3.23(日)10:30
カァン
ゴングが鳴らされる。
キュッキュッキュッ
両者ともにオーソドックススタイル。
丁寧に丁寧にフットワークを刻む。
先に仕掛けたのは丈一郎だった。
「ふっ」
シュ、ブン、左ジャブからの右フックで相手を叩く。
西山大の選手はそれをがっちりとしたガード。
体にしみこんだ基本動作を忠実に実行する。
シュ、シュ、シュッ、ジャブを繰り出し応戦する。
ト、トン、バックステップでそれをかわす丈一郎。
そして再び距離をつめ、右ストレートを返しさらに距離をつめる。
「はぁっ!」
ズンッ!
「くふっ!」
丈一郎の右アッパーが西山大の選手のボディーに深々と食い込む。
「うまい!」
リングサイドで桃が叫ぶ。
「バックステップから一気に距離をつめての右アッパー、狙っていたな!」
リング上ではさらに両者の白熱した応酬が続く。
西山大の選手は丈一郎の徹底したボディー攻撃に嫌気を見せ、バックステップで逃れようとする。
しかし
「速い!」
桃と葵の目の前であっという間に丈一郎はその距離をつめていく。
「すごい!」
ボクシングのことをよく知らないはずの葵も驚いた。
「まるで山猫みたいですね!」
その動きを、葵はあふれ出るイマジネーションでそう表現した。
「これだよ、これ! プールでのランニングの成果なんだよ!」
そういうと桃は葵の手を握り締めた。
止まることのないフットワークとそれを可能にするスタミナ、何よりも上半身と下半身がぶれずに、一体化した一連の動きを見せる。
まさしくそれは、桃の意図していた通りのもので、その目に見えるような成果に桃は歓喜した。
「葵が協力してくれたおかげだよ!」
「いえ、そんな……」
葵は謙遜して笑ったが、その効果は葵の目から見ても明らかだった。
桃ほどではないが、葵もスポーツをたしなんでいる。
その動きの安定感は目を見張るものだった。
丈一郎は真央とのミット打ちで見につけたコンビネーションを臆することなく発揮した。
右ボディーから左フック、左ジャブにつなげて右ストレート。
そして昨日同様、広い視野を発揮して相手選手をコーナーへと追い詰める。
丈一郎が短い期間の中で自分で編み出した必勝パターンだ。
「「そこだ!」」
桃と、普段はおしとやかな葵も、二人は拳を握り締め叫んだ。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!」
丈一郎はコーナーに追い詰めた相手に渾身の右ストレートを――――
カァン
あと少し、丈一郎と相手選手の間に、レフェリーが体をねじ込む。
ゴングは丈一郎の右ストレートをあと一歩のところで押しとどめた。
「すげーぞ丈一郎!」
コーナーへと帰ってくる丈一郎に真央が声をかけた。
「もう少しでスタンディングダウン取れそうだったぜ」
「うん」
プッ、丈一郎はマウスピースを吐き出した。
その顔は、確かな手ごたえに自信を持ったようだった。
「フライ級のパンチがこんなに軽かったなんて知らなかったよ」
普段丈一郎は、十キロ以上重い真央のパンチを受けている。
その拳の質量の違いは、丈一郎は拍子抜けするとともに相手のどんなパンチにも耐えられるという自信を植えつけた。
「手数でも有効打の数でも、断然丈一郎君がリードだよ」
そういうと奈緒は丈一郎の口に水を数滴含ませた。
「丈一郎君てボクサータイプかと思ってたけど、本当はファイタータイプだったんだねー」
確かに丈一郎のイメージから、ぐいぐいスウォームして手数で圧倒するというイメージはなかった。
しかし、豊富な運動量と瞬発力を身に着けた丈一郎の動きは、そのイメージを完全に覆した。
奈緒は相手コーナーに目を移す。
「ほら、相手コーナー見てよ。わたしたちがこんなにやれるなんて知らなかったみたいだから、さっきからかなり大慌てな感じだよー」
赤コーナーを見れば、学生コーチがなにやら選手を怒鳴りつけている様子が見られる。
「……てめー一体なにやってんだ?……」
「……このまま負けたらただじゃおかねえからな?……」
「まあ、強豪校には強豪校の事情ってもんがあるんだろうよ」
とは言いつつも、真央のこころに少しの不安がよぎる。
闘争においては冷酷なほどにクレバーな男は、嗅覚鋭くその違和感を嗅ぎ取った。
確かに、ここまでは圧倒的に丈一郎のペースだ。
しかし、名門校と呼ばれる環境の中で、一年間のすべてをボクシングに捧げてきた男を相手にしているのだ。
このままそうやすやすとことが運ぶはずはない。
しかし
「セコンドアウト」
レフェリーの機械的な声が響いた。
ぎっ、真央は唇を噛んだ。
そして再び丈一郎にマウスピースを噛ませ
「いいか、油断すんなよ。相手は相当ダメージ残ってるはず。このラウンドで決めてこい」
背中を押すように言葉をかけた。
「うぐぅん!」
丈一郎は大きくうなずいた。
カァン
第二ラウンドの開始を告げるゴングが鳴る。
キュ、キュ、キュ
「ふんっっ!」
丈一郎はいきなり右フックを叩き込む。
相手選手の体は大きく揺らぐ。
もはやこの戦いの支配者は自分だ、そういわんばかりだった。
「くっ」
相手選手はよろよろと後退する。
「このラウンドもいけそうですね」
葵は顔を輝かせながら言った。
しかし桃は真央同様、その様子に少しの、ほんの少しの不安を覚えていた。
「そう……だといいんだけど……」
その表情はやや曇っていた。
「何か気になることでもあるんですか?」
その様子に葵は怪訝な表情で訊ねた。
葵の目には、どう見ても試合は丈一郎のペースだ。
力量の上から見ても、明らかに相手を圧倒しているようにしかみえない。
「このままじゃ終わらないと思う」
そう言うと桃は小さく親指の爪を噛んだ。
「相手は、何人ものインターハイ選手を輩出している強豪校で、曲がりなりにも一年間トレーニングを積んできているんだ」
丈一郎が一年間トレーニングを積んできたのと同様に、いやそれ以上に、相手は格段に厳しい環境でトレーニングを積んできたのだ。
加えて、いかに技量が上がったとはいえ、やはり圧倒的に同階級とのスパーリングの経験は相手が優っているだろう。
「それに、なんだろう、ちょっと空回りしているようにも見える。すごく危なっかしい」
「どういうことですか?」
その意を理解しかね、たまらず葵は正した。
「今まで、そういうの、何回も見てきたから」
自身も優れたアスリートである桃は、わずかな油断がもたらす意味をよく知っていた。
わずかな油断、特に目前にぶら下がった勝利で生じた油断は、絶対に負けないとする敵の精神力に容易に屈する。
今のリング上で展開される光景に、桃にはまさしくそれを感じ取っていた。
「それが出る前に、終わらせられるといいんだけれど」
桃は祈るような気持ちで言った。
「大丈夫だよな、マー坊……」
桃は真央にそれをゆだねようとしたが、アマチュアのルール上それは不可能だった。
リング上では開始早々丈一郎が相手をコーナーポストへ追い詰めている。
先ほどと同様の光景が繰り返されている。
「丈一郎……」
その浮き足立った様子に、真央も歯噛みをした。
「……何とかここでしとめろ……せめて次のラウンドまで持ってくれよ……」
唇をかみ締め、見守るしかなかった。
丈一郎は左右のボディーフックから左アッパーをボディーに叩き込む。
真央や桃の懸念が的中したのだろうか、その腕の動きは、明らかに大振りだった。
これまで何度も練習し、徹底的に実につけていたはずの基本は、勝利への渇望の中で少しずつ失われ始めた。
食いしばるべき歯は、勝利への確信の中で徐々に甘くなった。
首は反り、最も警戒すべき顎は、自身の強さへの“誤解”のなかで完全に浮き上がった。
「ふうっ!」
完全に自分自身の体のおかれた状態を見失った丈一郎は、得意の右フックを相手に放とうとした。
その瞬間だった。
「丈一郎! はやまんな!」
異変に気づいた真央は叫ぶ。
相手選手はフックをかわしざまに大きく体を沈めてダッキングをした。
そして、体勢をを戻そうとするところにその後頭部が
ガキィン
「がっ」
勝利を確信して顎を上げてつっこんできた、その丈一郎の顎を勢いよく捕らえた。
真央の、そして桃の嫌な予感は的中した。
「ああっ!」
「川西君!」
観戦席の二人の少女は、悲鳴にも近い声を上げた。
「丈一郎君!」
奈緒の声は、もはや悲鳴そのものだった。
レフェリーは西山大の選手にバッティングの注意を与えた。
ダメージはそれほどでもないようだ。
しかし
「やべえな、あいつこういう経験したことねえはずだ」
真央が丈一郎に経験させてきたことは、あくまでも違う階級の人間同士のマススパーに過ぎない。
ゆえにこのような不意のアクシデントによるダメージを全く経験することなくここまで来た。
短期間で身につけてきたもの脆弱さ、それが精神的脆さという形で噴出した。
「ふうっ! ふわっ!」
明らかに基本から逸脱した大振りな拳を振るう丈一郎。
勝利を決定付けるはずの一打、それで初の勝利を得ることが出来たはずなのに。
勝利を確信しそれを逃したことへのあせりは、丈一郎の体を支配した。
無駄に力んだ大振りの拳は、鍛え上げた自慢の体力の消耗を加速させた。
丈一郎はそれ以降、その足は完全に止まり、手数は目に見えて減っていった。
「そら、杉浦、一気にいけ!」
勢いづいたような西山大付属の選手の声が響く。
「ふうっ! ふうっ! ふうっ!」
その声に押されるように相手選手は手数を増やす。
「ぎっ! がはっ! はっ!」
今度は逆に丈一郎がリングに追い詰められ、怒涛のラッシュを全身に浴びた。
そして
ガキィッ
「丈一郎!」
「丈一郎君!」
コーナーサイドで叫ぶ真央と奈緒。
「あがっ!」
相手選手の右アッパーがバッティングの箇所を正確に打ち抜いた。
「ストーップ!」
レフェリーは試合を止め、丈一郎にスタンディングダウンを与える。
かろうじてファイティングポーズをとったことを確認すると
「いけるか?」
と声をかけ、レフェリーは丈一郎の目を見た。
丈一郎の小さな“いけます”という声を耳にしながらも、無言で両手を頭上で大きく交差させた。
「……これまでか」
真央は唇を噛んだ。
アマチュア、特に高校生の試合は、何よりも選手の安全確保が第一優先となる。
プロボクシングを見慣れた人間が、あまりにもあっさりと試合をとめすぎると感じる背景には、動かしがたい合理的な理由があった。
丈一郎の様子は、これ以上の続行は危険であるという、まさしく合理的なジャッジをレフェリーに展開させた。
丈一郎はうなだれた。
二週間の特訓の結果は、二ラウンド、ワンサイドのレフェリーストップコンテストによる敗北という形で幕を閉じた。




