3.23(日)11:30
「ねえマー坊君、本当に大丈夫?」
奈緒はコーナーサイドから心配そうな顔をのぞかせる。
「いくらマー坊君でも、相手は一階級上だよ? プロなら二階級は上かも」
ちらり、と相手に目をやる。
身長はそれほどでもないが、太い腕に太い首、がっしりとした体つき。
しかも減量苦から解放されているせいか、うっすらと脂肪がのり、いっそうその体躯を大きく見せた。
「ごめんね、僕のせいでこんなことに……」
同じくコーナーサイドで丈一郎はうなだれた。
そもそも自分が勝利できていれば、このような事態は起こりえなかったのだ。
丈一郎は自分自身の弱さを恨めしく思った。
「心配すんなや」
そう言うとマウスピースを噛んだ。
「お前のせいじゃねーよ」
「マー坊君!」
丈一郎が声をかける。
「あそこで爪噛んでる背の高いおねーさんが手を出したんだからな。それに」
タンクトップと学生服のズボンという奇妙な組み合わせで真央は振り返った。
「男はなめられたら終いじゃ。そうだろ?」
自分の中に渦巻く感情を抑えきれないのだろうか、方言と標準語が入り混じる奇妙な言葉づかいで真央は言った。
「お前らがなめられるってことは、俺がなめられるゆうことじゃ」
「マー坊君!」
振り返る真央の背後から奈緒が声をかける。
「大丈夫だ。心配すんな」
とびきりクールに、真央は答えた。
「マー坊君!」
再び丈一郎も声をかけた。
「うっせーな。いいから心配すんなって言うとろーが?」
「それ僕のマウスピース! しかもまだ洗ってない奴!」
「ぐわっ」
真央はマウスピースを吐き出した。
「てめえ! 紛らわしーとこに置いとくんじゃなぁ!」
「いや、だってさ……」
「へっ、何やってやがんだか」
リング中央では山本がへらへらとその様子を見て笑う。
「コントやりてーんならてめえらだけでやっとけよ」
「あ?」
その言葉に、真央は山本を睨み返す。
そしてリング中央へと歩み寄った。
「おら、早くしねーと昼休み終わっちまうだろうが」
自分が主導権を握っているとでも言いたいのだろうか、山本は余裕を見せつけるかのように挑発を繰り返した。
「それとも、お前らこそ誰か来るの狙ってやがんのか?」
真央は静かに、しかし怒りのこもった声で答えた。
「試してみろ」
「あ?」
相変わらずへらへらとした山本に対し
「試してみろ」
先ほどとはうって変わった、鋭い眼光が山本を射抜く。
その目は完全に山本の挑発を無視し、全く恐れの色が見えない。
「試してみろ。その言葉」
「くっ」
その眼光に思わず山本は後ずさりした。
完全に真央に飲まれていた。
「お、おらぁ杉浦、さっさとゴングならせ!」
そう言うとごまかすように赤コーナーへと戻った。
「あ、はい」
そういうと杉浦はゴングの準備をした。
「行きます!」
カァン
会場が騒然となる。
……ザワザワ……
「……ん?誰かリングに上がっているぞ?……」
「……なんだ?一人学ラン着てるぜ……」
「……もう一人……あれ確か西山大学付属の山本さんじゃねえか?たしかあの人この春卒業だよな……」
山本はミドル級におけるインターハイ選手であり、この地域のボクシング関係者にとっては有名な存在だ。
その山本が、大学ボクシングでも活躍を期待されているその山本が、リング上で見知らぬ高校生とヘッドギアもつけずに対峙している。
ゴングの音は、リングの上で繰り広げられている異様な光景への注目を嫌が応にも集めた。
葵は頭を抱えた。
「ああ、もう何でこんなことに」
もはやこの状況で自分は何もできない、そのことに歯がゆさを感じた。
しかし
「大丈夫だよ」
桃は腕組みをしたままどっかとパイプイスに座り込み、こともなげに言った。
「ほおっておけばさ」
その言葉を聞くと、葵は桃をきっ、と睨んだ。
「なんでこの状況で桃さんは落ち着いていられるんですか!?」
全くの無責任にも聞こえるその言葉に、葵は苛立ちを隠せなかった。
「そもそも、この状況を作り出したのは誰だと思っているんですか!?」
「まあ、確かにあたしがかっとなっちゃったのが悪いけど……」
桃は頬をかいた。
「でも、葵もむかついただろ?」
「それは……確かにそうですが……」
葵はその言葉をすぐには否定できなかった。
正々堂々と戦った両者を愚弄する行為、それは葵にも到底許容できるものではなかった。
しかし
「それとこれとは話が別です! この状況でリングに上がっているのは真央君じゃないですか! 相手はインターハイ選手だっていうのに!」
「それこそ話が別だよ。あの二人がリングに上がったのは、あたしのせいじゃない。あいつの問題。マー坊も言ってただろ。プライドの問題だって」
葵が驚く程に桃は冷静だった。
「なめられたらお終い、それがあいつの流儀なんだってさ」
「でも……」
おろおろしながら葵は言った。
「わかるんだ」
桃は小さくつぶやいた。
「なんとなく、だけどさ」
「え?」
「こういう時のあいつは、絶対負けないんだって」
桃の脳裏には初めて会ったあの日の事がよぎっていた。
「マー坊は」
あっという間に三人のひったくりを打ちのめす真央の姿が。
そして視線をリングの上に移した。
「マー坊は、負けないよ」
「……」
葵はその言葉に従い、同じくリングを注視した。
「みろよ、あいつ逃げる一方じゃねえか」
鼻にティッシュを詰めた大山が赤コーナーサイドでせせら笑った。
「山本はミドル級だけどスピードはライト級並にあるからな。あの野郎手も足も出てねえぜ」
「……すげえ……」
杉浦がごくりと唾をのむ。
「当たりめーだろ。なんたって俺と山本はインターハイ選手だぜ? あんなくそヤンキーとは格がちげーんだよ、格が」
「そっちじゃないです」
杉浦の声は震えた。
そして、全身を戦慄が走った。
「あん?」
しかし大山はまだ気がついてはいないようだった。
「……山本さんのパンチが、全く当たってねえ……あり得ねえ」
ため息と興奮の混じった声が杉浦の口から漏れた。
「んだと?」
そう言うと大山は再びリングの両者の様子を見た。
「!」
あたらない。
山本は何度もジャブ、コンビネーションを繰り出す。
しかしクリーンヒットは一発も当たらない。
真央の方は、ほぼノーガードの状態だ。
軽いジャブはこれ見よがしに額で受け、ダッキング、スウェーあらゆるディフェンス技術を使いあらゆる強打を避け続ける。
フットワークを細かく刻みながらも、一切後退することなくその場でそのパンチをかわし続ける。
すべてがその視野の中に納まっているのだといわんばかりに。
「くっ」
大山は愕然として指示を出す。
「何やってんだ山本! 全然当たってねーじゃねーか!」
「はあっ、はあっ、はあっ」
手数では圧倒するも、そのすべてがほぼ空振り状態だ。
山本は早くも体力を消耗し、乱れた呼吸で肩が上下した。
「どーした、かすりもせんぞ」
一方で息一つあがっていないのは真央の方だった。
「はあっ、はあっ、うるせえ!」
悔し紛れの右フックを繰り出すが、それも空振りに終わった。
「ちくしょう! 野郎ぁ!」
苛立ち交じりの怒号が響く。
「すごい……」
葵はその動きに魅了されていた。
先ほどまでの丈一郎の動きも、確かにすばらしかった。
しかし、真央の動きからは、格の違いが一目瞭然だった。
丈一郎の試合からは、戦う男たちの熱意というものが伝わって来た。
しかしこの試合は違う。
もはや完全に役者が違っていた。
たった一人でダンスを踊っているかのように、真央がリングをダンスフロアのように完全に支配していた。
「猟犬みたい……」
全身ばねのようにリング上で跳ね回る真央の姿を、葵はそう表現した。
「あいつも川西君とプールトレーニングしていたからね」
腕と膝を組んだ桃。
「だけど、相手もあの西山大の選手だ。このままじゃ終わらないと思うけどね」
そう言うと桃は爪を噛んだ。
「どうした? インターハイが泣いてるぜ?」
さらに挑発をつづける。
「はあっ、はあっ」
もはやそれに反応する余裕もない。
山本は右ストレートを繰り出したあと、たまらずクリンチをし、真央の背中をたたく。
「うっとおしんだよ!」
真央は力づくでそれを引きはがした。
その時だった。
ニヤリ、山本はほくそ笑む。
山本はクリンチの腕を引き離した瞬間、真央の死角からフック状のパンチを離すと、その腕は肘を支点に急激に折り曲げられた。
「マー坊君!」
そのパンチの軌道に丈一郎は仰天した。
山本のパンチは正確に真央の側頭部をとらえ、真央をマットに沈めた――
――はずだった。
ブンッ!
「!」
大山は目を見開いた。
「なんであれがよけられる!?」
真央はそのパンチを天性のディフェンス勘のみで、プロボクサーの行う上半身を深く折り曲げるダッキングでかわした。
……ザワザワ……
「……すげえ何もんだあいつ……」
周囲の人々も真央のすさまじいディフェンス能力に騒然とした。
「……あいつ背中に目でもついてんのか……」
ガラガラ
試合会場の扉が開けられた。
休憩の時間はまだ続いていたが、役員のうち数名が一足早く会場に入ってきたのだった。
「おや、何事ですかな?」
西山大のウェアーを羽織った初老の老人が会場の異変に感づいた。
「うん? やっ、なんてことだ!」
別の学校の役員がその声に気づきリングの上を見れば、そこには無断でスパーリングを行う二人の選手の姿があった。
「一人は山本君じゃないですか? 一体何をやってるんだ!」
その役員は駆け出し
「こら! 勝手にリングに上がって何を……」
と割って入ろうとしたところ
「まあまあ、お待ちなさい」
初老の男性はその役員の肩をつかんでとめた。
「何をおっしゃいます! 一人は先生の教えている選手じゃないですか!」
とそれを振り払おうとした。
「これがもし露見したら大変なことに……」
「それはわかっています。しかし……」
しかし、初老の男性は再び役員の男性を押しとどめた。
「……しかし相沢さん、見てください。うちの山本を相手にこれほどのボクシングをするボクサー、一体何者かご存知ですか?」
「え?」
その指摘を受け、その役員は改めてリングの上を注視した。
「……何なんだ。あの山本がほとんど子ども扱いじゃないか……」
その言葉を口にすると、その役員もその場に足を止め、そのスパーリングに見入ってしまった。
「ぜえっぜえっぜぇ」
渾身のパンチまで空振りさせられてしまった山本にもはやなすすべはなかった。
その足は完全にストップした。
腕はもはや鉛のようであった。
「もう終わりか?」
そう言うと真央は初めてファイティングポーズをとった。
「んじゃ、これで終いじゃ」
真央はまさしく猟犬のように跳ねた。
一気に距離を詰めると右ストレートを繰り出した。
「!」
朦朧とする意識の中で山本は顔面をガードする。
しかし
「うらぁぁぁぁあ!」
真央のストレートの狙いは山本の顔面ではなかった。その軌道は相手の胸元だった。
そしてそのストレートが山本ののど元に当たるかと思われたその刹那、その拳の軌道は一気に山本の顎へとチェンジ、アッパーとなった拳は山本の顎を下から上へと打ち抜いた。
「っ!」
山本の頭は激しく揺さぶられた。
そしてそのまま天井を仰ぎ、その体は後ろへと激しく倒れた。
「ま、こんなもんじゃろ」
丈一郎、奈緒、葵、そして周囲の人間誰もが唖然としてリングを見つめた。
真央、そして桃だけを除いて。
「……なんともはや……」
西山大のウェアーを羽織った男性は、自身の育てたボクサーをナックアウトされる光景を目の当たりにしながら感嘆の声を上げた。
「……往年のデュランを見ているかのようだ……」
ロベルト・デュラン。
石の拳と呼ばれた強打と転生のディフェンス能力、そして何よりも相手に真っ向から向かって行く闘志を武器に、ライト級最強をうたわれた天才ボクサー。
そしてその強打は階級の壁をやすやすと突破し、当時無敗のシュガー・レイ・レナードに土をつけ、そしてミドル級を含め4階級を制覇したパナマの拳雄だ。
この男性は、真央の姿に全盛期のロベルト・デュランの姿を見たのだった。
「……これは……一体……」
その役員も、そのすさまじいKOシーンに言葉をつなぐことができなかった。
しかし、ふと気を取り直し声を張り上げた。
「……こ、こら! お前たちそこで何をやってるんだ! だれだ、勝手にリングに上がっているのは!」




