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    3.31(月)13:40

「お待ちしとりました、ミスター」

 誠実そうなアフリカ系のドライバーが頭を下げた。

「どうぞ」


 ガチャッ


 白手袋が、潜水艦のようなリンカーンのドアを悠然と開く。

 顔に刻まれたしわ、カールされた白い頭は、その生きてきた人生の深みを感じさせた。

 

「またか」

 ふう、っとフリオはため息をつく。

「俺にはこんな馬鹿でかいリムジン、窮屈なんだがな」


「まさか。これほどの大きさなのに?」

 怪訝な表情でネッドは言った。

「君がいかに屈強な体を持っているとはいえ、これだけのクラスのクルージング用リムジンで、まさか狭いということはないだろう」


「オーヤー、そうですよ、ミスター。この車の中になら、このじじいは暮らすことだってできますよ」

 紙くずのように表情をくしゃくしゃにするドライバー。

 その前歯の一本は欠けていた。

「わしも、オーヤー、この車ならば腰を痛めることなく、休憩いらずでワシントンにだっていけますよ」


 その言葉を聴くと、フリオは手のひらを天に向ける仕草で言った。

「精神的なものだ、気にしないでくれ」

 そしてドライバーが開け続けるドアの中に滑り込み、ゆったりとした革のソファーに腰をおろした。


「仕方ないさ」

 それにマネージャーのネッド・トスカネリも続く。

 部屋の中がやや暑いせいだろうか、ネッドの眼鏡は白く曇った。

「君ほどのボクサーを、もはや全米で顔を知らぬものなどいるはずがない君を、まさかメーター数ドルのイェロー・キャブに乗せるわけにもいかないさ」

 ネッドはジャケットの胸ポケットからハンカチを取り出した。

 そして何度も自分の息を眼鏡のグラスに吹きかけ、何度も確認しながら曇りをふき取った。

「あの頃みたいにね」

 そしてその眼鏡を両手でしっかりと耳に固定させるように掛けなおした。


「俺は、別にあの頃に戻ったって全くかまわないんだがな」

 心底つまらなそうにフリオは呟く。


「オーヤー、ミスター、わしもそのときはお供しますよ」

 二人の着席を覗きこむように確認してドライバーの老人は言った。

 口癖なのだろうか、ドライバーは何度も自分自身を納得させるかのように、何度も“オーヤー”と口にする。

「オーヤー、ミスター、わしとあんたと一緒に、おんぼろキャブでフリーウェイを当てもなくさまようなんて、オーヤー、全く幸せな余生ですよ。オーヤー」


「なかなかに素敵な申し出じゃないか」

 白い歯をむき出しにしてフリオは笑った。

「面白い、いっそこのまま三人でプレジデント閣下にご面会としゃれ込もうじゃないか」


「何を馬鹿なことを言っているんだ」

 ネッドはこめかみを押さえる。

 神経質なその表情は、いつも以上のいらだちの表れだ。

「さあ早く車を出してくれ。いつまでもここにいては、この男の乗る特注のリンカーンだ、人目を集めすぎて困るんだ」


「オーヤー、ですがだんな、どこに行けばよろしいですかね」

 至極素朴な、かつ真っ当なドライバーの言葉。


 その言葉を聞くと、さすがのネッドも答えに窮した。

「それは……だな……」


「じいさん、名前は? 家族はいるか?」

 横から割り込むようにフリオの太い声が響く。


「オーヤー、ミスター、ベンジャミンです。オーヤー」

 時折、一本欠けたその歯からしゅうしゅうと通気音が漏れた。

「女房には先立たれ、娘と孫一家がオクラホマで農場づとめです。オーヤー。だんなと死に別れてね、娘二人を抱えて何とか生活しているところですよ」


 その言葉を聴くと、フリオはポケットから紙とペンを出し、そこに何かしらさらさらと書いた。

 そしてそれをベンジャミンに見せて言った。

「ベン、これをあんたの上司に伝えろ。今からこのリモはあんたごと俺が買い取る。この小切手の額が不服ならいつでも言えってな。ベン、あんたはこれからおれの専属ドライバーだ」

 そしてもう一枚の小切手に同じくさらさらとサインして続けた。

「これがあんたのサラリーだ。不服があるなら言ってくれ」


 するとベンは眼球がこぼれんばかり見開いて言った。

「オーヤー、ミスター、これだけあったら孫娘たちにたっぷり仕送りしても何不自由ない暮らしをさせてあげられますよ! オーヤー!」

 

 その言葉を聞くと、フリオはいつものように言葉を押しとどめるように両手を開いて言った。

「いいさ、あんたの稼いだ金はあんたが自分の好きなように使ってくれればいい。それはおれのビジネスじゃない。ただな、条件が一つある」

 

「それは……なんですかい?」


 ごほん、と咳払いすると、フリオは言った。

「その、なんだ。“オーヤー”の回数を減らしてくれ」


 その言葉を聞くとベンは再び顔をくしゃくしゃにして笑って言った。

「オーヤー、ミスター」


 その言葉を聴くと、フリオはやれやれ、といった風にため息をついた。

「ベン、これからフーヴァー・ダムへひとっ走り頼む」


「オーヤー」

 その言葉を聴くと、ようやくベンは金庫のようなリムジンの扉を閉じた。

 後には冷蔵庫の中のような冷たい静寂のみが残った。

 



「ネッド、君は俺を笑うか?」

 最高級のリンカーンの、葬式のすすり泣きのような走行音の中、フリオは訊ねた。

「あのじいさんを雇ったことに」


「君にはこれだったな」

 その言葉を聴きながら、ネッドはバーカウンターで自ら腕を振るい、カクテルを注いだ。

「クランベリー・トニック、君が唯一好むカクテルだ。ノンアルコールのね」

 そして自分自身のグラスに、自己流のモヒートを振るい、そして注いだ。

「それこそ君のビジネスさ。僕が関与するつもりはないよ。それに君にはあのじいさんを雇いたくなった理由があるだろう? それが察せないほど、ボクは間抜けじゃない」 


「家族の問題だけじゃないんだがな」

 ノンアルコールカクテルをのどに流し込み、言った。


「知っているさ」

 ネッドもドライなモヒートを一口すする。

 完全にプライベートな空間だからだろうか、モヒートのアルコールが効いたせいだろうか、先ほどよりも幾分リラックスした様子だ。

「一応金で雇ってはいるが、フリオ。超越者ゆえの孤独、とでも言えばいいのかな? 君に必要なのは、僕や兄さん、そしてあのベンじいさんのような、金銭を越えた仲間なのさ」


「全くめんどくさいことになっちまったな」

 ノンアルコールカクテルに、なぜか酔っ払ったかのようにフリオは言った。

「ま、引退したらさっさとこの国を捨てて別の国に移住するのもいいかもな。何年後になるかはわからんが」


「もしよかったら、僕たちの母国、イタリアに来ないか? 歓迎するよ――」

 酔いに任せ、やや饒舌になったネッドだったが、自分のことばを改めて反すうし、そして続けた。

「――そうだったな。君には君の母国があるものな。すまない。すこし酔っ払ってしまったようだ。音楽でも掛けようか?」


「気にしてないさ」

 フリオは手元の液晶画面を何度かフリックし、とん、と画面を叩いた。

「いつものようにレニー、といきたいところだが、どうも今日はそういう気分になれないな」

 車内に響いたのは、ボブ・ディランの静かなアコースティックギターだった。




「なあ、少しずつだが、それを考えるときに来ているんじゃないか?」

 フリオの言葉を聴くと、いおうかいうまいか、という風に少し躊躇し、ネッドが口を開いた。

「自身の引き際をどのように演出すべきか、それを少し考えるべきなんじゃないか?」


 睨み付けるようにネッドを見ると、フリオはその重い口を開いた。

「なあネッド、それはマネージャーとしての意見か?」


「おいフリオ、見損なわないでくれ」

 その視線にたじろぐことなく、真っ直ぐに見返してネッドは言った。

「僕たち兄弟と一緒にいるときは常に親友同士として話をしている、といったはずだ」


 数秒の無言の後、フリオは口を開いた。

「そうだったな」

 そして再びカクテルを口にし、言った。

「ネッド、君も君の兄貴も、トレーナーのリッキーも薄々気がついているのだろう? おれの最盛期はそろそろ終わりを告げ始めている、と」


「いや、そういうわけではない。君の最盛期はまだまだ続くだろう。しかし、それは永遠ではない。なあフリオ、すべての彗星が消え去るように、すべてのボクサーには、いやすべての人間には引退すべきときが来るものさ。それは決して恥ずべきことではない。だからこそ――」


「君の兄貴、トレーナーのリッキーは何と?」

 その言葉をさえぎり、フリオは切り出した。


 その言葉を聴くと、しばし無言でネッドはフリオを見つめ、そして言った。

「ここ5,6年がいいところ、だそうだ」


 するとフリオは、にやり、と笑った

「おれもなめられたもんだな。しかし――」

 ふうっ、とため息を吐いた。

「しかし、さすがはリッキー、といったところかな」

 

 ネッドは再び神経質そうに眼鏡のブリッジを人差し指で押さえた。

 二人の間を、再び洞窟の中を思わせるような重い沈黙が支配した。



「まず、話してくれ」

 何分間か何十分か、二人でも把握できない沈黙を破ったのはネッドだった。

「ビジネスを越えた振る舞いを嫌う君がなぜ、単身あのロバートの野郎に合いにいったのか、を」

 この男には似合わない、やや荒っぽい表現で、吐き捨てるように言った。


「ざっくばらんに言えば――」

 こちらは拍子抜けするようなほどに、あくび交じりのリラックスした様子でフリオは言った。

「今俺達が話し合った内容さ。付け加えるとすれば、まあ、なんだ」

 そしてこちらもこの男には珍しい、やや躊躇した様子を見せ

「まあ、なんだ。掛け金のつり上げを交渉した、ってところかな」


「どういうことだ?」

 またもや今までに見せたことのない剣幕でネッドは言った

 

 その様子を見て、意を決したようにフリオは言った。

「ダン・シーザーでもなく、トニー・デ・ラ・ロサでもなく、今後のプロモートはあんたに任せよう。しかしボブ、その代わりに引退までの期間、最大限に俺の要求を受け入れるんだ、ってな」


「どういうことだ?」

 ネッドは立ち上がり、フリオに怒鳴りつけた。

「なぜそんな重要なことをマネージャーの僕を通さず勝てに決めた?」


「提示しただけさ。俺だって、ネッド、君なしで勝手に契約をするような、そんなばかげた真似はしないさ。なぜならそれは――」


「――“俺のビジネスじゃない”」

 とネッドが先回りした。


「正解だ。これ以上は君のビジネスだ」


 今度はネッドがため息を吐き、うなだれるようにソファにもたれた。

「何故なんだ? フリオ、君はもはや世界中のアスリートトップに立った男じゃないか? 欲しいものはそのほとんどを手にしてきたはずだ。それをなぜ、いまさら――」


「一ヶ月前の試合、俺は確信したよ」

 フリオは硬く量拳を握り、それを見つめた。

「今が俺の最盛期だ。しかし今のモチベーションをいつまで保てるのかどうか、それが俺には自身がない」


「ずいぶん弱気じゃないか」


「なかなかきついものさ。あんたら以外の人間の前では常に最強のボクサーでいなきゃならんのだからな」

 そしてだらり、両手の力を抜き、拳を解いた。

「そのためにも、俺はとにかく自分のモチベーションを保ち続けるために掛け金を吊り上げていかなければならないんだ。そして俺は――俺は過去の俺自身とけりをつけなきゃならない」


「なるほどな」

 そういうとネッドは再びバーカウンターへと移動し、モヒートを振るった。

 そしてそれを一気に飲み干し言った。

「わかったよ。完全に君の意にそうつもりはないが、最大限の交渉をしようじゃないか。まず、君はあの野郎にどんな要求を突きつけるつもりなんだ?」


 その言葉を聴くと、口を大きく開き、白い歯をむき出しにして言った。

「日本に俺の拠点を作れ」

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