第二章 3.31(月)1:10
三月の霞は、冬の金属板のような月の輪郭を朧にする。
古代ローマ帝国のインスラを思わせる広々とした一室、そこにかかる薄いカーテンを透かし、その淡い光がその人を照らす。
その人、16歳の少年は寝息を立てて眠っていた。
染み一つない真綿のような純白のシーツは、少年のごつごつとした岩のような肉体をいとおしそうに包む。
少年の人生の中で、これほどの心地よい睡眠がもたらされたことは長らくなかった。
その心地よさは、少年がより幼い頃、確かに感じていたはずのぬくもりと同じものだ。
確かにどこかで感じていたはずのぬくもり、それが少年の自我を少しずつ溶かしていった。
強くあらねばならない。
誰にも負けてはならない。
少年のこころを防衛していた壁が少しずつ柔らかくなっていった。
丸裸になった少年の心に、激しい感情の嵐が吹き荒れた。
誰にも見せてはならない、見せまいとしたこころが抑圧への復讐であるかのように騒ぎ出す。
その嵐の中に、少年は無防備のまま立ち尽くす。
少年の寝息は少しずつ短くなり、荒くなる。
「……」
少年はかすかに口を開き、そして何かを呟いた。
決して誰にも、少年自身に聞こえることのない言葉を。
その少年を、朧月の光が赤子のように抱擁した。
少年の呼吸は次第に落ち着いていった。
しかし朧月の光は見逃さなかった。
自分の抱擁に応える、少年の目からこぼれた一条の光を。
自分の目じりをつたう感触に、16歳の少年はじわりと目を開いた。
真央は右手で額を押さえながら、ゆっくりと上体を起こした。
そして両手のひらで目元を押さえた。
故郷を捨て、新しい人生の一歩を踏み出そうとしている秋元真央は、自分自身の中に捨てきれないもの、清算しきれていないものが存在していることに改めて気がついた。
そしてそのまま10秒ほど静止すると、おもむろにベッドから離れ、薄手のカーテンを開けた。
月は、その日その時、一刻一刻ごとに全く別の表情を見せる。
果たしてこれが数ヶ月前の月と同じものだろうか。
違うはずはない。
しかし真央にはそう断言する自身はなかった。
あの日の月は、触れれば切れそうなほどに鋭かった。
しかし今日の月は何故にこれほど暖かく自分を包んでくれるのか。
東京であろうが広島であろうが、夜空の月は触れれば切れるほどに冷たい無機質でなければならないのに。
バシッ
真央は両手で自分のほおを叩いた。
「置いてきたはずじゃろうが」
誰に聞かせるわけでなくつぶやいた。
そして真央はベッドの横にうつぶせになると拳を作り、シットアップを開始した。
意図的に呼吸の回数を少なくし、全身の酸素が完全に燃焼しつくしてしまうかのように執拗に腕を曲げ、伸ばした。
腕や胸に海蛇のように太い血管が浮き出る。
頭の中でキーンという耳鳴りが響く。
このまま続ければ脳の血管が千切れ飛んでしまうところまで自分を痛めつけた。
「っはあっ」
自分自身を支えきれなくなった両腕は、体を重力に従うがままに放り出した。
「ってぇ」
フローリングに右の頬骨をしたたかに打ちつけた。
そしてそのままフローリングに倒れこんだ。
「ぜぇっ、ぜぇっ、ぜぇっ」
横隔膜は激しく動き、このままでは痙攣を起こしてしまいかねないほどだった。
真央は腹筋に力を込め、意図的にその動きを抑え込む。
「はあ、はあ、はあ」
強靭な心肺機能は、一瞬にして通常の活動へと復旧した。
「んっ」
真央は再び立ち上がり、Tシャツを脱ぎ汗をぬぐう。
際ほどの嫌な汗とは違う、運動により吹き出た、さらりとした爽快な汗だった。
「ふうっ」
酸素が体中にいきわたり、激しい鼓動が浮き出た静脈をいっそう際立たせる。
一時的ではあるが肥大した筋肉は、自分自身の強さに対する確信を取り戻させた。
そして
ガチャリ
廊下へ通じる扉を開けた。
自分自身の熱気のこもる室内を出ると、足裏にフローリングのひんやりとした感覚を覚える。
ふと壁にかかった時計を見る。
すでに午前2時を過ぎていた。
二階で寝ているであろう同居人、自分に新しい人生を切り開くきっかけを与えてくれた美しい釘宮姉妹を起こさぬよう、慎重に歩みを進めた。
コチ、コチ、コチという時計の音、そして先ほどの躍動の余韻を残す心音までもが響くほどに静かな夜だった。
ガチャリ、真央の頭上で金属音が鳴る。
とんとんとん、と床をノックするような軽快な足音で階段を降りてくる。
「ん?」
階段の中腹ほどからの声。
「マー坊じゃないか。こんな夜中に素っ裸で何をしているんだ?」
手すりにもたれかかり振り返るその姿にまとわりつくように、蛍光灯の下にいっそう映える栗色の髪が舞う。
「おう、桃ちゃん」
真央はあわててTシャツを羽織った。
「桃ちゃんこそ、こんな夜中にどうした?」
「あたしはちょっとのどが渇いたから、何か飲もうと思ったんだけど」
そしてじろじろと真央の様子を眺め
「君こそ何でそんな汗かいているんだ?」
「ちょっと眠れなくてな。少し腕立てしたら汗かいちまってさ。わりーけど、シャワー借りるわ」
「その汗の量は少し、なんてもんじゃないと思うけど」
その少女、釘宮桃は冷静に言葉を返した。
怪訝そうな表情の中に、芯の強さとその年に見合わないクールさが見て取れた。
「それに君さ、この家には奈緒だっているんだから、もう少し、その……」
真央の姿から目をそらしながら言葉を濁す。
「わかってるって。だからTシャツ羽織ったじゃねーか。“でりかしー”ってやつ、だろ?」
「まあ、そうだけど……」
それでも桃は目をそらした。
「なんで桃ちゃんが恥ずかしがってんだよ。別に減るもんじゃねーし」
真央は呟いた。
「それに水着着てるときより露出は少ねーじゃねーか。いまさらかんけーねーだろ」
「わかった、わかったから。早くシャワー浴びてきなよ」
突き放すように桃は言った。
「へいへーい、っと」
スウェットもポケットに手を突っ込み、真央はバスルームへ続く廊下を歩いていった。
「……」
その後姿を桃は眺めていた。
改めてみる真央の体は、桃にとって新鮮だった。
盛り上がった僧帽筋、鋭角にその姿を主張する三角筋、その鍛え上げられた肉体に目を奪われた。
しかし同時に、その静かに自己主張する肉体の中に表現しきれない何かを感じとる。
その肉体は雄弁であるが、それゆえに語りつくせない何かがいっそう際立っていた。
「ねえ」
その違和感に桃は思わず声をかけずに入られなかった。
それは初めて感じたものではない。
間違いない、あの日、フリオ・ハグラーの世界戦を見ている時。
出会ってまだ一か月近くしかたっていない。
このあからさまに能天気なこの少年に見え隠れする影。
強がるその背中に見える、砂の城のような、少しつつけばば崩れてしまいそうな何かを。
「ん?」
真央はそれに反応し、振り向いて答えた。
「いや、その……」
声をかけたものの、そのように言葉をつなげていいかわからない。
言葉に表すことのできない違和感の正体を掴みあぐね、戸惑いを隠せない。
「あのさ」
「……」
反応がない。
「あのさ、桃ちゃん!」
やや強い語調で真央は正した。
「なんか用か?」
「いや」
結局、その違和感の正体を最後までつかむことはできなかった。
「明日入学準備だろ? 早く寝た方がいいよ」
「……」
しばしの沈黙の後
「ああ。わかった」
にやりと笑って真央は答えた。
「心配してくれたのか? ありがとな」
その言葉に桃は自分の顔が赤く火照っているのを感じた。
「別に、そういうのじゃないから」
努めてクールを装うと、足早に階段をくだりリビングへと入っていった。




