3.15(土)19:45
あまりの光景に葵は息をのんだ。
一言も発することが出来なかった
いや、葵だけではない。
奈緒も丈一郎も、その凄惨な結末に一言もなくなってしまった。
「……この方……」
目を潤ませながら、葵は訊ねた。
「この方、どうなっちゃったんですか?」
「……いったじゃねーか」
真央が口を開く。
「終わったんだって」
「え?」
その言葉の意味を、葵は理解できなかった。
いや、理解できなかったというより、理解したくなかった、といってよい。
「その後の話なんだけど」
言うべきかいわざるべきか、しばしの逡巡ののち奈緒が口を開く。
「その後さ、ブンブーン相葉は完全な昏睡状態に陥ったんだ。それで——」
「——病院に直行して、そのまま病院で息を引き取っちゃったんだって」
丈一郎の言葉が、奈緒の言葉を引き継いだ。
「……」
葵は顔をしかめ、口を両手で覆った。
その様子は、こみ上げてくる嫌悪感を何とか押しとどめようとするものであった。
ボクシングがハードなスポーツであることは知っていた。
しかし、これほどに凄惨な試合がありうるとは。
葵は先ほどの試合の様子が頭から離れなくなってしまった。
そして丈一郎は続けた。
「その後なんだけど、記者会見で、“ミスター・アイバには子供がいたと聞きます。その子にかける言葉はありませんか?”って聞かれたんだって」
「それで、フリオ選手はどのように答えられたのですか?」
必死でこみ上げる思いを抑えながら、葵は訊ねた。
「“自分の実の父親が戦い、そして死ぬところを見ることができたんだ。それ以上幸せなことがあるか?”だとよ」
表情一つ変えることなく、真央がつぶやいた。
「ひどい」
葵は顔をしかめ、憤慨したような表情を見せる。
「ちょっとひどいんじゃないですか、その言葉」
先ほどの嫌悪感が、怒りとなって一気に噴出した。
丈一郎もうなずきながら
「僕はフリオを尊敬してるけど、この発言を聞くたびに嫌な気持ちになるよ」
両手で顔を覆い、丈一郎は言った。
「リングの上だからって、人が一人死んでいるんだ。しかもこれはブンブーン相葉の子供に対しての言葉だもん。本当に気分が悪くなるよ」
そして真央のほうを振り向き
「ね? 釘宮さんもそう思わない?」
「……そう、だね……」
それまで一言も発することの無かった桃がようやく声を発した。
一言も発することなく、ただ四人の言葉を聞くのみ。
葵と丈一郎、真央、そして奈緒の顔を見ることもなく。
その顔は何かを言いたいようにも見えたが、その一方で何も聞きたくない、そのようにも見えた。
『このリング禍が重荷になったのか、スーパーウェルター級に転向後、ノンタイトル戦でまさかの連敗が続き、引退までもが噂に上がるようになる』
「あんな発言はしたけれど、やっぱり動揺していたのでしょうね」
再び画面に目を移した葵が言った。
「でもね、それでもやっぱりフリオ・ハグラーってすごい人なんだよ」
奈緒は珍しく、真剣な表情でいった。
「ここからがね、本当にすごいの」
『しかし翌年、前年度までの停滞が嘘のように怒涛の5試合連続KO勝利にはじまり』
モニターには、またもや咆哮とともに両手を上げるフリオ・ハグラーの荒々しい姿が。
『その年のクリスマスの日にWBCスーパーウェルター級王者、イタリアのアレッサンドロ・スカルピの王座に挑戦、1ラウンドKOで二階級制覇を達成し、不死鳥のように復活した』
「……すごい、ですね……」
その怒涛の快進撃、KOシーンを目にし、再び開いた葵の口から漏れたのは、驚嘆の声だった。
「なんだか、いっそう強くなっているみたいですね」
「そうなんだよね」
葵のほうを振り向きもせず、しみじみと丈一郎は言った。
「完全無敗の王者じゃなくて結構負けてるんだ。だけど、必ずリターンマッチでリベンジしてるんだ」
「あのおっさんはよ」
真央はコーヒーを再び口に含んだ。
『4度にわたる防衛戦に成功後、WBAスーパーウェルター級王者ホセ・カスティージョとの統一選を結構。11ラウンドKOで勝利、統一王者となり、さらにジョン・ジョハネスバーグを7ラウンドKOで倒した』
「ただのチャンピオンじゃねえ。敗北を知ってるチャンピオンなんだ」
真央の声が、静かに低く響いた。
『スーパーウェルター級の王座を返上、ミドル級へと階級への転向を宣言。そしてWBCミドル級王者ウィリアム・ゴードンの王座に挑戦、勝利し三階級制覇を達成した』
そこにはトレーナー、リッキー・トスカネリに肩車されるフリオの姿があった。
『その後WBAミドル級王者ウォーレン・スミスとの間に統一戦、華麗なアウトボックスで有効打を重ねるスウィートなスミスの策にはまり12ラウンド判定負け、初の王者陥落という屈辱を味わう』
「たった一回の敗北が、どんな天才ボクサーをもそこら辺の四回戦ボクサーに変えちまうことだってある。あのおっさんはそのすべてを乗り越えてきたんだよ」
『再起戦に連勝を重ね、ウォーレン・スミスと再戦。9ラウンドでスミスをとらえ、右フックでダウンを奪い12ラウンド判定で統一王者に返り咲いた。こうして絶対王者は誕生した』
「ふわー」
奈緒がため息をついた。
「いつみてもほんと、戦歴がすごすぎて何にも言えなくなちゃうねー」
「本当ですね」
さっきまでの怒りもどこへやら、負けても不屈の闘志で立ち上がるフリオに、葵は感動すら覚えた。
「本当にこの人を倒せる人が出てくるんでしょうか」
「そう言えば、マー坊君はフリオ・ハグラーと世界戦やるのが夢なんだよね?」
丈一郎は興奮した様子で真央に訊ねた。
「……」
「……マー坊君?」
丈一郎の問いかけに全く反応せず、真央はテレビ画面を注視している。
「真央君、どうしたんですか?」
その様子に気づいた葵が真央の肩を掴み揺さぶる。
「あ、ああ。わりぃ」
ようやく真央は反応を見せた。
「いややっぱスゲーわこのおっさん。パンチもテクも、タフさも精神力も、全く付け入るスキが見当たんねー」
「マー坊君の言う通りだよ」
丈一郎はうなずきながら言う。
「負けを知っている最強王者、それこそがフリオ・ハグラーというボクサーなんだ」
ぴぃんと、空気が張り付く。
その場にいるすべての人間が、フリオ・ハグラーというボクサーに魅了されていた。
「なあ、コーヒーもっと飲まねーか?」
張りつめた空気を和らげようと真央が口を開いた。
「そうだね。ちょっと疲れちゃったね」
丈一郎が首に手を当てていった。
「そうだ、せっかくだからさー、二人のお土産あけよーよ」
そう言うと奈緒はキッチンへ駆け込んだ。
「まったく、あんたは子どもみたいに」
呆れた様子の桃。
「えへへへへー」
笑いながらも手早くソーサーとフォークをセットし、手土産のロールケーキをその上に乗せた。
奈緒の笑顔は、張り詰めた空気を一気にやわらげた。




