3.14(金)13:30
「……なあ、いったいこれから何をするつもりなんだ?」
真央が不安そうな声を上げた。
真央と丈一郎、そして奈緒の三人は、一旦それぞれの家に帰った後、桃の指事に従い行動した。
それは、水着を持って体育館前に集合する、ということだった。
指事の意味が理解できず、同じく不安そうな丈一郎。
「マー坊君は水着持ってたの?」
「ま、一応な」
と真央がエナメルバッグをポンポンと叩く。
「プールの監督員とかのバイトも考えてたからな」
一方の奈緒は、無邪気に喜んでいた。
「わたしも夏物のタンスひっくり返してようやく見つけてきたんだよー」
ビニール製の袋に、紺色のスクール水着とタオルが見える。
自分の大好きな、尊敬する姉が自分たちに協力してくれたことを、心から喜んでいるようだ。
「……奈緒ちゃんは必要ないんじゃない?」
さすがの丈一郎も、そこには突っ込みを入れざるを得なかった。
「えへへへー、そだね」
と奈緒は照れ笑い。
いつも以上にテンションが上がり、自分で自分が何をしているか理解ができないのかもしれない。
「でも私も久しぶりに水着着てみたかったんだー」
そういってぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「にしてもおせーな」
ポケットに手を突っ込み、時計を見つめる真央。
「一人で飯でも食ってんじゃねーのか?」
「だれがなんだって?」
真央の後ろから声が響く。
「うぉっ!?」
恐る恐る後を振り返るとそこには、真央を睨みつける桃の姿が。
「あ、いやいやなーんにも。へへへ」
と笑ってごまかそうとした。
「ったく。誰のためにやってると思ってるんだか」
と桃は腕組みをしてこぼした。
「あら、お久しぶりです。真央君」
ひとしきりこぼす桃をよそに、一人の少女が真央に声をかける。
青みがかった美しい髪、落ち着いた丁寧な言葉遣いと上品な物腰、そして白く透き通る決め細やかな肌は慎ましかでありながら、饒舌にその美を主張する。
「あ? え、と、ひさしぶり、だっけ」
美しい少女に話しかけられ、真央は不意を突かれたような戸惑いを見せる。
「あーん、と。あんた、は……」
必死でその人物の名前を思い出そうとした。
「あら、お忘れですか?私水泳部の……」
ややむっとした表情が浮かぶ。
水泳部、というキーワードが真央の記憶を甦らせた。
いるかのようにつるんとした競泳用水着、そしてそれが包む絶妙なラインの胸元の曲線、一週間ほど前に目に見えた光景がありありと再現される。
「ああ! 思い出した! あんときの! シャワールームの!」
ようやく思い出してくれた、ということに形のよい胸を撫で下ろす。
「礼家葵です。よろしくお願いします」
葵の表情は和らぎ、ぺこりと頭を下げた。
「いやわりいわりい、顔は覚えてたんだけどさ」
顔よりも、水着姿の方が印象に残っているということが知られては、また桃の右ストレートのお仕置きが待っているだろう。
「名前の方がどうにも、さ。俺頭わりーから」
自己嫌悪の混じる言い訳を口にした。
その言い訳をするさまが気に触ったのだろうか
「そんなに私は印象の薄い女ですか?」
しっとりとした水晶のような目が真央をなじるように突き刺す。
仕方あるまい。
「印象……っつっても……」
真央の頭によぎるのは、あの日の葵の艶やかな水着姿のみなのだから。
その様子があからさま過ぎたせいだろうか
「こら! また鼻の下伸びてるぞ!」
桃は真央を怒鳴りつけた。
「あら」
葵も顔を赤らめ口元に手をやった。
「そう言えばあの時私、ずっと水着姿でしたね」
くすくすと笑った。
「そう言えばそうだったね。でもほら、葵ちゃんスタイルいいから」
と丈一郎が言葉を挟んだ。
「体のライン、すっごい綺麗だし」
「お前もさらっととんでもないこと言いやがる……」
真央は引いたような視線で丈一郎を見た。
「ははは、まあまあ」
と丈一郎が真央をなだめた。
「ところで、葵ちゃんとトレーニングがどう関係あるの?」
「詳しくは後で説明するから、とにかく水着に着替えてきなよ」
そう言うと桃は一足先に体育館の中に入った。
「話はそれからだ」
「んで、何すりゃいいんだ?」
上半身裸の真央が腰に手を当てて言った。
「まあ、水着になるくらいだから、きっと水泳なんじゃないかと思うんだけれど」
丈一郎も念入りに屈伸を繰り返す。
「水泳? まあ確かに関節に負担かけねーでトレーニングはできると思うけど、ボクシングに役に立つのか?」
確かに水泳ならば足腰に負担をかけることなく体力を増進できるだろう。
しかし、リフレッシュのためならばともかく、体の使い方が全く異なる。
少しでも体の使い方を覚えなければならない時期に、それは相当にリスキーだ。
「だったらシャドウでもしてた方がよくねーか?」
真央と丈一郎が話しながらストレッチをしていると
つるんとした、絶妙のボディラインを強調する競泳水着をまとった少女の姿。
「あら、早かったのですね」
葵が更衣室からプールサイドへと歩いてきた。
それに続いて、桃もプールサイドへと入場してきた。
「君たち、葵に感謝しろよな」
ハーフパンツとタンクトップ姿。
こちらは水着ではなかった。
「午後は水泳部ないのに、わざわざ葵は君たちの練習のために立ち会ってくれたんだからな。基本的にこの時期は水泳部しか使えないのに、自主トレっていう名目でプールを開放してもらえたんだから」
「いいんですよ。別に私は」
というと真央に向かって笑いかけた。
「だから、ね? 気にしないでくださいね」
「ありがとうね、葵ちゃん」
また少し遅れる形で奈緒が合流した。
「ところで奈緒、なんで奈緒で水着を着てるんだ?」
じとり、奈緒を睨む桃。
「えへへへへ、だってプール気持ちよさそうだったんだもん」
照れ隠しのように奈緒が笑った。
「でもさー、やっぱり去年の水着だから、結構きついんだよね。特に胸元が……」
そう言うと奈緒は右手を胸元に押し付けた。
すると、形良くふくよかな胸元が競泳水着の上からも確認することができた。
「「……」」
真央と丈一郎、健康な二人の少年の動体視力はこのような時にもいかんなく発揮された。
「……」
桃もうらやむ様な目でそのふくらみを凝視し続けた。
「ところで桃さん、プールとボクシングのトレーニング、どのような関係があるのですか?」
葵が桃に訊ねる。
「早速本題に入ろうか」
こほん、桃が小さく咳払いした。
「いいか君たち。これから君たちはこのプールを何往復も歩くんだ」
「プールを?」
と丈一郎。
「歩く?」
と真央。
「そう。絶対に泳いじゃだめ。時折シャドーを織り交ぜながら、要するに水の中でロードワークをやるんだ」
「私、わかりました」
葵は合点が言ったようだ。
「水に入れば普通浮力で体が軽くなる。だけど……」
「……だけど水中を歩けばその水が空気の何杯もの抵抗になって体を重くする、ってことか」
同じく丈一郎もその意図に気がついたようだ。
「そっか!」
奈緒が手をポン、と叩いた。
「体の抵抗が何倍にもなるけど、関節の負担は何分の一にもなるね!」
「そういうこと」
桃は腕を組み、胸を張って頷いた。
「ようするに……」
真央は張り付いた笑顔を見せ
「……うまくいくってことだな」
「……君、もしかして全然理解してないな?」
じとり、と真央を睨む桃。
図星を突かれた真央は
「うっせ!」
ざぶん、とプールにつかり
「論より証拠っつうだろ!? とにかくやりゃあいんだよ! 丈一郎、先行くぜ!」
ざぶざぶと水をかき分け50mプールを進む。
「うん!」
それに続き、丈一郎もプールに飛び込み、真央の後を追って進み始めた。
「ふっ、ふっ、ふっ」
目の前の水をかき分けるように歩く真央。
「はあ、はあ、はあ」
同じく、そこからやや遅れてついていく丈一郎。
「なんだ、かなりきついぜこれ」
常人とは隔絶した体力の持ち主である真央が初めて弱音を口にした。
「すっげー体がおもてーぜ」
「うん。なんか」
壊れたおもちゃのように、体がぎしぎしと鳴る。
「全身に鉛の重りをつけられたみたい」
予想以上の抵抗に、二人の体は早くも悲鳴を上げ始めた。
「あーくそ、スゲーイライラするぜ、まだるっこしーな」
「そうだね、はあはあ、頭の中では確実にダッシュしているはずなのに、体は全く進まないよ……」
少しでも早く進もうとすれば、その分全身に抵抗がかかる。
しかし、足だけで進もうとすれば上半身が抵抗にとらわれバランスを崩してしまう。
関節への負担はないものの、水の浮力が、全て自分たちの体の抵抗に変換され、二人の全身に大きな負荷をかけていた。
何分もかけて、ようやく50mを往復した。
すると
「まだまだだよ!」
プールサイドから桃の声が響く。
「そんなもんで音を上げるほどヤワじゃないでしょ? わかったらさっさと往復する!」
「「ういーっす」」
二人は再び50mプールを漕ぎだした。
そして二人がプールの真ん中の最深部にたどり着いた、と同時に
「シャドウボクシング2分間、スタート!」
今度は桃の指示を受けた奈緒の声が響いた。
「こんな水ン中でシャドウだあ?」
その意図がわからず、声をはりあげる真央。
「つべこべ言わない!」
押し切るような桃の声。
「んだよ、もう!」
そう言うと真央は言われたとおりにシャドウを開始した。
「これ、は、ふっ、ふっ」
体中が今までにも増して重い。
腰の入ったパンチを打とうと足を踏ん張るが
「あららっ?」
踏ん張った足がプールの床にすべり、思いっきり水中に転んでしまった。
「ぶっはあ! ゲホッゲホッ」
思わぬ転倒に思い切り水を飲みこみ、むせかえってしまった。
「ほらほら、上半身と下半身がバラバラだからそうなるんだよ!」
桃から普段丈一郎にかけている言葉をそのまま返されてしまった。
「はっ、はっ、はっ」
もはや丈一郎は無駄な言葉すら吐けなくなってしまっているようだ。
「うがーっ」
半ばやけくそ気味に真央はシャドウを繰り返した。
「ストーップ!」
いつもの奈緒の声がプールにこだました。
「ランニングさいかーい!」
「「……」」
二人は無言のままプールを漕ぎだした。
そしてこのやり取りがおよそ一時間、プールの中で繰り返された。




