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    3.15(土)18:00

 ピンポーン、釘宮家のリビングに、電子音のチャイムが響く。


 待ちかねていたという様子で奈緒が立ち上がった。

「はーい」

 奈緒はモニターに移るその顔を確認し、オートロックの電子キーを解錠する。


 ぱたぱたと長い廊下を渡り奈緒が二人を迎えに出ると、そこには朝から待ちわびた二人の笑顔があった。


「こんばんは、奈緒ちゃん」

 丈一郎が小さく頭を下げる。


「お招きありがとうございます。一応、これ二人から」

 そう言うと小さな包みを葵は差し出した。

「つまらないものですが」


「あ、ありがとー!」

 嬉しそうに奈緒はそれを受け取った。

「全然気なんか使わなくっていいのにー」


「よー、お二人さん。早く上がれよ」

 少し遅れて真央が姿を現した。

 ロング丈の白いTシャツに、ところどころ擦れた黒い学生服のズボン。

 釘宮家で暮らす真央のいたってリラックスしたスタイルだ。

「つっても俺んちじゃねーけどな」

 と、にやりと笑い、親指で奥を指し示した。


「ええ、それでは遠慮なく」

 葵は微笑みを返した。




「あ、いらっしゃい、葵。それから川西君も」

 エプロン姿の桃がキッチンから声をかけた。 

「ごめんね、本当はもっときちんとしたもの作ろうと思ったんだけど」


「桃ちゃんね、今日はお昼からずっとお料理してたんだよー」

 なおの指差す先には、銀色の大きな圧力鍋。

「桃ちゃんのビーフシチュー、すごくおいしーんだよー」

 

「褒めたってなんにも出ないぞ」

 言葉とは裏腹に、少々照れたそぶりを見せた。


 その様子を見て、くすくす笑う葵と丈一郎。


 その後五人はテーブルに座り、わいわいと桃特製のビーフシチューに舌鼓を打った。




「さー、これからが今日のメインイベントだよー」

 奈緒が全員をリビングのテレビの前に集め、腰に手をやった。

 もうすでに、興奮を隠し切れないという具合だ。


「まったく、あんたは本当に子どもだな」

 全員分のコーヒーをトレーにのせて桃が言った。


「まあまあ、これが今日のボクシング同好会の活動だから」

 すかさずフォローの丈一郎。


「まったく、二人とも子どもみたいだな」

 ふと、真央の顔を見る。

 二人同様、さぞ興奮しているかと思いきや、一言も発することなく、険しい表情でコーヒーを口にするのみだった。

「……マー坊?」

 その横顔に、桃はいつもとは違うその雰囲気を感じ取った。


 普段は底抜けに明るい少年が、なぜか小さな影を匂わせていた。

 先日、無邪気に頭を下げてボクシング観戦を頼みこんだときの表情を考えれば、それは考えられないことだった。

 この家にはじめてきた時、土下座せんばかりにボクシング中継の観戦を頼み込んだこの少年が、なぜか今日は気の進まぬ様子を見せている。


 桃は言いようのない違和感を抱いた。

 この違和感は、初めてではない。

 昨日の帰り道、桃はその違和感をすでに感じていた。

 皆で集まって、フリオ・ハグラーのタイトルマッチを見よう、といったときに見せたあの表情、そのときの表情と全く同じ表情だった。


「じゃ、いよいよ始めるよー」

 相変わらず奈緒の声は無邪気なものだった。


 プツン、ブゥン、奈緒がテレビの電源を入れると、派手な効果音が五人の耳をつんざく。




『……さあいよいよこの一時間後、フリオ・ハグラー対コンゴの英雄ビヌワ・ブウェンゲのタイトルマッチが始まります』



「いよいよだね! 僕本当に興奮しちゃうよ」

 丈一郎は拳を握りしめた。

 普段目にすることがないような興奮が感じてとれた。

 WEWWEWに加入していない丈一郎も、もはや地上波での放映がほとんどない、海外ボクシングの生中継を見るのは初めてだった。


「これからタイトルマッチ直前の特別番組が始まるみたい。“フリオ・ハグラー~その激闘の全史”だって」

 奈緒はいつも以上の興奮を見せた。


「……」

 相変わらず無表情なままの真央。

 桃は黙ってその表情を探ってみた。

 この少年は、ボクシングに対して並々ならぬ情熱を傾けている。

 そして、ボクシングに、そしてボクサーであることにプライドを持っている。

 先日見せたあの真剣そのものの表情と真摯な姿勢は、素晴らしいスキルを持つボクサーに対する尊敬の念であふれていた。

 しかし、同じ真剣な目ではあるが、それとはまた違う何かを桃は感じていた。

 

「ところで、このフリオ・ハグラーって方はすごい方なんですか?」

 という葵の質問は、ボクシングファン以外の人間であればごく当たり前のものだろう。


「「もちろん!!」」

 奈緒と丈一郎の叫び声は図らずも一致した。


 ビクッ、その剣幕に葵は少々たじろいだ。

「そ、それは……どのようにすごいのですか?」


「すごいのなんのって、もう、そのさ、なんていうか」

 珍しく、取り乱したように興奮する丈一郎。

「ああ、もう、とてもじゃないけど、一言では言えないよ!」


「そ、そういうものですか……」

 いつもは見ることの出来ない丈一郎の興奮した態度に少々圧倒された葵の視線は、あらためてテレビ画面へと釘づけになった。




『世界中でもっても過酷な階級、それがミドル級。そのミドル級において“絶対王者”“地獄の門番”“ミスター・パーフェクト”などの異名もを持つ男、それがフリオ・ハグラーである』




「どうしてミドル級はそれほどの難関とされているんですか?」

 葵は素朴な疑問を口にした。

「そもそも、ミドル級とは、一体何を指し示す指標なのですか?」


「……ボクシングってのはな、それぞれの体重の重さで階級を区分けしてるんだ。154から160パウンド、まあ大体70から73キロくらいかな」

 ようやく真央がその重い口を開いた。

「世界中の男たちにとって。それが最も人口の多い体重なんだ」


「ミドル……ということは、一番真ん中の階級のですか?」

 体重での区分ということから、葵はミドル級のイメージを掴み取ろうとしたが


「と思うでしょ? 実は、ヘビー級を頂点として上から五番目に重い階級なんだ」

 その疑問に答えたのは丈一郎だった。

「だけどアジア人にとってはかなり重い部類に入る。世界的に最も層の厚い階級でありながら日本人にとっては狭き門となっている。それがミドル級なんだ」


 その答えに、葵は釈然としないものを感じた。

「なぜミドル級なのに真ん中の重さではないのですか?」


「ボクシングの歴史の問題だ」

 と今度は真央がその質問の答えを引き受けた。

「もともとボクシングは体格無視の、無差別級で試合やったてけど、いつしか単純に“重い方”と“軽い方”に分けて試合をやるようになったんだ」


「それがもしかして、“ヘビー級”と“ライト級”という言葉の始まりですか?」

 辛うじて知っていたその言葉を口にする葵。


 こくん、真央はうなずいた。 

「そして1800年代の終わり頃に、その“真ん中”の階級として設定されたのが、文字通り“ミドル級”ってわけだ。この三つの階級は、シンプルな名称であるからこそ伝統のある階級、ってわけだ」


「そういえば、マー坊君はウェルター級なんだよね?」

 奈緒が訊ねる。

 バスルームで見た裸体が思い浮かぶ。

 少々頬が赤くなった。


「ああ。今ナチュラルで68キロくらいだから」

 それに真央が答える。

「プロとアマで多少の違いはあるけど、まあ調整して大体ウェルター級の枠にはあてはまんだろ」


 ウェルター級とは、様々な解釈がなされることが多いが、“うねり”もしくは“強打”の意味で捕らえられることが多い。

 前者の立場で言えば、ミドル級以上に多くの人口を持つ体重区分であるために、たくさんの人間が現れては消えていくイメージが、後者の立場で言えば、ライト級の速さに体重ゆえの、文字どおりミドルに匹敵する強打の持ち主が存在しているというイメージで捉えることが出来よう。


 いずれにしろ、ミドル級同様に世界最難関の階級といってよい。


「ミドル級とウェルター級とでは、どう違うのですか?」

 聞きなれない言葉を耳にした葵は、続けて質問を口にする。


「単純に体重の差だって思ってくれればいい。ウェルター級の方が軽量級に近いから、少しスピーディーに感じられるかもだけどな」

 真央が言葉を付け加えた。

「どっちにしろ、欧米人にとっては平均的な体重だけど、日本人にとってはかなり重い階級にあたるんだ。事実、ミドル級チャンプは防衛なしの1人だけ。ウェルター級にいたっては1人も出ていねえんだ」


 その話を聞くと、葵はまた首をかしげた。

「わずかな体重の違いで、それだけ差がつくものなのでしょうか」


「A good big man always beats a good little manっていう言葉があってな。必ずしもそうなるわけじゃねえけど、重い方がやっぱり有利なんだ」

 ボクシングという競技が持つ宿命を、真央は淡々と説明した。

「だから、適正な体重区分てのは、フェアな勝負を保証するためには絶対必要なんだ」


 普段の様子からは想像もつかないような言葉に、葵は意外な感じがした。

「……フェア……ですか?」


「ボクシングってのはな、同じ体重を持つもの同士が、技術、精神力を競い合ってリングに上がるんだ」

 真央は、またもや淡々と、抑揚なく言った。

 それは、何か悟り済ましたような、ある種の諦めと希望が入り乱れるようなトーンだった。

「これほどフェアな世界はねーよ。この世にな」

 

 桃はその様子を、コーヒーをすすりながら眺めていた。

 やはり今日はいつもと様子が違う。

 ボクシング観戦に、そしてこの少年にはそぐわないフェアという言葉。

 どこから来るのだろう、この違和感は。

 “違和感”、この言葉を自分で思い浮かべておきながら、桃は自分で自分のことをおかしく思った。

 他人のことをとやかく言っても仕方がないだろう、あたしだって――

 



『20歳の時、フリオは現在に至るまでパートナーシップを組むトスカネーリ兄弟のジムの門を叩き、その後プロデビューを果たし瞬く間に8戦全勝を達成した』




 画面上にはフリオの8戦すべてのKOシーンが五月雨の様に映し出されると、桃の視線は再びテレビ画面へと移った。

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