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    3.23(日)18:15

「なあ、桃ちゃん」

 包丁を野球バットのように握り締めながら真央は言った。


「こらばか! そんな危なっかしい持ち方があるか!」

 そう言うと桃は

「いいか? 人差し指を持ち手にかけて、こう、こう……」

 真央の手を取り、握り方を矯正した。


「な、なんかおっかねーな」

 おっかなびっくり左手でにんじんを握る。

「危ない! それじゃ指を切っちゃうぞ!」

 そう言うと再び

「いいか? 指はこう、猫のようにして……」


 ストン、スムーズににんじんのへたに包丁が入った。


「おお。何か俺センス有るかも」


「いちいち大げさだな、君も」

 そう言うと桃は腰に手をかけた。

「いいか? 今日はお疲れパーティー兼君の歓迎パーティーだけど、君の初めての料理体験も兼ねているんだからな。他の三人がお腹を空かせているんだ。てきぱきと支度するんだぞ」


「いきなりカレーなんて、いよっと」

 先程習った手つきでにんじんを切る。

「ハードル高くねーか?」


「大丈夫。誰にだって出来るんだから」

 そう言うと桃はその横で米を研ぎ始めた。

「で、何?」


「んっ、何って、何だ?」

 にんじんと格闘しながら真央は言った。


「さっき、何か言いかけたじゃないか」

 シャリシャリシャリと手馴れた手つきで米を研ぐ桃。

「何か言いたいことがあったんじゃないのか」


「ああ、それな。聞きたいことがあったんだ」

 そう言うと包丁から手を離し、桃の方を向いて訊ねた。

「桃ちゃんってボクシング興味ねーって割には、ちょこちょこボクシング詳しかったよな」


「そうかな?」

 しゃりしゃりしゃり、米を研ぎ続ける。

「一般常識程度だよ」


「いや、これといった確証はねーんだけど」

 真央は次はどこに切込みを入れようか、思案しながら言った。

「実は桃ちゃん、前からボクシング好きだったのかなって思ったりしてよ、っと」

 ストン、何とか自力でにんじんに刻みを入れた。

「しかしめんどくせーなこれ。レトルト買った方がよかったんじゃねーか」

 そして乱切りしたにんじんを編みかごに入れた。


「あたしも君に聞きたいことがある」

 桃は手を止めて真央に訊ねた。

「君は、私たちに隠し事をしている」


 その言葉に、真央も手を止めて言った。

「隠し事って、どういうことだ?」


 桃は言葉を続けた。

「あんなにボクシングが好きだって言う君が、フリオ・ハグラーを見るときだけ雰囲気が違う。君にとって、フリオは本当にただの倒すべき目標なのか?君は」 

 そして静かに、ストレートに言った。

「君は、何者だ?」


 真央は桃の言葉に黙って耳を傾けていた。

 それは、自分の思いを、何かの言葉に置き換え形にしようと努力しているようにも見えた。

「俺は……」


 その様子を見て桃は小さく笑った。

「もし言いたくないのなら、言わなくていい」

 そういうと米のとぎ汁を流しに捨てた。

「もしそのときが来たら、君の口から聞かせてくれればいいから」

 ぴっ、炊飯器のスイッチを入れながら桃は言った。

「今日は、ちょっと感動したよ。君のボクシングに」


「桃ちゃん……」

 その意外な言葉に、真央は戸惑った。


「あたし、好きだよ」

 桃は真央の顔を見、そして微笑んだ。

「君の、戦っている君の姿」


 その笑顔に、真央も笑顔で応えた。

「俺も嫌いじゃねーよ。気の強い女は」

 そして拳を桃の前に突き出した。

「約束するよ。俺の世界戦、スペシャルリングサイドで見せてやるってな」


「うん」

 桃は柔らかく笑った。


「おっ、その顔。昨日の、あの時みたいだな」

 真央は昨日の、春の夜にたたずむ桃の顔を思い出した。

 柔らかく暖かく、まさしく春風のような笑顔を。

「桃ちゃんのそんな表情、すげー好きだぜ」


「え、え? え?」

 不意を突くような真央の言葉に、桃の胸中は乱れた。

「そ、そうかな」


「それでいいんだよ」

 真央もやや顔を赤らめながら、ニヤリ、と笑った。

「女は芯が強くておしとやか。それが一番だぜ」


「あ、あ、えと」

 桃は顔をさらに真っ赤にして髪をかきあげた。

「君がそう思うんなら、まあ」


 その様子を見て、真央はまた笑った。

「さ、次はどうすればいいんだ? 指示してくれねーとわかんねーぜ」


「あ、ああ、次は、ええとね……」

 桃がしどろもどろになっていたその時


「進み具合はどうですか?」

 キッチンに葵が入ってきた。


「あ、あ、葵?」

 意外な人物の登場に桃の心は更に乱れた。


「おお、葵じゃねーか。見ろよ」

 真央は胸を張って編みかごのにんじんを見せた。

「こんなもんだぜ」


「わあ、すばらしいですね」

 目を細めて葵は手を合わせた。

「真央君はボクシングだけではなくて、お料理の才能もあるのかもしれませんね」


「そ、そうか?」

 あからさまなお世辞も、真央の耳には心地よい。


「私もお手伝いしますね」

 そういうとキッチンを見回して行程を確認し

「次は、そうですね、じゃがいもを切りましょうか」

 そう言って葵はじゃがいもを取り出し、真央に手渡した。


「なあ、これはどうやったらいいんだ?」

 左手のジャガイモを生まれたての子犬を手渡されたかのように掴むと、真央は緊張で包丁を握り締めた。

「こんなもん、切ったことねーぞ」


「まずは、ジャガイモの芽を取り除きましょうね。私のやり方をよく見てください」

 そういうと手際よくジャガイモの芽をくりぬいた。


「あ、葵! いいからリビングでテレビでも見て待ってなよ!」

 桃が葵の手からジャガイモをひったくった。


「まあまあ、桃さんこそ座っていてください。ここは桃さんの家なんですから」

 そういうとジャガイモを奪い返し、真央の傍らに立ち寄り添うような姿勢をとった。


「こ、こうか?」

 葵のやり方を見て、真央は包丁を動かした。


「ほら、よく見てください。それだと綺麗に芽が取れませんよ」

 そういうと葵は真央後に立ち、まるで背後から抱きつくような格好でその手をとった。


「お、おお、こ、こんなもんか」

 ぎこちなく包丁を動かす真央。


「ね? 簡単でしょう?」

 葵は真央の背後から声をかけた。

「一緒においしいカレー、作りましょうね」

 甘えるような声をかけた。


「ちょ、ちょっと葵!」

 その二人の間に割り込む桃。


「あら、どうしましたか? 桃さん」

 やや勝ち誇るような視線で葵は桃に応えた。

「私たちにお任せください。なんと言っても桃さんはこの家の主なのですから」


「あー、葵ちゃんずるいー。わたしも手伝うー」

 今度は奈緒がキッチンに入ってきた。

「あ、じゃあこのじゃがいも切るねー」


「な、奈緒まで!」

 不意の登場に桃は再び取り乱した。


「な、奈緒さん。キッチンはそこまで広くないですから、私たちにお任せいただければ……」

 さすがの葵も慌てて言った。

 そしてその直後


「ちょっとみんな、僕のこと一人にしないでよ」

 さらに丈一郎も姿を現した。

「僕も一応料理くらいできるからさ、手伝うよ」


「お? これなら俺夕飯作らないでよくねーか?」

 そういうと真央は包丁から手を離そうとした。しかし


「こら! これは君が家事を覚えるための特訓なんだからな! 君がやらなくてどうする!」

 桃は顔を真っ赤にして声を張り上げた。

「あんたたちも甘い態度を取るんじゃない!」


「だってー、わたしも手伝いたいんだもん。いいじゃん、いっつも家事やれってうるさいのにー」

 奈緒は笑いながらジャガイモの皮をむき始めた。


「大丈夫です!」

 思わず葵の声が荒くなった。

「私と真央君でできますから!」


「ねえ釘宮さん、僕はたまねぎをむけばいいのかな?」

 たまねぎを片手に丈一郎は言った。


「お、丈一郎、お前も料理できるのか?」

 ジャガイモ相手に四苦八苦する真央は言った。


「ていうかマー坊君、これくらいのことは家庭科でだって習うんだから」

 苦笑しながらたまねぎの皮をむく丈一郎。

「実技科目位はきちんとやらないと」


 その様子を見て肩を震わせる桃。

「もーあんたたち、いかげんにしろ!」

 そしてたまりかねたように怒鳴り声を上げた。

 



 キッチンの小窓からは月が見える。

 二週間前には氷でできた鏡のようだった満月は徐々にその形を細め、その細い光は東京都郊外の芽吹き始めた桜のつぼみを照らし出す。

 この月が三日月となり、さらに新月に、そして再び満月となる頃、花は満開に芽吹くだろう。

 真央と丈一郎は、自分の夢を実現するためのスタートダッシュを切っていることだろう。

 そして葵も奈緒も、そして桃も、新しい生活の中で少しずつ変わっていく自分の心と向き合うことになるだろう。

 その時、この五人の関係はどのように変化していくのだろうか。

 しかし、夜はやさしくこの五人を包むだろう。

 そしてその行方を、きっと月だけは知っているだろう。

 月の光は冷たく、一方でどこか柔らかに五人を包んでいた。

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