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    3.23(日)10:45

 勝者の名乗りと両者の挨拶が終わった後、丈一郎はコーナーへと戻ってきた。

 ダメージに加え乱れたペースによる消耗により、その足取りはふらついていた。


「大丈夫か? しっかりしろ」

 真央は丈一郎に肩を貸す。

 そしてリング外の奈緒に対し

「奈緒ちゃん、一応後で冷やすもん持ってきてやってくれ」


 奈緒は半分泣きそうな顔をして

「うん!」

 うなずきながら真央と共に丈一郎をリングサイドへと降ろした。


 丈一郎は、真央の顔を見ることなく、うなだれたままだった。

「マー坊君、済まない……」

 丈一郎は、何としても一勝を手にしたかった。

 もちろん自分自身のプライドもあるが、それだけではない。

 本来ならば、今すぐにでもプロテストを受けるための準備をしなければならない中、二週間もの間自分のための練習につき合わせてきたこの少年と、この一勝を分かち合いたかった。

 そして同じく自分を後押ししてくれた三人の少女に、この一勝を捧げたかった。

 確実に得られたはずのその一勝、自分の油断がそれを全て水泡に消え去らせた。

 負けたことの悔しさに加え、はやる気持ちを抑えきれなかった自分の未熟さを情けなく思った。


 その気持ちは、真央にも痛いほど伝わっていた。

 真央は“惜しかったな。もうちっとだったんだけどな”とこころの中で声をかけた。


 “勝者には何もやるな”という言葉がある。

 勝者は、その勝利の栄冠以上に与えられるべきものは存在し得ない、その栄誉以上のものはこの世の中には存在しない、ということだ。

 しかし真央は、敗者に与えられるべきものも存在しない、と考えていた。


 いかなる言葉も品物も、勝利の栄誉と全く正反対の位置に存在する敗北の苦さに比較すれば、同様にその輝きを失ってしまう。

 かつてのヘビー級チャンピオン、ソニー・リストンは言った。


“いつか誰かがボクサーの為のブルースを書いてくれるはずさ。 スローなギターと優しいトランペット、そしてゴングの音でな”


 ボクサーに与えられるべきものは、自分たちの幕切れの時、そこにに流れるブルースのみでよい。


 真央も丈一郎も、そしてリストンも、同じリングに立つすべてのボクサーはそうであるべきなのだ。

「しゃべんなよ」

 そう言ってその頭をさすった。


 


 真央は奈緒と共にリングサイド近くのベンチへと寝かせた。

「医務室行くか?」

 

 真央の問いかけに、丈一郎は首を振った。

 肉体的なダメージよりも、精神的ショックの方が大きいのだろう。

 タオルで顔を覆い額に手を当てたまま、しばらく無言で横になっていた。


「川西君!」

「川西君、大丈夫!?」

 桃と葵も駆けつけてきた。


「川西君! これ!」

 桃はクーラーバッグの中からアイスパックを取り出した。


 丈一郎はそれを受け取り

「ありがとう、みんな」

 ようやく言葉を発した。

「ありがとう。とりあえず大丈夫みたい」

 そしてアイスパックで顎の周りを冷やし始めた。


 その様子を見て、葵と奈緒、桃は胸をなでおろした。

 そのダメージが精神的なものだと知っている真央を除いては。


「ずるいじゃないですか。あんなの」

 葵は悔しそうに言った。

「確実に川西君がポイントでリードしていたのに。あんなの故意の反則としか思えません。違いますか、真央君?」


「そうだな。確かにやり方はきたねー。万が一あれが故意だとしたらな」

 真央は言った。

 そしてこう続けた。

「だがな、相手もそのバッティングのペナルティーとしての注意は受けたんだ。そういう意味では、ルールにのっとった行動だ」

 

「葵ちゃん、いいんだ」

 丈一郎は上体を起こして答えた。

「あのバッティングで僕は完全にペースを乱されてしまった。そういううまさも含めて、相手のほうが一枚上手だったんだよ。僕の、未熟さの結果だ」

 桃は陸上、葵は水泳。

 これらは他人との勝負とはいえ、突き詰めれば自分がどれだけのタイムを出せるか、自分自身との戦いだ。


 しかしボクシングは違う。


 他者の存在を想定した競技だ。

 事故としてのバッティングも、当然存在しうる。

 だからこそ、それらがおこりうるものとして想定できなかったという点で、やはり負けは負けなのだ。

 なによりも、ボクシングはそのハングリーさゆえに、技術による攻防のみがすべてではない。

 突き詰めれば精神力の勝負でもあるのだ。

 勝利を目前時自分自身の肉体の在りようへの認識の喪失と、自身の強さに対する“錯覚”、それを招いた未熟さが敗因のすべてである。

 その精神的未熟さを埋め合わせるほどの技量も持ち合わせていない自分、敗因は明らかだった。

 それを知っている丈一郎は、素直に今回の敗北を受け入れた。


 葵がその言葉によっても、釈然としない思いを隠せない中、

「あの……」

 五人の背後から声がした。


「あ……」

 丈一郎がその声の方を見る。

「君は……杉浦君、だっけ?」

 そこには、先ほどの対戦相手であった西山大付属の選手の姿があった。


「あ、あのさ、川西君……」

 言葉を慎重に選びながら、そして

「さっきは、その……本当に……」

 そう言うと杉浦は無言で、しかし大きく頭を下げた。

 自分が勝利を手にすることが出来たのは、事故とはいえバッティングによる部分が大きい。

 技量の上では、明らかに丈一郎に圧倒されていたことを自覚もしていた。

 だからこそ、あのバッティングがこころに重く残っている。

 そのわだかまりを払拭するため、杉浦は丈一郎に心の底からの謝罪に来たのだ。

  

「あ、ああ、気にしないでよ。ナイスアッパーだったよ」

 そう言うと丈一郎は顎を抑えながら笑った。

 この勝利は確かに自分の未熟によるものである、それは間違いなかった。

 バッティングは単なる自己で、もしなかったとしても、あのままの自分では負けていたであろう。

 いやむしろ、ここでの敗北が自分をいっそうの高みに連れて行ってくれるかもしれない。

 敗北の瞬間はショックだったが、しかし今は感謝すらしている。

 恨みに思う気持ちなど、毛頭なかった。


「だ、大丈夫だった?」

 恐る恐る杉浦は訊ねてきた。


「うん。今度はインターハイ予選で対戦するかもしれないけど」

 そう言うと丈一郎は状態を起し、右手を差し出した。

「その時はよろしくね。今度は負けないから」


 すると杉浦の表情がぱあっと明るくなった。

「あ、ああ! もちろん! おれも負けないから!」

 そしてその手を握り返した。


 その様子、二人の男の握手の様子を、三人の少女は無言で見つめていた。

 先ほどまでお互いの体を、そして顔面を、時には相手を殺してしまうかもしれない情況の中で殴り続けた少年たちは、なぜこのように手を取り合うことができるのだろうか。

 勝者と敗者、そのコンストラストがあらゆるスポーツと比較しても残酷なほどに明確なコントラストを浮かび上がらせる競技の中で、何故これほどに敬意を持って振舞うことができるのか。

 三人にはとても理解ができなかった。


 その気持ちを察したのだろうか

「なんつーかさ」

 頭をかきむしりながら、真央が口を開く。

「ボクシングっつーのはさ、路上の喧嘩じゃねーんだよ」

 まるで自分に言い聞かせるかのように、真央は続けた。

「路上の喧嘩っつーのは、どんなにやったって、憎しみに始まって恨みしかのこんねーもんなんだ」

 そういうと真央は、両の手を握り締め、硬い石のような拳を作った。

「ボクシングも、始めは相手に対する憎しみから始まんのかもしんねえ。こいつをぶん殴りてえ、ぶん殴って勝ちてえ、ほんとにきついときは、ぶっ殺してやりてえ、って思うことだってあるんだ。だけどな」

 すると、今度はその拳をふっと緩め、柔らかく手を開いて見せた。

「その憎しみの感情が、戦いの間に、変わるんだ。見ているやつには芸術に。んで、やってる二人には、お互いが仲間に。大体身長体重が似通ってんだから、ほとんど自分の移し身みてーなもんだよな。憎しみが、芸術に変わるんだ。しまいには、勝っても負けても、相手に対する尊敬が残るんだ。こんなのボクシング以外にはねーよ」

 すると真央は急に舌を出して

「ま、俺はリング上で負けたことねーから、敗者の気持ちなんかわかんねーけどな」

 とおどけて見せた。

 

 その真央の言葉と態度を受け

「ったく」

 桃は爪をかんであきれた表情。

「せっかくいいことを言ったと思えば。本当に君はばかなんだから」


「でも、真央君らしくて私は好きですよ」

 にっこりと葵は微笑んだ。


「負けちゃったけど、うん!」

 奈緒は小さくガッツポーズを作った。

「次は絶対、負けないよ!」

 

 三人の少女は少年たちの、ボクサーたちのちょっと理解できない不思議な考えを、なんとなくだが理解し始めていた。



 その瞬間である。

「おい杉浦ぁ!」

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