3.31(月)12:30
カァン
ニ分間の経過を示すデジタルのゴングが部室に鳴り響く。
天を見上げるような仕草で
「ふう」
真央は小さくため息を吐いた。
汗がシャワーの水滴のように体にまとわりつく。
「お疲れ様ー」
にこにことかわいらしい笑顔を振り撒くのは奈緒。
「はい、どうぞ」
聖エウセビオ学園ボクシング同好会のマネージャーを勤める少女はタオルを差し出した。
「はい、丈一郎君も」
「あ、ありがとう」
これもまたさわやかな微笑を返し、タオルを受け取る川西丈一郎。
キラキラと光る汗は、男でありながらもどこかしらチャーミングさを感じさせる。
タオルで丁寧に体を拭くと、髪の毛がさらさらと揺れた。
「でも、今日もシャドウ位しかやってないから、そんなに疲れてないんだよね」
「無理しちゃだめだよ。試合からそんなに日数たっていないんだから」
奈緒が心配そうに言った。
「奈緒ちゃんの言うとおりだぜ」
乱暴に頭を拭きながら真央は言った。
「ボクシングやるにあたって、頭部の損傷だけは絶対に避けられねえ。だからこそ、無理しちゃいけねぇんだ。ヘッドギアつけてたって完全じゃねえ。擦り傷とかは減ったって、脳受けるダメージはそんなに減らねぇんだ」
「うん、だけど、ミット打ちとか、せめてサンドバッグくらいは……」
懇願するように真央を見たが
「今日ぐらいは我慢しとけ」
ぽんぽんと丈一郎の頭を撫でた。
「頭のダメージってのはな、殴られるだけじゃねえ。バッグを打つだけだって、少しずつたまっていくんだ。コップに水が溜まるみたいに、少しずつな」
「うん」
その話に、丈一郎は真剣に耳を傾けた。
「じゃあさ」
小首をかしげながら奈緒が訊ねた。
「コップから水があふれちゃったら、どおなるの?」
ぶるぶるぶる、と真央は豪快に顔を拭き、そしてタオルを頭にかけた。
「壊れちうまうんだよ」
そして大きくため息を吐いていった。
「全部な」
「パンチドランカー、だね」
言葉を選び、慎重に、丈一郎は言った。
「ああ」
静かに言葉を続けた。
「あのロビンソンだってパターソンだって、ベニテスだってアリだって、どんな華麗なアウトボクサーでもこの悪魔からは逃れられなかったんだ。ボクシングやるからにゃぁそれくらいの覚悟はあるんだろうが、俺らがまだそこまで追い組む必要はねぇよ。ちがうか?」
「その話はあたしもよく聞くんだけど、なんか悲しくなっちゃうよね」
小さくため息を吐いて奈緒は言った。
「まあ、本人だけなら自己責任で済むんだけどな。ただな、残された人間にとっては――」
「マー坊君?」
その言葉のただならぬ雰囲気に、丈一郎は戸惑いを覚えた。
「――っと、わりぃな、湿っぽい話しちまった」
そういうとペットボトルの口を開け、その中の液体を頭の上からじゃぶじゃぶとかけた。
「マー坊君!」
奈緒が声をかける。
「ま、これからボクシングやって行こうってんだから、最低限それぐらいの危機感はもってたほうがいいってこった」
にやり、真央は口元をゆがめた。
「マー坊君!」
今度は丈一郎も声をかける。
「すまねーな、変なこと言っちまったか?」
「「それ水じゃない! ポカリ!」」
「ぐわっ!」
あわてて体を拭いたが、体中が糖分でべとべとになった。
「紛らわしいもんおいとくんじゃねえ!」
「いや、だって普通見ればわかるし……」
「もー、マー坊君ってば、あわてんぼうだなー」
奈緒がけらけらと笑った。
「だいたいさ、ラベルが剥がれてるんだけど」
丈一郎がボトルを持って首をかしげる。
「マー坊君がはがしたんじゃないの?」
「ん、それあたしー」
ぴょこんと奈緒が手を上げた。
「ペットボトルと燃えないごみ、分別しといた方がいいかなって思って」
「「紛らわしい!」」
今度は真央と丈一郎が声をそろえて叫んだ。
「二人ともエコ意識がないんだからー、ちゃんと意識しなきゃだめなんだよー」
教え諭すような奈緒の口調に、二人は何も言えなくなってしまった。
「でもさー、マー坊君この間は対人練習足りないって言ったじゃない?」
奈緒が濡らしたタオルを真央に渡した。
「だったらさ、サンドバッグ軽くたたくくらいならいいんじゃない?」
「まあな。だけどよ、サンドバッグにしろミット打ちにしろ、欠点はある」
そういうと真央は鏡の前に立ち、ファイティングポーズをとった。
「わかるか?」
「ええ?うーん……」
丈一郎は腕組みをして唸った。
「……なんだろ」
「前さ、俺に動かされるんじゃなく、俺をコントロールするつもりでミットうてって言っただろ?それさ」
そういうと真央は軽やかにステップを踏み、低く構えた左腕からしなるようなジャブを繰り出した。
ヒュッ
「要するにな」
滑らかな体重移動から右ストレートを空に放つ。
「俺の指示で動いてる限りは俺のボクシングなんだよ」
「んー」
同じく首をかしげる奈緒。
「マー坊君、それじゃ全然わかんないよ」
「しょうがねーだろ。俺頭わりいんだからよ」
「それはわかるんだけど」
と奈緒。
「ほっとけ!」
再び真央は左ジャブを繰り出した。
「俺の指示で動いてる限り、ボクシングの幅が狭まっちまう可能性もあるんだ。よほど意識が高くしとかねーと、本当に柔軟性のねーボクシングになっちまう」
シュン、シュン、シュン、
鞭のような左拳が空を切り裂く。
「まだまだ発展途上なんだよ、俺らはな。そこで自分の可能性狭めちまうよりも、いろいろ考えながらシャドウとかパンチングボールをメインに練習するのもありなんじゃねーかな」
「そんなもんなのかなー」
半信半疑の奈緒。
「奈緒ちゃんさ、デラホーヤ知ってるよな」
と真央は訊ねる。
「それはもちろん」
オスカー・デ・ラ・ホーヤ、ボクシングファンにとっては、その名を知らぬものはいないほどのビッグネームだ。
「じゃあよ、デラホーヤが一番強かった時って、いつだともうよ」
「うーん、やっぱり6階級制覇したときとか?」
前人未到の大記録、奈緒にとって、いや恐らくデ・ラ・ホーヤを知るものであれば必ずそういうであろう教科書通りの答えだ。
「丈一郎はどう思うよ」
真央は改めて丈一郎に尋ねた。
丈一郎もいつの間にかシャドウを開始していた。
「僕が思うに――」
シュ、シュシュ
同じく拳を振るう丈一郎。
「140パウンドの頃じゃないかって思う。S.ライト級の頃、あのチャベスを倒した時なんじゃないかな」
「同感だ」
両手を下げ、呼吸を整えながら真央は言った。
「あの頃のデラホーヤは、本当に強かったよな。そのデラホーヤを育てたトレーナーのヘスス・リベラが重視したのが徹底したパンチングボールとシャドウなんだ」
「うん」
鏡を見つめながら、丈一郎はその言葉に耳を傾けた。
「あの欠点の見つからねーオーソドックススタイル、強烈で正確無比な左ジャブ、全てはシャドウとパンチングボールをメインに鍛え上げられたものなんだ」
そう言うと真央はニイッ、っと笑った。
「ま、受け売りだし、俺もそんなに意識してやったことはねーからな。ま、今の時期ならやっといて損はねーし、左ジャブを鍛えておくに越したことはねー」
ッヒュンヒュンヒュン
今度は射貫くような左ジャブが速射砲のように繰り出された。
「うん。やってみるよ!」
丈一郎は大きなミラーの前に立ち、しっかりと相手を意識しながらのフットワーク、左ジャブを繰り返した。
「なんかさー、すごいよね」
奈緒がうっとりした表情で二人を見つめる。
「世の中にはいろんなスポーツとか格闘技があるけど、ボクシングだけがなんだか芸術みたい」
「難しー言葉知ってんだな」
真央は何度も左ジャブを繰り返した。
「しっかしよ、こうして意識して左ジャブやり続けるのも、なかなかきっついな」
地面をけりつける左右の足と連動し、その腕の動きはますます早くなっていった。
「でもなんとなく、奈緒ちゃんの言うことわかるぜ。うまくは言えねーけどよ」
「僕は、肉体を駆使した芸術なんじゃないかなって思っている」
丈一郎が真剣なトーンで声をあげた。
「まるで、鏡の中の自分と踊っているみたいに感じることがあるんだよね」
「そうだな」
真央は右腕を下したノーガードスタイルのまま
シュシュシュン、シュシュシュン
何度も両足をシャッフルし、上体を回旋させた。
「たった一人でシャドウをしていると、本当に〝自分自身と踊っている〟そんな感じがするんだよな」
「〝自分自身と踊っている〟か」
丈一郎がつぶやいた。
「本当に、そうだよね」
鏡の前では切れのある動きをする二人のボクサー。
しかし、それぞれが見つめているのは、この世界において鏡の中の自分だけだ。
自分が動けば相手が動く。
いや、もしかしたら相手が動くからこそ自分が動いているのかもしれない。
どちらが主で、どちらが従か。
シャドウボクシングによってボクサーは主体と客体が完全に入り混じった未分化な状況を体験する。
自分自身と踊る二人の姿を、胸元で両手を抑えながら奈緒はまぶしそうに表情で見つめていた。




