3.31(月)6:12
「おっはよー、マー坊君!」
ぴょこん、と二階の窓から顔をのぞかせる少女。
屈託のないその笑顔、何の照れもなく大きく開いたその口、朝日を反射しきらきら光るその大きな瞳。釘宮家の次女、奈緒だ。
「よう、奈緒ちゃん」
甘えたような幼さを残すその声に、真央は微笑みながら挨拶を返した。
「わりーな。起しちまったか」
「ううん」
プルプルと大げさに首を振る奈緒。「なんだかね、もうじき真央君と一緒に学校に通えるって思ったら、わくわくしちゃって早起きしちゃったんだー」
そう言って右ほおを掻いた。
「あ、桃ちゃんも帰って来たみたいだよー」
奈緒の指さす方向には陸上部のジャージーに身を包み、あくまでもペースを乱すことなく走る桃の姿があった。
その弾けるような体のばねは、桃のしなやかな肢体を一層引き立たせ、その髪型と相まって一頭の優駿が走っているかのようであった。
「おかえりー、桃ちゃん」
奈緒はその勝ち誇ったような美しさを見せつける姉を出迎えた。
「今日もランニング、一緒だったんだねー」
「たまたまだよ。偶然一緒になっちゃったってだけ」
桃はタオルで顔を拭きながら言った。そして玄関においてあったミネラルウォーターを一口含んだ。
「奈緒、あんたもたまには一緒に走ったらどうだ?ボクシング同好会のマネージャーなんだから、少しは体力つけた方がいいんじゃないのか?」
「えへへへー」
奈緒は困ったようなな表情で苦笑い。
「あ、マー坊君、いまタオル持ってくねー」
ごまかすように窓からその姿を消した。
「しっかしさ、奈緒ちゃんて元気だよな」
姉妹の可愛らしいやり取りを真央は微笑ましく眺めていた。
「俺きょうだいとかいねーんだけどさ、どういう感じなんだろうな」
屈伸をしながらつぶやいた。
「んー」
返事ともあくびともつかないような声を上げ、桃は背伸びをした。
そしてふうっ、とため息をつき
「面倒くさい部分も多いけどね。子どものころから一緒にいたから、いない感覚っていうものを表現する方が難しいかな」
「羨ましいよな。なんかさ」
腰に手を置き、真央は呟いた。
「マー坊……」
桃は昨日の夜に感じた違和感を思い出した。
その正体が何だったのか、それはいまだに理解できない。
しかし、その違和感は昨日初めて感じたものではない。
思い返せば、初めて真央がこの家に来た時にも感じられたものだった。
あらゆることを何一つ考慮に入れることのないような、この目の前のその傍若無人の塊のような男の背中に、拭い去れない何かが見え隠れする。
「マー坊、君は——」
「お疲れ様ー」
桃の言葉を遮るように、奈緒が玄関から飛び出してきた。
「マー坊君、これ使ってー」
弾けるような笑顔でタオルを差し出した。
「お、おう、ありがとな」
真央は顔を背けながらそのタオルを受け取った。
「ねえねえ、いったい何話してたのー?」
その顔の先に回り込み、奈緒は訊ねる。
「いや、別に」
さらに明後日の方向を向く真央。
「ねーねー、あたしにも聞かせてよー」
そう言うと奈緒は真央の左手にしがみつき、揺さぶった。
「あ、いや、なんだ、その……」
真央は顔を真っ赤にして体を硬直させた。
「奈緒!」
その様子を見かねた桃は声を上げた。
「あんた、自分の服装よく見なさい!」
「ほえ?」
そう言うと奈緒はゆっくりと自分の体を見回した。
黒いスウェットのショートパンツ、薄手の白のコットンシャツ、そしてそこには形よくふくよかな胸元をしまい込むピンク色の下着が自身の存在を自己主張していた。
「い、い、い」
その顔は羞恥心により歪み、その赤みを帯びた頬は一層赤みを増して行った。「いやああああああああああああああああああ!」
「ちょ、ちょっと待てって!俺のせいじゃねえって!落ち着けって!」
そう言って真央は奈緒をなだめようとしたが
「マー坊君のえっち!」
そう言い放ち玄関へと駆け込んで言った。
「この状況は……」
また桃に殴られるかもしれない。
「やべえ!」
真央は身構えた。
しかし
「——ったく、あの子は……」
桃は爪を噛み、呆れた様子だった。
「本当に落ち着きがないんだから」
ほっ、どうやら自分に攻撃の矛先が向かないと知った真央は胸をなでおろした。
そしてしばし自分の体中の様々な場所を摘み、首を傾げた。
「? 一体君は何をしているんだ?」
怪訝な表情で桃は訊ねた。
「いや」
腹を摘み背中を摘み二の腕を撮み、それでも真央は納得がいかない様子だった。
そしてしばしの間、自分の左手のひらを眺めていた。
「どうした? 何かあったのか?」
心配そうな面持ちで訊ねる桃。
「脱水症状でも起こしたのか?」
「いや、なんつうかさ」
小指から人差し指まで、波打つように何度も握りしめるしぐさを見せこう言った。
「女の子って、すげー柔らけーんだな」
しみじみと語った。
「そう」
にっこりと笑って桃は真央に近づき言った。
「ごめんね。あたし、奈緒と違ってごつごつしているから、きっとマー坊君の趣味から離れてると思うけど」
そう言うと、先ほどの奈緒のように真央の手にしがみついた。
真央の背中に悪寒が走った。
「いや桃ちゃん、別に深い意味は——」
「そう。でもね」
再び桃はとろけそうなかわいらしい微笑みを見せ言った。
「あたし、手のひらは胸みたいに柔らかいっていわれてるの」
その声はまるで子猫が甘えるようであった。
「ねえねえ、味わってみて?」
めいっぱい広げられたその手のひらは正確に真央の頬骨近辺を強打し、心地よい破裂音が二人の間に響いた。
「いや、あんたそもそもそれ掌底だし——」
薄れゆく意識の中、真央は女の子は柔らかい、だけど、手のひらの骨の硬さは男も女も変わりがない、それは真理だと悟った。




