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    3.15(土)20:05

 五人がケーキとコーヒーで緊張を和らげた頃、テレビ画面の中ではすでに一人の拳闘士がリングへと上がっていた。

 色味の強い褐色の肌と精悍な顔つき、そして長いリーチ、何よりもその若さと自信が体中にみなぎっていた。




「青コーナーの人が挑戦者ですね」

 葵が画面を指差して言った。

「ビヌワ・ブウェンゲ選手、コンゴのボクサーですね」

 その下にかかれた英語の文字を、葵は読み上げた。


「25歳にして26戦全勝、KO率8割か」

 同じく丈一郎も、その戦跡を読み上げる。

「スーパーウェルター級での記録だとしても、相当なハードパンチャーだってことは間違いないね」


「何より若い」

 短く、そしてストレートな言葉を真央は口にした。

「あのおっさんを倒せるとすれば、あるいはこういう若くて勢いのあるハードパンチャーなのかも知れねー」


 葵はその言葉を聞くとじっ、と真央を眺めた。


 真央は再び無言でテレビ画面を注視していた。


「あ、いよいよチャンピオンの入場だよ!」

 興奮を隠そうとせず、奈緒が言った。

「この入場シーンね、すっごくカッコいいんだよー」



 

 重厚なギターサウンドがNGNグランデ・ガーデン・アリーナに響く。

  先導するトスカネリ兄弟の肩に手をかけ、金色のガウンに身を包んだ男が悠然とその歩みを進める。

 その姿は、さながら十字架を運ぶキリストのようだ。

 会場の観客たちは息を潜めてその様子を見つめる。

 まるで爆発を待つ休火山のように。

“One day while I was searching For what I’ll never find……”


 ドォッ


 “まちかねたぜ!”とでも言わんばかりに、地鳴りのような歓声が会場に響き渡る。




「けっ」

 真央は小さく舌打ちをした。

「レニー・クラヴィッツの『サーカス』かよ。おっさんがすかしやがって」




“Welcome to the picture show Watching your life……”

 ガウンの影で見ることができなかったその顔が、強烈なライトに照らされ徐々に明るみになる。

 浅黒いチョコレート色の肌、ねめつけるような鋭い眼光、極度に純度を高められたマチズモを象徴する口髭。

 この姿を見て、この世の誰一人として彼を弱い存在であると思うことはできないであろう。

 生ける伝説、世界のミドル級のリングを統べる絶対者、フリオ・ハグラーその人だ。

 フリオはゆっくりとリングに上がり、悠然と音楽に身をゆだねる。

 会場のボルテージはさらに上がっていく。


 観客は知っていっる。

 これから始まる、チャンピオンの一挙手一投足が、自分たちを興奮と悦楽と、そしてサディズムとマゾヒズムを複雑に混合させた表現できない衝動を完全に満たすべき何かを示してくれることを。


“What kind of circus is this ? What kind of fools are we ?”

 切り裂くようなギターサウンドにあわせ、おもむろにガウンを跳ね上げる。

 スキンヘッドとその肉体を勝ち誇ったように観衆にさらした。


 会場は一気に爆発した。

 フリオ・ハグラーという男は、この世界で、現在数少ないカリスマ性を備えたボクサーだ。

 そのカリスマをいかに演出するか、そしてどのように持ちうるべきか、それを長いキャリアの中で完全に実につけている。

 挑戦者の勇敢さや若さという美点は、この男の作り出した空間のなかで、いともかんたんに無謀さと未熟さに堕落させられていく。

 この会場、この空間を、まさしく現代に受肉した救世主として支配し、あらゆるものをそのコントロール下においたのだ。



 

「すごい……」

 桃は思わず息を呑んだ。

「本当にこれが40前の男性の肉体か?」




“When is the final curtain ?  What can I do to set me free ?”




「当たり前かもしれませんが、本当に一切の無駄な脂肪がありませんね」

ボクシング観戦初心者の葵ですら驚嘆の声を上げた。


「脂肪がないだけじゃないよ。ほら、ここ見て」

 桃はテレビ画面の前に立ち、画面上のフリオの背中を指で示した。

「ほら、円卓のような広背筋と小高い丘のような僧帽筋と広背筋。若い挑戦者と比べても明らかに上回っているよ」


「さすが桃ちゃん、スポーツトレーナー志望なだけはあるねー」

 奈緒はぱちぱちと手を叩いて言った。

「そうなんだよ。パンチ力だけなら、今すぐにでもライトヘビー級のチャンピオンになれるくらい強い、って言われてるんだよ」


「えっと確か、フリオ・ハグラーは身長180センチ。今のミドル級の選手の中では、それほど大きくなかったはずだよ」

 奈緒は指で両者の身長を比較した。

「身長では挑戦者のほうが3センチくらい高いくらいだし」

 なるほど、確かに身長では挑戦者の方がわずかに上回っているようにも見える。


「身長は問題じゃねー」

 真央は立ち上がるとファイティングポーズをとった。

「このおっさん、足がやたら長く胴は短い体型だから、構えただけで頭から胴体、完全にカバーすることができるんだ」

 そう言って、くいくいとひじを上げ下げして見せた。


「生まれながらのボクサー体型、ってことですね」

 葵がその意を汲んで言った。


「ああ」

 再びソファーに腰を下ろしながら真央は頷いた。

「リーチだってライトヘビー級並みだ。その長いリーチはディフェンス、オフェンス共に、あのあっさんのボクシングの最大の利点なんだよ」




 リングアナウンサーにより両者の紹介が終えられ、リング中央で両者が向かい合う。

 視線で殺せるものならばいつでも殺せる、とでもいいたげな挑戦者に対し、その視線を真っ向から受け止め、一歩も引かないチャンピオン。

 会場内のボルテージは嫌が応にも高まっていった。




「フリオ選手は左利き、サウスポーなのですね」

 悠然とシャドウをするチャンピオンを見て葵が訊ねる。


「いや」

 真央が口を挟んだ。

「あのおっさんは、もともとは右利きだ。コンバーテッドのサウスポーなんだ」


「どうしてわざわざサウスポーにしたのですか?」

 当然の疑問をぶつける葵。


「まずは、自分の利き腕の右手を前構えにすれば、それだけ強いパンチが繰り出されるってことかな」

 丈一郎は構えを作り、葵に説明した。

「それに、野球とかもそうだけど、やっぱりオーソドックススタイルの人の方が多いからね。サウスポーの方が、相手にとってはやりにくいってのもあるし」


「けどよ、弱点もあんだぜ」

 そういうと真央は立ち上がり

「丈一郎、そのまま立ってみろ」


「? う、うん」


 そして真央はオーソドックススタイルで丈一郎の前に立つと、パシッ、左手のひらで軽く丈一郎のわき腹を叩く。


「おふうっ!」

 軽く叩かれたにもかかわらず、丈一郎は体を右に捻らせた。


「な? わかったろ」

 そういうと真央も右手で自分の右背中を叩いた。

「ボディーで一番の急所ともいえるレバーを相手にそのまんまさらけ出すことになるんだ」


「あいててて……」

 丈一郎はわき腹を押さえながら

「そっか、相手は前に構えた左手で、レバーを狙い放題、ってことか」


「そういうことだ」

 真央は再びソファーに座った。

「俺だってレバーまともに打たれたら耐えらんねえよ。だけどよ、あのおっさんはボディーに絶対の自身もってっからな。それに、とにかく攻撃的なボクシングをしたいんだろうよ」




 カァン


 リングが打ち鳴らされ、第一ラウンドが開始される。

「ん?」

 丈一郎は驚愕した。


 丈一郎だけではない。


 誰も想定していなかった出来事が起こった。


「序盤から?」

 と奈緒。




 いつもは上下にゆれるフットワークから定石どおりのジャブでゆったりとリズムを作るはずのチャンピオン。

 しかし




「いきなり?」

 丈一郎が凝視するモニターの中で、左右の強烈な連打を挑戦者に叩き込む。




 それに応じるように、“マンイーター”の名にふさわしい強打を打ち返す挑戦者。

 リング中央で二人は足を止めて打ち合いを始めた。


  そして会場の観客たちも動揺した。

 いつもならば横綱相撲のように、相手の出方を伺い、そしてそれを受け止めていくのが本来のフリオのスタイルだ。

 長年フリオを見てきたボクシングファンならばなおさらだ。

 そのフリオが、チャンピオンが四回戦ボーイのようにしゃにむに挑戦者に突進していく。

 目の前で起きていることが信じられない、しかし、本気の打ち合いを挑んでいくチャンピオンの姿を目の当たりにしている。

 もはやそれは歓声ではなかった。

 観客が寡黙なチャンピオンに代わって発する雄たけびだ。




「こんなフリオ見るの、わたしはじめてかも」

 奈緒はあっけに取られて言った。


「本物の殴り合い、喧嘩みたいだな」

 桃も目を見張った。

「だけど、こういうのって若い挑戦者に有利な展開なんじゃないのか?」


「だからじゃねーかな」

 真剣なまなざしで画面を凝視する真央。


「というと?」

 葵が聞き返す。


「自分は今でもこういう喧嘩マッチができるんだ、若さの付け入る隙なんてなーんだ、その事実を世界中のボクサーたちに知らしめようって魂胆じゃねーのかな」




 第二ラウンドに入っても二人の打ち合いは続く。




「あっ!」

 奈緒が叫び声をあげる。




 挑戦者の強烈な右アッパーがチャンピオンの顎を捕らえた。

 しかし




「効いてないのですか?」




 一瞬不敵な笑みを浮かべたようにも見えたチャンピオンは、それにまったく動じることなく左フックを返す。




「タフネスだったら、フリオ・ハグラーは折り紙つきだよ」

 丈一郎が解説を加える。

「おそらく、現役のボクサーの中で最高のタフネスを持っているって言われてる」




 第六ラウンドに突入する頃、次第に変化が見られるようになった。




「何か、挑戦者の手数減ってないか?」

 桃がその事実を指摘した。


「そういえば」

 その言葉を受け、奈緒もその違いを見極めようとした。

「確かにそうかも」


 葵もうなずく。

「それだけではありませんね。徐々に挑戦者が後退していっているのがわかります」

 

「若い挑戦者の勢いを、それ以上の勢いでフリオが押し返してるってことか」

 試合の熱気に、知らず知らずのうちに呼吸も忘れていたのだろう、丈一郎が息苦しそうに声を上げた。

 



 チャンピオンは前に構えた右腕に体が引っ張られるように体重を移動させ、全体重をこめて右腕を振るった。




「きゃっ!」

 葵が再び悲鳴にも似た声を上げた。



 バキィッ!

 チャンピオンのジョルト気味の右フックが挑戦者の“アンダー・ジ・イヤー”を捕らえた。

 挑戦者は三半規管をしたたかに強打し、酩酊したかのように体をくねらせる。

 熱狂的な観客たちの声援が爆発したように響き渡る。


「これは……」

 桃はそれ以上の言葉を口にすることができない。




 しかし、それでは終わらなかった。

 バキッッ!!

 まったく同じ軌道の右フックが、今度は挑戦者のこめかみに突き刺さる。

 さらに

 バキィッ!!!




「右フック三連打かよ」

 真央は眉をひそめた。

「さすがにえげつねーだろ」




 右フックの三連打を食らった挑戦者はそのまま前のめりに、紙きれがへたり込むようにマットに沈んだ。

 もはや誰の眼にも挑戦者が立ち上がることは不可能だった。

 あわててドクターを呼ぶレフェリー。

 そしてその挑戦者を、感情を何一つ表すことなく上から眺めるチャンピオン。

  観客たちが今にもリングになだれ込まんばかりの熱狂を見せていたテレビ画面とは裏腹に、釘宮家のリビングルームでは五人の少年少女が無言のままテレビ画面を見つめていた。

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