3.23(日)10:00
「あ、葵じゃん!」
練習会の会場である市民体育館、その入り口へと続く小道で桃は葵に声をかけた。
「やっほー、おはよ」
「あら、桃さん」
白いワンピースと紺のニットを身にまとった葵はふわり、と後を振り返った。
「おはようございます。いよいよ本番ですね」
「うん。かなりうまく仕上がっているみたいだな」
桃は言った。
「奈緒が言うには、だけどさ。あの子すごく大げさだから」
ショートパンツでダウンジャケットを羽織ったマニッシュなその姿は、フェミニンの塊のような葵と好対照を成していた。
「けど、あたしたちがこれだけ骨を折ったんだ。川西君には絶対勝ってもらいたいな」
「ええ」
その顔を見て、葵もつられて笑った。
「精一杯力を出し切って欲しいですね」
重厚な出入り口のガラス戸を開ける。
桃はショートブーツを、葵はかかとの低い白いシューズを脱ぎ、体育館のスリッパに履き替えた。
「ボクシングの会場は、と……」
桃は体育館の見取り図に目をやる。
「地下みたいだね」
「ほら、こちらにこの体育館の沿革が載せられていますよ」
そういうと葵は見取り図の横にある説明文を指差した。
「ボクシングのリングが二会場分、日本でも有数の大きな会場らしいですね」
「ふーん、昔はここで世界戦も開催されたんだ。ぜんぜん知らなかったな」
そういうと桃は腕組をした。
「とにかくさ、あの三人探そう。試合予定時間まであと15分くらいだからな」
「ええ。そうしましょう」
そういうと二人は連れ立って階段を下っていった。
地下の通路には、汗のにおいと熱気でむせ返るようだ。
空調はかび臭く、それがボクシングの会場に特有の殺伐とした熱気を醸し出していた。
出場校の生徒であろうか、何人かの選手がストレッチやシャドウでアップを行っている。
「あのお三方はどちらにいらっしゃるのでしょうか」
思いもよらない熱気に上着を脱ぎながら葵は言った。
ぱたぱた、掌でうちわを仰ぐような仕草を見せた。
桃はきょろきょろと周囲を見回すと
「あ、あそこにいるの、そうじゃないか?」
その指差す先には、学生服姿のままミットを構える真央の後姿があった。
「残り1分!」
はきはきとした奈緒の声が廊下に響く。
「はい、ワンツー二回!」
真央はミットを構え指示を出す。
「ふっふっふっはん!」
バンバンバンバンッ!
その指示に従い、丈一郎は一連の動作をこなす。
葵は始めてミット打ちの迫力を知った。
物と物とが強い力でぶつかり合うときに生じる強い衝撃音、それも日常生活では絶対に耳にすることのないであろう類の音に、葵は初めてボクシングという存在の生々しい部分を体感した。
「ものすごく鋭い音がしますね」
「ジャブ二回! 右ストレートの後右アッパー!」
「ふふっ、ふんっ、はん!」
ババン、バン、バンッ
その様子を見て、桃はうんうんとうなずいた。
「かなり調子はよさそうだな」
上半身と下半身のバランス、筋肉の張り、気合の入れ方、さまざまな点からほぼ完璧に仕上がっていることを桃は確信した。
「これも真央君の指導のおかげなんですね」
きゅっ、と胸元を押さえ葵は言った。
丈一郎の成長の背景に、葵は真央の姿を見た。
丈一郎とともに汗を流し、そして今はこうして親権にミットを構えて指導を行っている。
その横顔は、あの日ともに歩いた夜道で見せたあの表情に重なった。
今後、どれだけ顔を合わすことが出来るかはわからない。
しかし、今日一日、その成果をしっかりと形に残し、悔いなく自分の道を歩いていって欲しい、葵は心の底から願った。
「まあ、川西君の努力も大きいけどね」
そういうと桃は腕組みをした。
「素直じゃないんですね」
にこりと笑いながら葵は桃を見た。
桃の頭には、昨晩の真央の姿がよぎった。
ここまで二週間、一つ屋根の下で過ごしてきた真央の、そのこころの中を垣間見ることが出来た。
真央の心の中に澄む、孤独な少年。
その孤独な少年が、初めてその言葉を自分にだけ聞かせてくれた。
桃はそれが少し嬉しかった。
そして、自分自身の心のうちも伝えることが出来た。
今思い出せば、なぜほどに心を無防備にしてしまったのか、少々赤面してしまう。
桃はそれを全て春の朧月のせいにして、こころの内にしまっておくことにした。
「ラスト10秒!」
奈緒の声が一層大きく響く。
「ワンツー連打!」
さらにぐっと腰を落とし、パンチを待ち構える真央。
「うあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
ババババババババババババババババババババ
最後の力を振り絞り、一呼吸もおくことなく丈一郎は連打を繰り出す。
「終了でーす」
二分間のミット打ちが終了した。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
酸欠状態ながらも呼吸を整える丈一郎。
一切体を折ることなく、腰に手を当てたまま。
「ふうっ」
その回復の速さは、格段に向上した心肺機能を証明した。
「よぅし、いい感じだ」
丈一郎の仕上がり具合に真央は満足そうだ。
この二週間、この少年と真央は汗を流し、教えるというほどのことをしてきたつもりはないが、それでも自分のもっているものを出来うる限り伝えようと努力した。
これほどまでに誰かのために力を尽くしたことは、かつてあっただろうか。
上達の充実と、それを実感できたときに得ることの出来る自信。
それを、丈一郎は確実に手にしていた。
かつての自分のように。
真央は丈一郎とかつての自分の姿を重ね合わせていた。
「はは、はあ、はあ、はあ、ん?」
呼吸を整えている丈一郎の目には
「調子よさそうじゃないか」
「調整ばっちり、という感じですね」
「釘宮さん! 葵ちゃんも!」
会場にそぐわぬ美しい女性二人の姿が瞳に映る。
「うん、おかげさまでね」
丈一郎は応えた。
「今日は行ける気がするんだ」
軽々としたステップ、空を裂くワンツー、一挙手一投足に力がみなぎる。
加えてクラスメートの、しかも美しい少女達が自分を応援してくれる、男として張り切らないわけにはいかなかった。
「お相手はどなたなのですか?」
葵が訊ねると
「んーとね、西山大付属の一年生だよ」
ポケットにしまっていた対戦表に目を通し、奈緒は答えた。
「西山大付属か……」
桃は腕を組みながら、あごに手を当てて考え込んだ。
「スポーツの名門校じゃないか」
「まあ、そうそう簡単にいかないと思うけどね」
しかし、奈緒は胸を張って言った。
「大丈夫! マー坊君の教えたとおりにやれば絶対勝てるよ!」
真央とともに汗を流し、時には文字通り血をにじませながら努力する丈一郎の姿を、最もその近くで見てきたのは桃でもなく葵でもない。
それは奈緒だ。
真央のコーチ以前にも、自分のある意味ではわがままに、一番真剣に付き合ってくれたのは、奈緒から見てすらちょっとかわいらしい顔をした、年上には見えない男の子だった。
しかし、一年に及ぶ基礎練習、そしてわずか二週間ばかりではあったが、真央との猛特訓を経て、確実にその印象は変わっていった。
真央も認めるほど未、立派な男の顔に変わっている、奈緒はそう考えた。
「勝つのは絶対、わたしたち聖エウセビオだから!」
それから十数分後
「よっしゃ、そろそろ召集だ。入場すんぞ」
真央は丈一郎に会場入りを促した。
「リング下から見てっから、しっかりな」
「うん。玉砕覚悟でがんばるよ」
丈一郎は大げさにガッツポーズを作って見せた。
「ぎゃはははは、相変わらずな奴だ」
そういって今度はパンチングミットで丈一郎の頭を小突いた。
「気負うんじゃねーよ。リラックスしていけ」
体育館内部へと続く通路で出番を待つ丈一郎。
その後ろに控える真央と奈緒。
トン、トントンッ、何度も確認するようにフットワークを踏み、小刻みに両手を動かす。
程よい具合に体の力が抜けているのが確認できた。
“続きまして、フライ級第4試合を行います。出場者はリングに上がってください”
バンッ
「よっしゃ、行ってこい! 」
真央が丈一郎の背中を叩いた。
「しっかりセコンドしてやるからな、つってもアドバイスは出来ねーみてーだから、コーナーの時にな」
アマチュアボクシングでは、競技中にセコンドが声をかけることは禁止されている。
ゆえにセコンドとしてアドバイスが許されるのは、インターバルのその合間合間だけだ。
しかし、それゆえにこそ無言の声援、ただ存在するのみのものが頼もしく思えることもある。
「川西君、落ち着いていけば大丈夫!」
「リングサイドから、しっかり応援しますからね」
桃と葵、二人はリングサイドに設置されたパイプ椅子から丈一郎に声をかけた。
その声を聞くと丈一郎は一度大きく深呼吸をし
「がんばるよ」
淡々と答えた。
しかしこころの中は、勝利へ向けての高鳴りを抑えきれないほどだった。
ボクシングシューズの裏を拭くと、青コーナーよりリングインした。
その様子を見た桃は立ち上がり
「リラックスだぞ、忘れちゃだめだよ」
拳を作って笑って見せた。
“赤コーナー、西山大付属、杉浦選手”
アナウンスを受け、杉浦は四方に深々と礼をする。
「西山大学といえば、スポーツで有名でしたね」
リングサイドのパイプ椅子に座った葵が桃に訊ねる。
「野球でもサッカーでも、たくさんのプロ選手を輩出しているとか」
そういうと赤コーナーに目をやる。
コーナー付近に、西山大学付属のジャージーを着た人だかりが見えた。
その目つきとその雰囲気、葵はとても自分と同年代の男性とは思えなかった。
少し肌寒い思いがした。
「? どういうことでしょうか」
ふとあることに気が付く。
「西山大付属のコーナーで選手に指示している方がいらっしゃいますね。西山大学付属のウェアーを着ていらっしゃいますが、コーチなのでしょうか」
「多分ね」
西山大学には体育学部が存在し、付属校のボクシング部部員の多くはその学部に進学する。
「西山大付属は大学生がコーチを兼任しているってこと聞いたことがある」
そのため、指導理論を実践させるという意味で、西山大学付属の部活動には多くの大学生が学生コーチとして帯同するのだ。
「西山大への進学が決定してる高校三年生なのかもな」
続いて丈一郎を紹介するアナウンスが響く。
“青コーナー、聖エウセビオ、川西選手”
「はい!」
選手紹介に元気よく答え、同じく頭を下げる。
「両選手、中央へ」
レフェリーが両者をリング中央へと招集する。
「親善試合であるということを忘れず、スポーツマンシップにのっとり、正々堂々と試合をすること。わかったね?」
「はい!」
「しゃす!」
ともに始めての対外試合、初々しくも気合こもった声が会場に響いた。
両者はそれぞれのグローブを合わせる。
ばんっ!
「「おねがいします!」」
挨拶の後、両者はそれぞれのコーナーへと戻った。
青コーナー、聖エウセビオ側のコーナーでは、真剣な表情の真央の姿。
「いいか、今までスパーリングパートナーは俺だったから、リーチの面ではだいぶ楽になる。だからパンチをかいくぐることもだいぶ楽になるはずだ。とにかくお前は前に前に出ろ。わかったな?」
アドバイスの許されたわずかな時間にも、あえてかける言葉を探そうとはしなかった。
普段通りにやれば間違いなく勝てる、そう確信しているからだ。
「了解」
丈一郎が応える。
「よし、落ち着いてる見てーだな」
ニヤリ、真央が笑った。
淡々としたその姿に、満ち溢れる自信を感じ取った。
「セコンドアウト」
試合開始を告げるレフェリーの促し。
「丈一郎君、ファイト!」
奈緒はそういうと丈一郎の口にマウスピースをねじ込んだ。
「ぅぐん」
丈一郎は頷いた。




