3.22(土)23:10
「眠れないのか?」
その声の響く方向を見上げる真央。
下宿している一階のベランダ、そこに背をかけて一人夜空を見上げている中、その真央の声をかけたのは
「桃ちゃん」
「君らしくもないじゃないか、こんなところで」
桃は二階のベランダにもたれかかり、くすくすと笑いながら真央に話しかけた。
その表情は、今までに見たことがないほどにリラックスしたものだった。
「ねえ、一体何をしているんだい?」
「ん? そ、そうか?」
その桃の表情に、今まで見たことのないその柔らかさに、真央は少し心の高鳴りを覚えた。
今まで見た着た桃の表情は、凛々しいばかりの横顔や怒りに震える後姿ばかりであった。
これほど穏やかな表情の桃を見たのは初めてかもしれない、その感覚が、真央を不思議な高揚へと導いたのかもしれない。
「いやまあ、そうかもな」
それゆえ、いつも強がりばかり言う真央のこころの緊張を解き放ち、いつになくその内面を素直にさらけ出させた。
そう言えば、この少女と完全に二人きりの空間で話したのはこれが初めてかもしれないな、真央はそう考えた。
「つぅか、桃ちゃんこそ何やってんだよ」
真央も、この男には珍しい、笑いではなく微笑みでその言葉を返した。
「あたし? あたしは、さ……なんだか、今日が終わるのがもったいない気がしたんだ」
強く暖かい風が吹き、桃の艶やかな後ろ髪をくすぐる。
ふと目を閉じれば、うなじにくすぐったさと春の風を感じ取る。
こんな夜があったんだ、桃はその春の息吹伝える夜風を全身で感じ取った。
「今日もあれだけ動いたっていうのに、疲れてはいないのか?」
そのそよ風のように、暖かいトーンで真央に訊ねた。
その暖かいトーンは、そのまま真央に伝わった。
桃の暖かさは、ゆったりとした空気となり真央の周囲を包む。
「そうだな。疲れたからこそ眠れねーのかもしれねーな」
「そっか」
そう言うと、桃は再び口を閉じ、そして瞳を閉じて春風の中に佇んだ。
この暖かさ、いつか感じたことがある。
アメリカにいたときだろうか、それとも日本に帰ってきてからであろうか。
いつの日かはわからない。
しかし、いつしか感じていた風の匂いだ。
その桃の姿に、真央は釘づけになった。
何か目の前で、神々しい何かがその姿を現した、そんな気持ちを抱いた。
風にはためくような髪、ほっそりとした首筋、そして何よりも形の整った輪郭と顔のパーツ。
普段は憎まれ口ばかり叩きあい、時には自分の右ほおに巨大なあざを作るような女性、その女性が今日はこれほどまでに美しく見える。
真央は今初めて、この少女に女性としての美を感じ取った。
奈緒のもつ可愛らしさ、そして葵の持つ清楚さとは違う、気高く凛々しい、自立した強さを持つ美しさを感じ取った。
「ん?」
ふと下を見れば、じっと自分自身を注視する少年の姿が。
二人の視線は、交錯した。
あの日、初めて会った日。
あの駅で、そしてあの路上で。
あの時の火花を散らすような瞬間が、今はお互いの視線は柔らかく、一つになって絡みつくようだ。
二人は、やはりその視線を外すことができなくなった。
「あ、ん、っと」
その視線に耐えきれず、しどろもどろになりながら外したのは真央だった。
自分自身の顔が紅潮しているのがわかった。
「あっと、ありがとな……」
これ以上二階を見上げることができず、うつむいたまま、ごまかすように言った。
「あのさ」
一方の桃は、まるで動じるそぶりも見せずに話しかけた。
「そんなにうつむいてちゃ、何を言っているかわからないよ。ねえ、ちゃんとこっちを見て話して」
その様子は、まるで母親が子どもに教え諭すようにも聞こえた。
何かを見透かされたように感じた真央は、強がるように堂々と胸を張り、きっとその瞳を見つめて言った。
「ありがとな、桃ちゃん」
相変わらずにこにことした様子で、桃はその言葉に耳を傾けた。
「何が?」
「この二週間、俺見てーな奴こんなに立派な家に泊めてくれて、さ」
その笑顔に少し気も緩んだのか、真央は今度は素直にそのこころの内を明かした。
「それだけじゃねえ。俺ずっとじーさんと二人暮らしだったしさ、それに学校だってまともに言ってなかったし。家族とか友達とか、そういうの今までいた時なかったんだよな」
真央のこころに、故郷での日々が思い浮かんだ。
母を失った日、父を失った日、そして友人たちと別れた日。
自分にとって、それは当たり前の、ごく日常の光景だった。
そんな中で、たった一人、強くあろうとして生きてきた。
そしてそれをすべて捨て去り、一人の男として生きていく、そのためにこの東京へと出てきたのだ。
しかし。この釘宮家に居候することによって、その当たり前のことが当たり前ではなくなて言ったことを、真央は自覚していた。
「なんか俺、桃ちゃんの家に居候するようになってから、毎日すげー楽しいんだ。もし俺も東京に生まれて、普通の家に育って、普通に桃ちゃんたちと同じ学校通ってたら、どんな人生だったんだろうなあって、考えたりしてさ」
春の夜風のせいだろうか、いや、桃のほほえみのせいだろうか、真央の心はいつになくセンチメンタリズムに否応なくとらわれていた。
しかし、それは心地よくもあった。
真央は続けた。
「短い間だったけどさ、本当に俺、桃ちゃんたちに会えて幸せだったよ」
「そうか。でもね」
桃は、静かに答えた。
「あたしも、実は君に感謝している。君のおかげで、本当の意味で葵と仲良くなれた。それに、丈一郎君の精いっぱいの姿を見ることができた。それに何よりも、奈緒のこころからの嬉しそうな姿、本当に久しぶりに見ることができたから」
「桃ちゃん……」
その言葉に、真央は真っ直ぐに耳を傾けた。
「君には悪いことをしたね。もちろん、会ったばかりのあの事件の事もだけど」
急に強い風が吹いた。
桃は静かに髪の毛を抑えた。
「ボクシングの事悪くいっちゃって。君のことを言ったつもりはなかったんだけどね。だけど、やっぱりまだちょっとボクシングに対しては抵抗があるかな」
そう言って真央を見た。
「怒った?」
「気にしてねえよ」
真央は苦笑した。
「人それぞれ、だろそんなもん」
その言葉を聞くと
「そう言うと思った。君ならね」
と小さく笑った。
「だけどね、あの日、ボクサーとしての君を認める、と言った言葉に嘘はないよ。それにね、少しずつ、ボクシングを好きになって来たのかもしれない。少なくとも川西君と、それに君を通して」
その言葉を聞くと、真央も同じくにい、っと笑い
「そう言うと思ったよ。桃ちゃんならな」
そっくりそのまま言葉を返した。
「出ていくのか? 全部終わったら」
あの穏やかな表情で、桃は訊ねた。
「ああ」
事もなげに真央は答えた。
「そうか。寂しくなるな」
遠くに見える、都心の夜景に目を移しながら桃は答えた。
「でもね、君がもし住むところが見つかっても、今日みたいにこころが満たされない時があったら、いつでも顔を出してくれればいいよ。奈緒も、葵も川西君も、きっと待ってるから」
しばらくその様子を眺めていた真央は
「桃ちゃんはどうなんだ?」
と笑いながら聞いた。
すると桃はふっ、と笑い
「君が今、まさに考えていること、それが答えだよ」
と返した。
「そっか」
そう言うと真央は頭をわしわしとかきむしった。
「そいつは嬉しいな」
その真央の答えに、桃はとびきりの笑顔で答えた。
同じく真央も、この少年らしいニヤリとした笑顔を返した。




