2.28(土)18:45
「ねえねえ、桃ちゃん」
今度は“姉の心妹知らず”奈緒が再び桃に覆いかぶさり
「ねえねえ、お母さんなんて言ってたの? 今度いつ帰って来れるかとかの話? 早く教えてよー!」
「ああ、もう!」
桃は奈緒を奈緒を振り払い
「ねえ奈緒、本当にそろそろあたしのこと“桃ちゃん”って言うのやめなよ」
常々言い聞かしていることを再度確認した。
「あたしはあんたの姉なんだからな」
「えー、だって昔からそう呼んでたし」
にっこりと笑いながら、姉の美しいポニーテールをさらさらと指でなでた。
「“桃ちゃん”って呼び方、かわいいからわたしは好きだよ」
その言葉に嘘はない。
姉が妹に甘いのは、奈緒も十二分に心得ている。
すぐに怒るけど、ギリギリのところで自分のことを受け入れてくれる姉、奈緒もまた姉の存在を必要としているのだ。
しかし
「やめなさいっていってるだろ! もう! あたしは姉なんだからな!」
桃は髪を指で梳きながら奈緒から自分の髪を奪い返した。
「だいたい今のあたしのどこに“桃ちゃん”の要素があるっていうんだよ」
桃は先ほどの奈緒の胸のふくらみを思い出す。
中学生にしてあの大きさ、もうすでに自分の胸のふくらみを確実に凌駕している。
女性としての魅力、特に男性が見て可愛らしいと思える要素は、奈緒と比べると自分自身には皆無であるように思えてならなかった。
“桃ちゃん”なんて可愛らしい呼び名は自分には似合わない、桃は常々そう思っている。
「んんー」
その言葉を聞いた奈緒は、姉の姿を改めてまじまじと眺める。
「確かにそうかもしれないけど……」
たしかに、姉に自分自身の持つ、幼さゆえの可愛らしさはないかもしれない。
しかし、170cm近い長身にすらりと長い手足、長いまつげと大きな瞳、絹のようなつややかな長い髪は駿馬の尾のように後ろにまとめられている。
世の中の女性が望んでやまないものを持ち合わせた姉の姿は、奈緒にとっては心の底から求める美そのものだった。
勉強もできて、スポーツは万能、家事だってほとんどこなせる完璧な女性、姉が妹に抱いているコンプレックス以上に、より大きなものを妹は姉に対して抱いていた。
はあ、この少女にはおよそ似つかわしくないため息が漏れる。
「桃ちゃん、いいなぁ」
思わず心の声が口から漏れ出た。
「なに? どういうこと?」
怪訝な表情で訊ねる桃。
「あ! ううん! なんでもないの!」
奈緒はあわてて手を振った。
そして、いつものとろけるような微笑みで言った。
「いくつになっても、桃ちゃんはわたしのかわいいお姉ちゃん、ってことだよ」
からかわれたように感じた桃は苛立った。
「ああ、もう」
苛立ち紛れに親指の爪を噛んだ。
「本当にお母さんといい奈緒っていい……もう、勝手にしろ!」
――ヴヴヴヴ、ヴヴヴヴ――
「ほらほら桃ちゃん、メール来たよ」
またも奈緒が携帯を手に取っていた。
「たぶんお母さんだよね? ご機嫌なおして? ね?」
「だからそういうのやめなって言ってるの!」
桃は気を取り直して携帯を受け取り、メールの差出人を確認する。
「正解。お母さんからメール」
「ほんとに? 早く見せて見せて!」
奈緒は桃に飛びついて携帯電話を取り上げようとした。
その動きを、持ち前の運動神経でひょいとかわし
「わかったからちょっと待ちなよ。今一緒に確認する、それでいいだろ」
「うんうん、だから早くメール開いてよー」
奈緒は駄々をこねるような仕草を見せる。
「そんなにせかさなくってもいいだろ」
そういうと桃は携帯をクリックしてメールを開き
「ええっと……」
内容を読み上げる。
「“康子ちゃんから頼まれたんだけど、春休みに入ったら、康子ちゃんの高校時代の恩師のお孫さんをしばらく預かって欲しいの”」
「うんうん、康子おばちゃんの知り合いをしばらく預かって欲しい、ってことね」
興奮した様子の奈緒。
「そのまんまじゃん」
相変わらずマイペースな妹をよそに、再びメールを読み上げる。
「“秋元真央って子です。桃と同い年で広島に住んでいるんだけど、用事があってしばらく東京で暮らした言っていうんだけど、もし桃と奈緒がよかったら、春休み期間中泊めてあげてください。”だってさ」
「へー、まおちゃんかぁ」
奈緒はソファに腰を下すと、何かを待ちきれないような様子で足をぱたぱたと振り
「桃ちゃんと同い年ってことは、高校生だね。春休みに東京に遊びに来たいってことかな」
「まあ、何か事情があるんだろうな」
ぱちっ、携帯電話を閉じた。
「あたしは別にいいけど、奈緒はどう?」
「ん、わたしは大歓迎」
奈緒は相変わらずにこにこと笑っていた。
「了解」
というと桃もにっこりと笑い
「“OK。詳しいことはまたメールで知らせて。”っと」
とメールをした。
「まおちゃんかあ」
ソファーに腰をかけ、クッションを抱きしめながら、しみじみとつぶやいた。
かわいらしい名前だな、奈緒は思った。
クラスメートの男子が言っていた言葉を思い出し
「広島の女の子、かわいいのかなあ? 方言話す女の子って、なんか可愛く見えるよね」
「そうだね」
携帯をテーブルの上におき、キッチンへ戻り調理を再開して言った。
奈緒と同様のことを桃も考えていた。
「せっかくだから、東京のいろんなところ案内してあげるといいかもな」
「うんうん、その頃には学年末試験も終わってるし。いっぱい遊ぼーよ」
心を弾ませ、ウキウキとした心が弾けんばかりに奈緒は言った。
しかし
ドンっ
「いっぱい遊ぶ?」
力を込めてブロック肉を切る桃の手が止まった。
「あ」
地雷を踏んでしまった、と奈緒は凍りつく。
「奈緒、あんた前回の自分のテストの成績、よもや忘れたとは言わせないからな」
桃がじろりと奈緒を睨み付けた。
「いやー、なかなか桃ちゃんみたいな優等生にはなれないもので」
奈緒は苦笑いして頭をかいた。
「この間だって、お母さんの代わりに呼び出されたんだからな」
怒りを込めた包丁が、ドン、と鳴り響く。
「去年までお世話になった中等部の先生に、奈緒の保護者として頭を下げなければいけないんだぞ。この恥ずかしさが奈緒にわかる?」
「え、えっとー」
ポリポリ、いたいところをつかれ、しどろもどろになる奈緒。
「だ、大丈夫!」
奈緒は自信満々を取り繕って、拳を握り締めた。
「今回は毎日少しずつ勉強してるから! ……だから……たぶん……」
言葉とはうらはらの自身のなさが、その語尾を弱弱しいものにした。
「今回のテストで平均70点行かなかったら」
どんっ、叩き切るような包丁は、もはや桃の怒りの象徴に見える。
「春はどこにも行かずに勉強だからな」
母親兼姉としての威厳を込め、桃は言明した。
「えー! そんなのないよぉ」
奈緒はクッションを抱きしめ大げさに叫んだ。
「まおちゃんと桃ちゃんだけ遊んでるのに? 私だって遊びたいもん!」
「それだけじゃない」
今度はその手を止め、できうる限り冷静に桃は言葉を紡いだ。
「マネージャーも辞めてもらうから」
先ほどとは違う、突き放すようなトーンで言った。
「それとこれとは関係ないじゃん!」
自分が同好会のマネージャーをしていることを桃があまりよく思っていない、それは十二分に知っている。
しかし、自分にとってこの同好会は、自分が立ち上げ、そして多くの人間を巻き込んでいるのだ。
そして何よりも、同好会活動に、文字通り奈緒は命をかけていた。
「マネージャー辞めるなんてありえなさすぎ!」
その妹の様子に、桃は少し反省した。
妹が同好会活動に本気で打ち込んでいるのは痛いほど理解している。
姉として、できる限りその気持ちは尊重したい。
しかし、姉であるからこそ、それにかかわってほしくない、という気持ちがあった。
「だったらさっさとご飯食べて期末試験の勉強しなさい」
だからこそ、あえて冷たく突き放さざるを得なかったのだ。
「ぶうぅ」
奈緒はクッションに顔をうずめて呟いた。
自分は姉とは違うという、奈緒の持つコンプレックスがちくちくと痛んだ。
「桃ちゃんはずるいよ。頭がよくて。それに、あたし……」
――トン、トン、トン――
「何か言った?」
包丁の音に奈緒の声はかき消された。
「ん、なんでもない!」
頭を振り奈緒は立ち上がった。
「わたしも手伝う。早くご飯食べて勉強しなきゃね」
「それが正解、だね」
桃はしょうがを刻みながら笑って答えた。
その笑顔を見て、ようやく奈緒はいつもの明るい、常に前向きな心を取り戻すことができた。
自分にとって、姉の存在はコンプレックスではある。
しかしそれは、自分にとって目指すべき理想像であり、いつか姉のような女性になるんだ、奈緒はそう考えた。
「ね? 今日ご飯作るの手伝うから、せめて平均60点にまけてよぉ」
いつものペースを取り戻した奈緒は、桃の背中を奈緒がきゅっと握り締めた。
「あのねぇ」
桃が後を振り返ると、子犬のように哀願する奈緒の顔。
一瞬言葉に詰まった後
「しょうがないなぁ」
厳しい皇都は言ったけれど、やはり奈緒の愛くるしい頼み顔には逆らえない。
「やったー! 桃ちゃん優しい! これだから桃ちゃん大好き!」
奈緒は大はしゃぎ。
「今回だけだからな。その代わりしくじったらどうなるかわかってるな?」
しかし、桃は釘を指すことは忘れなかった。
「大丈夫!」
そこにはいつも通りの明るい奈緒の姿。
「絶対約束は守るから!」
大きく笑ってVサインを差し出した。
「……あ、あと、ちょっと聞きたいんだけど……」
口ごもるように、桃は訊ねた。
「なーにー?」
にこにことそれに答える桃。
「……えっと、さ……」
普段見せないもじもじとした姿を見せた桃は
「……あんた、今、何カップ?」
「ほえ? んーっと……」
首を傾げる奈緒。
そして首元から胸元を覗き込み
「たしか、Dだったかな?」
ぴくん、桃の体が硬直する。
「D?」
「でもねー、もうそろそろきつくなってきたから、新しいの買わなきゃかもー」
にこにこ笑ってそう言った。
「やっぱり今の話なし!」
桃は再び怒号を上げた。
「えー! なんでー!」
その理不尽な物言いに、奈緒の悲鳴が部屋中に響いた。
奈緒には、なぜ急に桃の気持ちが変わったか、わからない。
まさしく“姉の心妹知らず”だった。