3.23(日)11:00
「杉浦ぁ!」
会場内に、どすの利いた声が響いた。
「てめえこんなところで何やってんだ!」
見るとそこには、先ほど相手コーナーに立っていた二人の西山大の学生コーチ、そしてそれに付き従う数名の西山大学付属高校の選手があった。
「や、山本先輩、大山先輩……」
相手選手の体は急に硬直した。
「い、いや…さっき、自分バッティングやらかしてしまいましたので……」
「ああ? てめえさっきあれだけ情けねえ試合しときながら何勝手にケツ割ってんだ?」
バッティングした相手に対し謝罪をする、それがこの大山という男には軟弱に見えたようだ。
そして丈一郎を一瞥すると
「こんなもやしみてえな相手によ!」
片方のまゆを吊り上げ、丈一郎に対し侮蔑の言葉を口にした。
「ああ? なんか言ってみろよ!」
その言葉に反応したのは桃だった。
「なんだと?」
丈一郎にたいし、その存在をあまりにも軽んじた言葉だ。
先ほどまでの、杉浦に対する怒りやわだかまりはすでに解消されていた。
しかし、そのあまりにも桃が理想とするスポーツマンシップからかけ離れたその大山の姿に対し、言いようのない怒りを覚えた。
「す、すんません……」
杉浦はあわてて頭を下げた。
しかし怒りを覚えたのは桃だけではなかった。
正々堂々と戦い、互いに敬意を表しあった丈一郎。
桃と同様、男同士の潔い握手に感動すら覚えていた葵。
そしてボクシングの持つ本当の素晴らしさに目覚めた奈緒。
大山の態度は、それら全てを冷笑し、つばを吐きかけるような行為だった。
温厚な三人ですら怒りを覚える、大山の態度はまさしくそのようなものだった。
しかし真央はといえば、飄々としてその様子を見つめているだけである。
大山は聖エウセビオの生徒たちを完全に無視し
「てめえ、俺がせっかく守ってきた西山大付属の栄光あるフライ級代表になるんだろうが!」
文字通りの傍若無人でがなり続けた。
自分自身の実績を鼻にかけ、丈一郎だけではなく自身の後輩まで見下したような態度だった。
「てめえがそんなんじゃ、示しつかねえだろうがぁ! 西山大の看板に泥塗ったら承知しねぇぞ」
会場が凍りつくような声がひびいた。
「本当に、本当ににすいません……」
その剣幕に、杉浦はひたすら頭を下げ続けるしかなかった。
その姿を見ると
「はっ、情けねえ真似しやがって」
大山は吐き捨てるように言った。
「まあいいや、そんかわりてめえ来週から地獄だぞ、わかったな?」
そしてその場を立ち去ろうとしたその時
「ちょっとまて!」
その背後から、力強い声が響いた。
「ああん?」
著しくその顔をゆがめ、大山は後ろを振り向いた。
「謝れ」
そこに立ち尽くしていた人物、それは誰あろう、釘宮桃その人だった。
「謝れ」
短いが刺すような強烈な言葉を桃は繰り返した。
「川西君に謝れ。そして、その杉浦君にも謝れ」
チッ、大山は舌打ちをすると
「ああ? もういっぺん言ってみろよ」
今度は桃に詰め寄った。
「ん?でけーなこのアマ」
フライ級の大山よりも、170近い桃の方が身長は高かった。
大山の態度に怒りを覚えた奈緒も
「も、桃ちゃん、やめなよ」
姉の態度におろおろするばかりだった。
しかし怒りのせいであろう、いつもはその言う事を最後には聞かざるを得ない妹の言葉も無視した。
「謝れって言ってるんだ!」
一向に落ち着く気配を見せない。
「川西君と、そして杉浦君に!」
大山の目を睨み返し、同じ言葉を物怖じすることなく繰り返した。
「川西って」
大山は視線を横に移し
「そこにいるガキの事か?」
丈一郎を指差した。
「はっ、なんで謝んなきゃいけねえんだよ。こんなくそがきに」
再び丈一郎を愚弄するような言葉を口にした。
その言葉は、いっそう桃の怒りの炎に油を注ぐ事となった。
今にも大山に食って掛かりそうな勢いだ。
「大山さん! もうやめてください!」
杉浦の悲痛な声がむなしく響く。
「自分の事だったら、本当に謝りますから! もう勘弁してやってください!」
「釘宮さん、僕のことならもういいから!」
「桃さん、ほんとに落ち着いてください!」
丈一郎と葵も桃をとめようとするが
「さっきの試合が情けない試合? あたしはそういうの絶対許せないんだよ!」
二人の言葉ももはや届いてはいなかった。
桃の中で、大山の態度があの日の引ったくりの姿と重なった。
抵抗できない老婆から集団でかばんを奪うその姿と、命がけで戦ったボクサーを高みに立って見下すその姿は、桃にとって卑劣そのものにしか写らなかった。
だからこそ、桃の正義感は嫌が応にも燃え上がった。
こういう男、見下げ果てた男、男と呼ぶにも値しない男を、桃は許しておくわけにはいかなかった。
「知ったこっちゃねえよ!」
しかし大山は全く意に介すことはなかった。
「大体よ、なんでてめえらみてーな連中がリング上がってんだよ」
大山の侮辱的な言葉は丈一郎のみならず、聖エウセビオ学園にまで及んだ。
その瞬間。
桃はキレた。
「大体な、おめーらみてーなボンボン連中はお家に帰ってママとお勉強でもしてればいいだろうが?」
心地よさそうに心に浮かぶ限りの悪口を並べる大山。
「このオカマ野郎が! 才能ねえ奴がボクシングなんてやるだけ――――」
バキィッ!
「あがっ!」
大山の体が後へと吹っ飛んだ。
鼻から鮮血が飛び散った。
「……っつぅ」
真央は顔をゆがめた。
左頬を思わずさする。
「「「ああっ!」」」
その場にいた全員が驚天動地の声を上げ、そして凍りついた。
目の前でおきる光景は、果たして夢か幻か。
大山の言葉を聞くが早いか、桃は拳を硬く握り締め、伸びやかな右ストレートを繰り出していた。
そしてその拳は見事に大山の顔面の左側の頬骨をとらえていた。
「っかっ……」
大山は一言二個と何か言葉を口にしようとしたが、口は完全に脳の統制から外れていた。
膝をついたその体を、二、三度立て直そうとするものの、足までもがその統制から外れていた。
「……くぅっ……」
哀れにも大山は、そのまま白目をむいて体育館の天井を眺めることになった。




