3.31(月)14:00
コンコン
小さいノック音が、廊下と特別教室に響く。
「一年A組、礼家葵です」
玉を転がすような美しい声がそれに続く。
「……転校予定の秋本真央です……」
一転してふてくされたような、太い声が空気をかき乱す。
「……どうぞ」
ボクシング同好会の扉とは違い、立て付けのよいしっかりとした青い扉の奥から、かすかに声が聞こえる。
スウッ
音もなくスムーズに引き扉は開けられ、先ほどの美女と野獣コンビは4号館の自習室へ入室した。
「失礼いたします」
葵が頭を下げると、墨を流したようなストレートの髪がふわりと舞う。
白いブレザーに黒いリボンが胸元で踊る。
その仕草は、シロツメクサの中に舞い踊るクロアゲハのようなエレガントさを漂わせる。
どこからどう見ても、どこに出しても恥ずかしくない優等生だ。
「……しゃっす……」
同じく真央が頭を下げると、カラスが途中で設営を放棄した鳥の巣のようなもじゃもじゃ頭がもっさりとゆれる。
黒い学ランに真っ赤なTシャツが胸元に蠢く。
その仕草は、冬眠開けの田んぼの中に出没する舌を出すクロヘビのようなアロガントさを漂わせる。
どこからどう見ても、できればあまり関わりたくはない人種だ。
「午後二時に来室するように伝えたはずですが」
赤い縁取りの眼鏡をかけ、黒いスーツ姿の女性から神経質な声が漏れた。
自習室の中央においてある大きな長机の、奥の窓側の席の中央に座る女性。
練習試合の後、理事長室で真央たちを詰問したあの女性だ。
「明日から私は、あなたをこの聖エウセビオ学園の二年生として迎え入れ」
はぁ、と大きなため息を交えた後
「あたしがあなたの担任としてその指導を行わなければなりません。このように時間にルーズでは、大変に困ります」
真央を聖エウセビオに迎え入れることを岡添理事長が決定した時、将来の理事長として現場をを知っておくためにこの女性、秘書を務めていた理事長の娘が真央の担任を命じられたのだ。
「あ、申し訳ありません」
葵はあわてて頭を下げた。
そして頭を上げながら
「ご存知のように、真央君は同好会のコーチも務めていますので。その指導が長引いてしまったものですから」
真央の立場を代弁した。
「葵が頭を下げる必要はねーよ」
耳を小指でほじりながら真央は言った。
指についた垢をふっ、と飛ばし、ポケットに手を突っ込みながら岡添教諭の前ににじり出る。
「いいたいことがあれば直接俺に言えばいーじゃねーか。前に言ったろ? 別に取って食いやしねーんだからよ」
ガタン!
岡添教諭は椅子から飛び上がって後に飛び退いた。
「ち、ち、ち、近寄らないでよ!」
両手をきゅっと握り締めると、黒板を引っかくような甲高い声を上げた。
「ったくよぉ」
そういうと真央は中央の長机の椅子に腰をかけた。
「あんたほんとにあの時の女か? 理事長のばーさんの前だとやたら強気だったくせによ」
「か、か、か、関係ないでしょう! 今は!」
体を震わせながら、真央に相対して机に腰掛けた。
「大丈夫ですよ、岡添先生」
苦笑しながら葵も真央の横に腰掛けた。
「こう見えて真央君はすごく優しい方なんですよ? ね?」
そういうとにっこり笑って真央の目を見つめ、そして真央の手にしがみつく。
「ですよね?」
「い、いや、そんなこともねーけど……」
そういって真央は葵の両手から腕を引き抜いた。
ゴホン、大きな咳払いが教室内に響く。
「と、とりあえず、これから君には学力を測るためのテストを受けてもらいます」
「わかってるよ。だから飯もくわねーでここまで来たんだろうが」
長机に頬杖をついて真央は言った。
「いいからさっさとしろよ。こっちはそのつもりで来たんだからよ」
「あなたはもう少し教員に対して経緯を持った話し方をするべきです」
威厳を込めた言葉を口にしたが
「そういうせりふは人の目を見て言えよ」
真央から90度顔を背けて言ったその言葉に何一つ説得力はなかった。
「あんたが俺をどう思おうが知ったこっちゃねーけどよ。俺だってそれ相応の覚悟をもって転校を決めたんだよ。人生が360度ひっくりかえんだぜ? そのナイーブな気持ちを、こう――」
「元に戻っているじゃないか」
後から力強い声が響く。
「君は小学生の算数からやり直した方がいいんじゃないか?」
「げ」
その声に振り返った真央の視線の先には
「も、桃ちゃん……」
すらりと伸びた美しい足が、やや短めのスカートをいっそう短く見せる。
綺麗にまとめられた栗色のポニーテール。
釘宮桃、その人だった。
「も、桃さん!」
葵も声を上げる。
「やあ、葵」
桃は葵に会釈。
「く、釘宮さん! 待ってました!」
岡添は明るく桃を出迎える。
「えっと、岡添先生、でしたっけ、こんにちは」
というと桃はぺこり、と頭を下げ入室し、岡添の横に立った。
「ったく。あたしがあんたの保護者みたいに扱われるんだから。きちんとした態度とらないと、あたしにまでとばっちりが来るんだからな」
腕組みをして真央をにらみつけた。
「な、なんで桃ちゃんがここにいるんだよ……」
頭を掻き毟りながら真央は言った。
「岡添先生に呼ばれたんだよ。君がきちんとテストを受けるかどうか心配になってね」
そして真央の横の葵に目をやると
「ありがとうね、葵。マー坊をここまでつれてきてくれて。あたしもちょっと部活、長引いちゃったからさ」
「い、いえ!」
葵はあわてて首を振った。
「それは別に、どうってことない、です……けど……」
そしてばつが悪そうに俯いた。
「さあ、ではこれから15分後、国語の試験を行います」
眼鏡の位置を右手の人差し指で直し、真央に相対して岡添は言った。
「な、なんだよ。急に強気になりやがって……」
しかし、今度ばかりは話が違う。
あの桃が一緒にいるのだ。
いかに無頼を気取る真央とはいえ、形勢逆転は明らかだ。
「いい? これは基本的なな学力を測る簡単なテストらしいから。これから君は隣の教室で一人で試験を受けるんだ」
腕組みをした桃が岡添の代わりに試験の制度を真央に説明した。
「国英数でそれぞれ30分程度だから、4時には終わると思うから。それまでしっかり集中して、カンニングとかしないで、正々堂々と受けるんだぞ? わかったな?」
「……うっす……」
しぶしぶ、な様子を見せながらも素直に真央は頷いた。
そしてクラブバッグの中から筆記用具を取り出すと、ポケットに突っ込み
「……頑張ります……」
と呟いた。
「よろしい」
その言葉に、桃は満足そうだ。
「じゃ、しっかりやるんだぞ」
そういって桃はバッグを再び肩に掛け、自習室を後にしようとしたが――
「――ま、待って!!」
悲鳴のような声を上げたのは岡添だった。
桃の腕を掴むと
「お願いだからここにいて! 何かあったら、襲われでもしちゃったら、あたしどうしたらいいの?」
「ちょとまてやぁ、ねーちゃん!」
真央は椅子から飛び上がった。
「俺のどこがそんな犯罪者見たいに見えるんじゃ!!!」
すると岡添は震えながら真央の全身を見回し
「ぜんぶ!」
「おゥい!」
真央は岡添に詰め寄ろうとする。
桃の後に隠れて岡添が叫んだ。
「いやー! こないで!! 助けてー!!!」
「ああー、もう……またこういう……」
そういうと桃は目じりを人差し指で押さえた。
「えっと、とにかくわかりました、岡添先生。隣でマー坊が試験を受けている間、あたしはここに待機していますから。襲われそうになったら連絡ください。すぐ飛んできますから」
「……桃ちゃん、さらっととんでもねーこといいやがる……」
苦虫を噛み潰したような表情の真央。
「……」
その様子を黙って見つめる葵。
二人の間に流れる、気の置けない親密な関係性を、複雑な思いで見つめていた。




