3.15(土)19:20
『その快進撃は大物プロモーターのロバート・ホフマンの目に留まり自身初めての大型契約を結ぶに至った』
桃があらためてテレビ画面に目を移すと、そこにはロバート・ホフマンとがっちり手を組み、白い歯を見せて笑う若き日のフリオの姿があった。
まだアフロヘアーをそり上げる前のフリオと、徐々にプロモーターとしての手腕を認められはじめたホフマンのその顔は、どこかよそよそしく、張り付いたもののようにも見えた。
「プロモーター?」
ボクシング観戦初心者を置いてけぼりにするような説明に、葵はたまらず質問した。
「この方は、どのような方なんですか?」
「なんていうか、マッチメイク、試合を組んでプロモーションを行う人だよ」
丈一郎は丁寧に説明した。
「世界三大プロモーターの一人でね、この人に認められたら、スター街道驀進間違いなし! それくらい有名な人なんだ」
『その後、判定に苦しみ初の敗北を喫するものの、アーサー・オコンネルの持つNABF北米ウェルター級王座に挑戦、10ラウンドKOにより初の王座獲得、戦績を重ね7度の防衛を達成した』
両手を上げ、咆哮するフリオの荒々しい姿が静止画で映し出された。
『そしてついにWBA世界王者ファーニー・グラコスに挑戦、3ラウンドKOで完全勝利。ウェルター級において初めて世界タイトルを手にした。その後、アーサー・オコンネルとの再戦を含め4度の防衛戦にすべてKO勝利。一躍世界にその名をとどろかせた』
『さらに翌年、WBCチャンピオン、ヴィターゼ・イリイチとの統一戦に8ラウンドKOで勝利、統一王者となった』
「世界にはね、たくさんのチャンピオン認定団体があるの。その中で、二つ以上の団体のベルトを手にしたら、統一王者、ってよばれるんだー」
今度は奈緒が葵の質問を待つことなく、先回りするように答えた。
「その中でも、主要4団体っていうのがあって、そのベルトが最も価値があるベルトってされているんだ」
奈緒の後を受けて、丈一郎が続ける。
「さっき出てきたWBAとWBC、そのほかにWBOとIBF、この4団体以外のベルトは全部マイナータイトル扱いなんだ。ようするに、価値のないベルト、って見做されるんだ」
「複雑なのですね」
葵はそう言うと再びテレビに目をやった。
『その後、フリオを悲劇が襲う』
急に番組のトーンが代わった。
「悲劇?」
葵が言った。
「悲劇って、いったい何ですか」
その問いかけに、今度は誰も答えようとしなかった。
その様子に、葵はただならぬものを感じ、再びテレビを注視した。
『2度の防衛戦に成功後、スーパーウェルター級への転向と二階級制覇を表明。ホフマンの画策するアジアにおけるPPV獲得とボクシング人気の拡大のため、その矛先は日本へと向けられる。そしてその白羽の矢が立ったのが、“後楽園に神を見た男”ブンブーン相葉だった』
その後、テレビ画面には日本人ボクサーブンブーン相葉が、初めての東洋太平洋ベルトに挑む試合が放映されていた。
「この方は、日本人とも試合をしたことがあったのですね」
その姿はボクシング観戦未経験者の葵にとってすら不恰好なものであった。
しかし、日本ボクシングの聖地後楽園ホールで、何度もダウンを喫しながらも一歩も後退することなく拳を振るい続け、そして奇跡のナックアウト勝利の瞬間が映し出された瞬間
「わっ」
葵は小さく声を上げた。
神がかった相葉の勝利に沸き立つホールの様子が、やや大げさな煽り文句とともに映し出されていた。
「この方もすごいですね。この方とフリオ・ハグラー選手が戦ったのですね」
「……ああ」
再び真央が口を開いた。
「……ブンブーン相葉こそが日本人唯一の対戦者だ」
そう言うと思い出したようにコーヒーを口に含む。
「……今のところ、な」
その後、日本の東京ドームで行われた、フリオ・ハグラーとブンブーン相葉との世界タイトルマッチの様子が放映された。
『圧倒的な技術と存在感で異国の地をホームグランドにしたフリオ。しかし相葉の決死の特攻はフリオのコンピューターを突き崩し――』
そこには大ぶりのフックを振り回すブンブーン相葉の姿が。
そして、そのパンチを裁ききれずに、左のフックをまともに顎に被弾するフリオの姿が大写しに、スローモーションとともに映し出された。
『7ラウンド、フリオはプロ転向後初めてのダウンを喫することになる』
「すごいじゃないですか! この方、初めてフリオ選手をダウンさせましたよ!」
興奮して声を上げる葵だったが
「……これで終わりだよ」
ぼそり、真央はまたしても淡々とした様子で言った。
「え?」
葵が聞き返す。
「言ったろ?」
そして顎でテレビ画面を指示した。
「終わったんだ。何もかも、これで」
『相葉の果敢な連打に本来の自己のスタイルである喧嘩マッチで相葉に挑む』
そこには、悪魔のような表情で、にやりと笑うフリオの笑い顔が大写しになていた。
『そして最終12ラウンドまでに二度のダウンを奪う』
フリオの右フック、そして右アッパーが、相葉の首を引きちぎらんばかりにしたたかに打ち込まれる様子が、スローモーションとともに映し出されている。
それでも、ダウンを奪われながらも立ち上がるブンブーン相葉の姿があったが、その姿はもはや生きている人間のそれとは似ても似つかぬものに見えた。
「え? これ、この方、危なくないですか?」
その首の回った角度の、あまりにも奇妙な様子に葵は戦慄した。
すでに何年も前に終了した試合であることも忘れ、思わず葵は叫んだ。
「というより、早く試合止めた方が――」
『しかし、ブンブーン相葉はどれだけ倒されようようとも、決して試合を諦めなかった。フリオも、その闘志を真っ向から受け止めた』
その言葉とは裏腹に、フリオの表情には恐れと怒り、そして困惑が見て取れた。
それは、このパーフェクトに近い男が始めて見せた表情だ。
フリオは完全にその意識を断ち切るために、コーナーに相葉を追い詰めた。
そして、コーナーに追い詰められた相葉には、顔面、ボディ、あらゆる場所に隙間なく20発の重い拳が浴びせかけられた。
「いやっ!」
葵は思わず顔を背けた。
奈緒は無言で顔を覆った。
丈一郎も思わず顔を背けた。
それもそのはずだ。
映し出された相葉の顔面は晴れ上がり、もはやその原形をとどめていないくらいに変形していた。
鼻は奇妙にひしゃげ、黒々とした血が顔を覆っていた。
“後楽園ホールに神を見た男”ブンブーン相葉はポストにもたれかかり、そのまま膝から崩れ落ち、その顔は真っ直ぐににマットを舐めた。
一方のフリオはまるで野獣のように興奮し、審判が、そしてトスカネリ兄弟三人がかり出なければとめることができないほどであった。
この試合でフリオは、KOともTKOともつかない勝利を手に入れた。




