3.14(金)11:00
「よし、今日はこんなもんにすっか」
シャドウを終えた真央が言った。
「え? まだこんな時間だよ?」
壁にかかった時計をに目をやる丈一郎。
「あと一週間ちょっとしかないのに、もっと追い込まないと」
「ちょっと入れ込みすぎだよ、丈一郎君」
奈緒は心配そうな表情を見せる。
「この五日間、いきなりこれだけ密度の濃い練習してるんだもん。かなり疲労たまってるんじゃない?」
「それは、そうなんだけど」
それは丈一郎にも実感があった。
二日目の練習の朝、丈一郎はベッドから一歩も動けなかった。
そして学校に登校するのに、いつもの二倍の時間がかかった。
いまも膝、そして腰に痛みを覚える。
「だけど、もっと追い込まないと! 前にも言ったけど、今度に試合には絶対に勝ちたいんだ!」
「気持ちはわかるけどよ。今膝とか痛めたら、それこそ大会にも出場できなくなるぜ。だいたい疲労のせいでパンチが全部手打ちになってきたぜ。全身を使って打つ感覚がつかめなくなってきてる。変な癖つけさせるのは絶対にいけねーからな」
なだめるように真央が言った。
「そもそも、試合二週間前にこんなに追い込むなんてありえねーんだよ。本来なら調整に当てる時間なんだからな」
丈一郎の目標は、二週間後の試合で勝利することだけではない。
真央がいなくなっても、自分で練習を続けられるように練習メニューを叩き込むことだからだ。
だからこそ、本来は調整する時期に、合宿並みのハードワークをこなしてきたのだ。
「じゃあ、ロードワークするよ。自主練ならいいでしょ?」
懇願するように丈一郎が言うが
「だからこれ以上無理すると当日関節の疲労が抜けなくなるんだって!」
と真央はやや強めに言った。
「とは言ったものの、あと10日足らずで仕上げるには、まだまだ練習時間が足りねーのは確かだな」
と頭をかいた。
「実際、マススパーなんかはだんだん形になってきてんだけどな。だけどやっぱり全身を連動させて動くっていう感覚がまだまだつかめてねー」
そう言うと真央は軽くシャドウをして見せた。
「わかるか? 上半身と下半身がまだまだバラバラなんだよ」
「けど、これ以上増やすとオーバーワークになっちゃうんだよね?」
丈一郎は頭を抱えた。
「どうしたらいいんだろう」
「うーん……」
真央も頭を悩ませ、呟いた。
「あ!」
奈緒がポン、と手をたたいた。
「わたしいい考え思いついた!」
「「いい考え?」」
「とはいっても、わたしじゃないんだけどね」
そう言うと奈緒は頬をかいた。
「こういう時はあの人に聞いているのが一番だよ」
「「あの人?」」
「あのね……」
そう言うと奈緒は二人に耳打ちした。
「そっか!」
と丈一郎。
「それならきっと大丈夫かも!」
「……うーん、あんま気が進まねーな」
と真央。
「けど、しょうがねーか」
「そうと決まれば、善は急げ、だね」
言うが早いか奈緒は早速グラウンドへと歩きだした。
「それでは15分間休憩になりまーす」
マネージャーの声が響く。
「ふうっ」
首にタオルをかけてグラウンド横のベンチに座り込んだ。
「調子はどう? 桃」
陸上部のマネージャーが話しかけ
「はいどうぞ」
スクイージーを差し出した。
「あ、サンキュ」
桃はそれを受け取り、やや酸味の強いスポーツドリンクを流し込む。
その冷たさは心地よい刺激を喉に与えてくれた。
「んんー、たまんない!」
「そういえばさ、桃は将来どうするの?」
マネージャーが桃の隣に腰かけ、そして訊ねた。
「やっぱり陸上続けるの?」
「んー、できれば続けたいかな」
そう言うとまたスクイージーからドリンクをのどへごくり、と流し込んだ。
「少なくとも、大学はスポーツ関係のところに行きたいとは考えてるけど。できればアメリカの」
「アメリカ? 留学するって事?」
「まあね。やっぱり世界のスポーツの中心だし……」
「「「もーもちゃーん」」」
「……最新のトレーニング方法とか、そう言う進んだ知識……」
「「「もーもちゃーん!」」」
「……そういうのをあたしは……」
「「「もーもちゃーん!!」」」
「うっさいな!」
ついに耐え切れなくなり怒鳴り声を上げた。
「誰だあたしの名前を大声で呼ぶのは!」
桃が立ち上がり、周囲を見回す。
「あ」
マネージャーは左奥を指さし
「妹さんだよ。あとは、あ! 川西君だ! 今日もかっこいいなー……それと……誰?あのゴツい人」
その言葉を桃は振り返ることなく聞いていた。
「もういい。大体わかった」
「どうしたの桃? 肩が震えてるけど?」
心配そうに訊ねるマネージャー。
「……ちょっと風邪ひいたみたい……」
そう言うと桃はその三人の方向へと歩いて行った。
「……ちょっと休んでくる……」
「まだまだ寒いからね。気を付けてね?」
「あ。桃ちゃん気が付いたみたい!」
奈緒が桃に向かって手を振った。
「おーい、こっちこっちー」
「あ、本当だ」
と丈一郎。
「だけど、何か怒ってない?あんな表情の釘宮さん、初めて見たんだけど」
「そうか?」
と真央。
「いつもあんなもんだと思うけどな」
そして桃は三人のもとへとたどり着いた。
「おお、桃ちゃん、実はな……」
と真央が話しかけるが早いか
「何の羞恥プレイだ!」
桃は真央の襟首を締め上げた。
「が、っが!」
相当力が込められているらしく、真央の顔はみるみる青白くなった。
それでも桃はその手を緩めることはない。
「あのねえ、こんな公衆の面前で、あんたら三バカにバカみたいにでっかい声で“ももちゃん”“ももちゃん”叫ばれて、あたしは恥ずかしいったらなかったよ!」
「ああ! 釘宮さん! それ以上やったら死んじゃう!」
と丈一郎は桃の手をほどこうとしたが、桃のすさまじい力の前には歯が立たなかった。
「ぐ……げぇ……」
「あ、マー坊君の顔紫色だー」
あくまでも奈緒はのんきな様子で言った。
「く、釘宮さん! 本当に死んじゃうから!」
丈一郎は慌てふためき、何とかその手を解こうとした。
そしてようやく桃の手が首から離された。
「げほっげほっ」
生命の危機からようやく解放され、真央は怒鳴った。
「てめえ! ほんとに死ぬとこだったじゃねーか!」
「うるさい! 本当に殺すつもりで締めたんだ! 当たり前だろ!」
美しい少女が口にするにはあまりにも物騒な言葉を吐いた。
「いったい何の用なんだ!」
「えへへへへ、あのねー、桃ちゃんに頼みたいことあって来たんだー」
といつもどおりにこにこ笑いながら奈緒が言った。
「実はね……」
「……成程ね」
桃は腕組みをして真剣に話を聞いていた。
「関節の負担を軽減しながら、高負荷のトレーニング、か」
「釘宮さん陸上部だし、トレーニング方法詳しいんじゃないかなって思たんだ」
と丈一郎が言葉を続けた。
「頼むよ、桃ちゃん」
そう言って両手を合わせる真央。
「俺もボクシングの事しかしらねーからさ、トレーニングよくわかんねーんだ。何とか頼むよ」
「そんなこと言ったって……」
桃は悩んだ。
ここで手を貸すべきか否かを。
まだまだ奈緒がボクシング同好会のマネージャーを続けることに抵抗感があるからだ。
しかし、ここ数日間、奈緒や真央、そして同級生の丈一郎の一生懸命な姿を目の当たりにしてきた。
正義感の強い桃には、そんな三人の願いを無視するわけにはいかなかった。
桃は腕を組み、そしてしばらく考えていたが
「まぁ、無いことも無いんだけど。っていうか」
そしてうんうん、とうなずき
「あれしかないか。とりあえず午前中は陸上部の練習があるから、午後からなら付き合ってあげられるけど」
「何か知ってるの? 桃ちゃん!」
奈緒の顔が明るくなった。
「「やった!」」
真央と丈一郎は声を上げ、手を取り合って飛び上がった。
「そのかわり」
じろりと二人をにらみつけ
「相当きつくなると思うけどいいな?」
「「もちろん!」」
二人の少年は無邪気な歓声を上げた。




