまたひと暴れしてたかもしねーわ」
そして顔を上げ、ニイッ、と笑い
「約束だぜ? 年下に頼むのもなんだけどよ、勉強わかんねーとこ、中学の範囲でいいから教えてくれよ? な?」
その言葉を、無言のまま呆然と立ち尽くし言いている奈緒。
「? どうしたよ奈緒ちゃん、話聞こえてるか?」
怪訝な表情で言う真央。
「おーい、奈緒ちゃん、おきてっか?」
「ぴゃ? ぴぇ?」
ろれつが回らないような言葉を返す奈緒。
「う、うん! も、もちろんだよ!」
ようやく自分自身の勘違いに気が付いた奈緒は、頭を振り、何かを振り落すかのようにドン、と胸を叩く。
「わたしのわかる範囲でよかったら、断然本気の一生懸命であの勉強とかいろいろの諸々であのあれが何だから!」
「なにいってっかわかんねーよ」
真央は怪訝な表情。
「つーかさ、さっき、奈緒ちゃんはなんつったんだ?」
「うに?」
奈緒は心臓が止まりそうになった。
「あ、あ、さっきって?」
「ほら、さっきさ。お互い声がかぶって聞こえなかっただろ。なんつったのかな、って思ってよ」
「え、え、と。その……」
熟しすぎたトマトのように顔を赤くした奈緒は
「なーいしょ!」
そう叫んでキッチンへと戻って行った。




