3.23(日)14:15
その数分後
コンコンコン
理事長室にノックの音が響く。
「お入りください」
理事長が声をかけた。
「失礼しますよ」
扉の奥から姿を見せたのは、胡麻塩頭の初老の男性だった。
その人物は、試合会場で西山大付属のジャケットを羽織っていたその人だった。
「お元気そうですね」
理事長の知り合いなのであろうか、理事長は席を立ってその男性を出迎えた。
「もう何年ぶりになるでしょうか」
「そうですな、かれこれ20年ぶりくらいにはなるでしょうか」
その男性は、懐かしそうな表情で応えた。。
「誰だよ、このおっさん」
真央ははき捨てるように言った。
「あんたらだけで話、完結させてんじゃねーよ」
その無礼な言葉にも取り合うことなく
「この子が、そうなのですね」
初老の男性はニコニコしながら真央を見た。
「ええ。秋元真央君です」
そういうと真央ら五人に向けて言った。
「ご紹介します。西山大学付属高校ボクシング部顧問、鶴園先生です」
「え? この人が?」
丈一郎は声を上げた。
「たくさんのインターハイ選手やオリンピック選手を育てたって言う……」
「いやいや、ご存知であったとは光栄だ」
そういうと鶴園は丈一郎の元に頭を下げた。
「うちの選手がご迷惑をお掛けしましたな。技術ばかり教えて中身を育てられなかった、これは私の責任だ」
「いやいや、そんな、恐縮です」
そういって丈一郎は頭を下げた。
「中々君はセンスがあるようだ。今後も頑張って練習を続けてください」
丈一郎に励ましの声をかけた。
「そして君、秋元真央君だったかね」
そういうと真央の方を向いて手を差し出した。
「見せてもらったよ。うちの山本にほとんど何もさせずにナックアウトさせるとは。思わず見入ってしまったよ」
真央はその手を握り返すと言った。
「そう簡単な話じゃねーよ」
「ほう、それはどういうことかね? 君が山本にほとんど何もさせずにナックアウトしたように見えたが」
「相手はプロで言えば二階級は上の相手だ。それにあいつが最初俺をなめて無駄にパンチを打ちまくって勝手に消耗してっただけだ。何度やっても負ける気はしねーが、インターハイ選手相手にそう簡単に勝てるとは思ってねーよ」
そしてにやり、と笑って付け加えた。
「気に病むこたーねえぜ、おっさん。あんたの育てたボクサーは強かった。ただ俺がそれ以上に強かった、ってだけだ」
「成る程」
そういうと鶴園は理事長の方を向いて言った。
「岡添さん、やはりこれは中々のものかもしれませんな」
「秋元君、実は折り入ってお話があります」
岡添理事長は真央に向けて言った。
「もし君がその気ならば、君を西山大学付属高校に特待生として迎えたい、とおっしゃっています」
「え?」
葵が驚きの声を上げた。
「真央……秋元君をですか?」
「名門西山大学付属高校のボクシング部に、ですか?」
奈緒も同じく声を上げた。
「そうです」
鶴園はゆっくりと話した。
「秋元君、君は本当にすばらしい才能を持っている。君はすぐにプロテストを受けたいようだが、今すぐにプロになって不安定な生活を送るよりも、じっくりとアマチュアボクシングで実績を積んでからプロになったほうがいいだろう。そうは思わないかね? 君がその気になれば、オリンピック出場だって夢ではないだろう」
「すごいよマー坊君! 絶対その方がいいよ!」
丈一郎がその言葉を後押しする。
「あの西山大付属だよ? しかも鶴園先生じきじきのお誘いだよ? こんなすごい話ないよ?」
奈緒も興奮した様子で提案の受け入れを薦めた。
一瞬明るい表情を見せた真央だったが、しかししばらく無言になり
「せっかくだけど、そのつもりはねーよ」
頭をかきむしりながら真央は言った。
「正直俺をそんなに買ってくれるなんて、本当にありがてーよ。だけど、だけど俺には時間がねーんだ」
「時間、ですか?」
岡添理事長がその意味を問いただす。
「君はまだ17歳ではないですか。なぜそんなに時間にあせる必要があるんですか?」
「その通りだ」
鶴園が頷いた。
「まだまだあせる歳ではないだろうに。なぜそこまで思いつめる必要があるのかね?」
「それは……」
しばらく考えた後、真央は胸を張って言った。
「……フリオ・ハグラーを世界中の人間の前でノックアウトするためだ」
その表情はあくまでも真剣なものだった。
「マー坊……」
桃は先日の真央の顔を思い出した。みんなでフリオ・ハグラーの世界戦を見ているときに見せた、あの表情を。
どこか、言いようの無い影をちらつかせたあの表情を。
「あいつが完全にロートルになる前に、あのおっさんの全盛期に、全世界の目の前で倒してーんだ。そして――」
真央は拳を握り締めた。
「――俺が世界最強の男だと証明してーんだ」
「フリオ・ハグラーか。大きく出たねえ」
鶴園は宙を見上げた。
「確かにあの男を倒せば、世界最強のボクサーであるとは認められるだろう。しかし、世界のミドル級戦線で日本人がそう簡単にタイトルマッチに、しかも伝説のチャンピオンの階段を上り始めたあの男と戦えるとは思えんのだが」
「そりゃ、まあ、そうだけど」
真央は苦虫を噛み潰したような表情をした。
「それでも俺はあいつと出来る限り早く戦いてーんだ。あいつができる限りベストな状態のまま」
「そうか」
そう言うと鶴園は深くため息をついた。
「なにか理由があるみたいだね」
「理由なんてねえよ!」
真央は少し語気を強めて言った。
「いまPFPに最も近い男を倒して世界最強のボクサーになる、それ意外にどんな理由があるってんだよ!」
パウンド・フォー・パウンド。
この言葉は伝説的なミドル級チャンピオン、シュガー・レイ・ロビンソンに贈られた言葉だ。
ロビンソン以降、階級の壁を超えた最も偉大なチャンピオンを示す称号として使われるようになった。
フリオ・ハグラーは、まさしく現代のパウンド・フォー・パウンドと目される最有力候補であり、真央はその頂を目指し戦いの道を歩もうというのだ。
「まあ、いいだろう。はねっ返りの強さも、また良きボクサーである証拠だ」
そう言うと鶴園はしばらく目を閉じ、そして目を再び開け言った。
「ただ悲しいかな、先程も言った様に、フリオ・ハグラーの属するミドル級において、日本人、いやアジア人はどうあがいてもマイナーな存在であることは間違いないだろう。そのことは理解できるね?」
歯軋りしながら真央は応える。
「んなことは百も承知だよ。だからこそ一刻も早く……」
「だからこそ、だよ」
真央の言葉をさえぎるように鶴園は言った。
「だからこそ、回り道が必要なんだ。今必要なことは、すぐにでもプロになることじゃない。アマチュアボクシングにおいて自分自身の価値を高め、そして最高の価値を持つボクサーになってフリオに挑戦状を叩きつけることなんじゃないのかな?」
「それって、どういうことですか?」
奈緒が鶴園に訊ねた。
「アマチュアボクシングの最高峰、それは何だか分かるかな?」
鶴園は奈緒を見て言った。
「そうか!」
桃が声を上げた。
「オリンピックで金メダリストになることですね!」
「ご名答」
そう言うと鶴園は目を細めて言った。
「世界的にみても、多くのオリンピックメダリストがプロに転向し、そして名チャンピオンとなっている。古くはモハメド・アリなどもそうだ」
「シュガー・レイ・レナードも、ロイ・ジョーンズJrも」
丈一郎も続けた。
「俺がオリンピアンに? “ゴールデンボーイ”に? デ・ラ・ホーヤみてーにか?」
「そうだ。メダリストとなり、アマ・エリートとしてプロに転向するんだよ。強き相手とみなされれば、ハグラーの方から君に挑戦状を叩くつけてくるだろう。それがあの男にとってのボクシングだからね」
鶴園は真央に向かい言った。
「それに全世界の注目が集まり、君とハグラーとの試合がしっかりと金になるものだとなれば、あの“北米一汚い男”と陰口を叩かれるロバート・ホフマンも前向きに試合をプロモートするだろうさ。だから5年後のオリンピックで金メダルを目指すことは、遠回りなようでハグラの持つベルトに近いと言えるんじゃないかね?」
「五年後のオリンピック……」
そのプランに真央は戸惑った。
「だけど、俺、プロんなるつもりで広島から出てきたわけだし、学校も3月で中退するつもりだったし。そんなこと今まで一度も考えてもみなかった」
「前向きに考えてみてはいかがでしょうか」
理事長が口を開いた。
「鶴園先生はアマチュアボクシング界の重鎮です。その方が西山大付属に転校してボクシング部に加入しないか、と言ってくれているんです。大変魅力的な提案であるとは思いませんか?」
「マー坊君!」
丈一郎は目を輝かせて言った。
「絶対受けた方がいいよ!」
「そうだよマー坊君!」
奈緒も真央の手を取って言った。
「マー坊君なら絶対金メダリストにだってなれるから!」




