3.9 (日)12:55
「……そうでしたか」
その美しき髪を持つ、礼家さんと呼ばれる少女は事情を聞くと、真央のもとへと近寄り、にこりと笑って話しかける。
「こんにちは」
「お? おお、こんちは」
美しく黒い髪を持つ水着の少女の接近にも動じず、真央は挨拶を返した。
「こんにちは」
再びにこりとほほ笑む少女。
こちらもそれなりに腹が据わった性格なのだろうか、真央の姿にもまたク動じることなく挨拶を返した。
体はがっしりしているけれど、顔を見ると少し幼さが残る、この少年はおそらく自分と同じくらいの年齢なのだろう、見た目は少しいかついが、この少年は悪い人ではないようだ、そのように少女は判断した。
「ところで、この学校ではない制服をお召のようですが、この学校の関係者の方ですか?」
……ヒソヒソヒソ……
真央にも、礼家さんと呼ばれる少女の後ろで何事かを話し合う水泳部の女子生徒たちの姿が見えた。
「ああ、これこれ、これ見てもらえば」
そう言うと真央は胸に下がったタグを少女に見せた。
「ボクシング同好会の外部コーチとして雇われて、今日は一緒に練習させてもらったんだ」
「ボクシング同好会?」
髪をかきあげ、少女は言った。
ふと、ベンチに座った真央の視線に、少女の姿が入った。
少年の視線は、いるかのようにつるんとした競泳用水着に包まれた少女の胸元の曲線に、嫌が応にも集中してしまう。
真央は少しどぎまぎしながら
「あ、ああ。詳しくは……」
と説明を加えようとしたところ
「ごめんごめん、マー坊君。ちょっと遅くなっちゃった」
さわやかな笑顔と声。
川西丈一郎がシャワー室から姿を見せた。
「あら、川西君じゃないですか」
少女は丈一郎に親しげに話しかけた。
「あ、葵ちゃん。水泳部も練習終わり?」
丈一郎も言葉を返した。
「ええ、そうです」
そう言うとまたも日本人形のような微笑みを丈一郎に返した。
「こちらの方は、川西君のお知合いですか?」
丈一郎の方を見ながら、真央に向けて手のひらを差し出す。
「うん。秋元真央君」
そう言うとバッグを下ろし、真央の隣に腰かけた。
「僕はマー坊君って呼んでる。釘宮さんの親戚なんだって」
「釘宮さん……桃さんの、ですか?」
礼家葵は両手で口を押さえた。
確かに釘宮桃も身長は高いが、両者の雰囲気は全く違っていた。
両者は、親戚とは言いつつも、とても似ても似つかない。
その紹介に、真央の良心がうずいたのだろう。
「ああ、まあ、一応」
そう言うと真央は頭をかきむしり、自分自身のやましさをごまかした。
「……えっ?あの人、川西君の知り合いなの?」
「……えーうそー。全然人間の種類が違うって感じだけど……」
周りの水泳部員のひそひそ声がかすかに聞こえる。
「皆さん、この方は別に怪しい人ではないみたいですね」
その声を聞いた葵は水泳部の部員のもとに近づき
「川西君と桃さんの知り合いだという事ですから、しっかりとした身元の人だと思いますよ」
と不安を取り除くように心がけた。
「……それなら……」
「……まあ、ね……」
他の水泳部員は会釈だけすると、そそくさとシャワールームへと入って行った。
「すいません。この学校の皆さん、特に小学校からこの学校に通っている方たちは、外部の人にあまり免疫がないみたいで」
自分自身も小学校時代からこの学園に通っている葵は、学園を代表するような言葉で真央に謝罪した。
「いや、気にしてねーよ」
というと真央はまたコーヒーを口にした。
「大体さ、俺とこの学校の連中とは住む世界が違うからな」
「そんなことありませんよ」
そう言うと葵は再び髪をかきあげた。
「桃さんの親戚なんですか? いとこ関係?」
「んー、まーそんなとこだな」
真央は少々目のやり場に困った。
そもそも、いかめしい容姿とは裏腹に、この少年は女性に対する免疫は薄い。
見た目は日本人形のようにおしとやかな感じだが、桃よし身長はやや低いが抜群のスタイルで、なおかつ体のラインを強調するような競泳水着を着ている。
たとえ真央でなくとも、世の男でこれに耐えられるものなど存在しえようか。
「あー、んと、奈緒ちゃん遅いな」
目を背けるように丈一郎に話しかけた。
「女の子なんだからしょうがないよ」
丈一郎が返した。
「男と違って、シャワーとかお風呂にすごく時間がかかるものなんだよ」
と、真央に教え諭した。
なるほど、といわんばかりに真央は両手を叩いた。
「んー、そういや桃ちゃんたちも風呂から上がるのにすごい時間かかってたな」
「「昨日?」」
葵と丈一郎が全く同じタイミングで全く同じ言葉を言った。
「俺広島出身だから、今桃ちゃんと奈緒ちゃんの家に居候させてもらってるんだ」
何の配慮もなしに、聞かれたことに対し素直に真央は答えた。
「そ、そうなんだ」
年頃の女性の二人暮らしの家に、同じく年頃の男性が居候する、自分自身の身に置き換えてみても、少々違和感を感じたが
「ま、いとこ同士だからね」
自分を納得させるように丈一郎は言った。
「そうだったんですか」
葵の目が輝いたように見えたのは気のせいだろうか。
ガラリ
「ごめーん、待ったー?」
奈緒がシャワー室から出てきた。
その姿は、ウィンドブレーカーではなく、朝登校した時同様のブレザー姿。
「あのねー、桃ちゃんも一緒だよー」
「ちょっと奈緒、余計なことは言わなくていいの」
陸上部の練習を一足先に終えていた桃もシャワーを浴びていたようだ。
「あら桃さん、桃さんもシャワー浴びていたんですか?」
葵が桃に話しかけた。
「あっ葵。水泳部も終わったんだ?」
桃の顔が明るくなった。
「ええ。そうしたら川西君と、それからこちらの方とお会いして」
そう言うと葵は両手で真央の両肩に触れた。
「あ、釘宮さん。陸上部の練習お疲れ様」
丈一郎が桃に話しかけた。
「なあ丈一郎、お前らどういう関係なんだ?」
両者の関係性を読めず、たまりかねて真央は訊ねた。
「ああ、僕たち同じクラスなんだ」
とこともなげに丈一郎が返した。
「三人ともすごいんだよー」
と奈緒が話に割り込む。
「三人ともAクラスなんだよー」
「Aクラス?」
その意味を訊ねる真央。
「この学校の高等部はね、成績の順番でクラス分けしてるんだー。だからAクラスはこの学校で一番成績のいい人が入るんだよー。だから三人ともすっごく頭がいーんだよ」
と奈緒が説明を加えた。
「てことは、丈一郎、お前も頭がいーのか?」
と睨む真央。
「いやー、この二人に比べたら全然だけどね」
と丈一郎は照れたように笑った。
「釘宮さんも僕より断然成績がいいし」
「そんなこと言ったら、葵なんて学年のトップだから」
と桃が付け加えた。
「そんな風に言われると、少々照れますね」
そう言うと葵は顔を赤らめ、頬に手を当てた。
「へっ、なんだよ。みんな頭がいいのかよ」
真央は少々拗ねたような言葉を吐いた。
「そんなことありませんよ」
そう言うと再び葵は真央の肩に両手をやった。
「人にはそれぞれ得手不得手がありますもの。真央さんはボクシングのコーチをしていらしゃるんですよね?」
そして真央の顔を覗き込んだ。
「それは立派な、真央さんだけにしかできないことですから」
「そ、そーかな」
真央は褒められて悪い気はしなかった。
「俺って、そんなすごいかな」
「ええ」
真央の目をまっすぐに見つめ、葵はにっこりと笑った。
「素敵だと思います」
「あ、そう言ってもらえると、なんか嬉しーわ」
真央は頭をかいた。
「ちょ、ちょちょっと葵、シャワー行くんじゃなかったのか?」
桃が二人の間に割り込んできた。
そして真央に向かって
「君も早く入校許可証返さなくちゃならないんだから。さっさと行くぞ」
「お、おい、ちょっと……」
思いもよらぬ力で引っ張られ、真央はバランスを崩した。
「いいから!」
そして真央の右腕を掴み、引きずるようにして階段へ向かった。
「それでは皆さん、また明日お会いしましょう」
葵は微笑み、小さく手を振った。
「それじゃあね、葵ちゃん」
丈一郎が振り向きざまに挨拶を返した。
「じゃーねー、あおいちゃーん」
奈緒は大きく手を振り返した。
「まったく、勝手に他の生徒と話したりするなよ」
バッグを放り投げ、リビングのソファーに桃はどっかと腰を下ろした。
「困るのはあたしなんだからな」
「まあまあ桃ちゃん、マー坊君は変なこと言っていないみたいだから、他人だなんてばれていないと思うよー」
と奈緒がフォローを加えた。
「まあ、大丈夫だとは思うぜ」
と真央はソファーに座って桃と向かい合い、頭をかいた。
「けどよ、なんでそんな怒ってんだよ。別にあの子と会話してただけじゃねーか」
「あたしには君が信用できないんだ」
そう言うと桃は真央の前に仁王立ちした。
「君、葵に変なことしてないだろうな?」
「何もしてねーよ! 公衆の面前でんなことできるか!」
真央も立ちあがり、その言葉に抗議した。
「どうだか。水着姿の葵を見て、鼻の下伸ばしてたくせに」
同性の桃にとっても、葵のスタイルは抜群だ。
背が高いだけの、女らしさのまるでない自分とは、比べようもない。
男性ならば、その視線をそこに集中させるに決まっている、そのように桃は考えていた。
「もー、桃ちゃん、考えすぎだよー」
木製のトレーを手に奈緒が言った。
「今日だって本当に一所懸命練習見てくれたんだよー。そんな風に言ったらかわいそうだよ」
そして二人の前にお茶の入ったグラスを差し出した。
ごくごく、真央はそのグラスを一気に飲み干すと
「だいたいな、人をそういうやらしー目で見てる人間の方がやらしーだろうが!」
「何だと?」
そう言うとごくごく、桃もグラスを一気に空にした。
「あたしが嫌らしいだって!?」
「そうだろうが! 普段からやらしーことばっか考えてるから、ほかの人間がそういう風に見えるんだろーが!」
「なんだと?」
桃は顔を真っ赤にして言った。
「あたしがいやらしい人間だって?」
「違うのか? ああ?」
「はあー」
奈緒は頭を抱えた。
「なんでこうなっちゃうのかなー」
そんなこんなで真央の釘宮家での生活二日目は過ぎていった。




