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    3.9 (日)12:40

 10ラウンドのシャドウを終えた後、二人は入念なストレッチを繰り返した。

 その後三人は荷物をまとめるとジムを出、そしてシャワールームへ向けて体育館脇の小道を歩いて行った。


 まだまだ風は冷たかったが、練習で火照った三人の体にはむしろ心地よく、冷たい風の中に感じられる春の香りがその鼻をくすぐった。


「もう春なんだねー」

 うっとりとした表情で奈緒がつぶやく。


「そうだね」

 丈一郎は軽く目を閉じると、鼻から大きく息を吸い込み、そして吐き出した。

「もうじき新学期が始まるんだね」


「ま、俺にゃ関係ねーがな」

 真央は空を見上げたまま言った。

「四月には学校に退学届出して、そんでプロテスト目指して練習練習の毎日が始まるんだ」


「そっか、マー坊君はもう高校生じゃなくなっちゃうんだね」

 奈緒の表情は、心なしか寂しそうだった。


「まあな。プロんなったらよ、スモール・フェイセズの「シャラララリー」入場曲につかってよ、そんであっという間に日本チャンプ、そんで世界戦まで突き進んでやるぜ」

 そう言うと真央はワンツーを中空に放った。

「そんときゃあよ、絶対に試合に招待してやるよ」


「うーん、でもさマー坊君」

 丈一郎は、腕組みをして言った。

「いくら東京の大手ジムでも、ウェルター級の世界戦なんてそう簡単に組んでもらえるかな。ウェルターからミドルなんて、世界的に見ても屈指の層の厚さだと思うけど」


 ウェルター級からミドル級までのリミットは、およそ60キロ前半から70キロ前半であり、世界の一般的な成人男性の体格に相当する。

 そのため、世界的に見ても最も層が厚く、また新陳代謝の激しい階級だ。

 スピードとテクニック、そしてパワーを兼ね備えていなければ、世界のリングに立つことすら難しい。

 そんな激戦区に、日本人として挑もうというのだ。


「まあな、わかってるよ」

 しかし、真央の言葉はあくまでも真剣だった。

「だけど、とにかく俺の才能認めさせてよ、ウェルター、スーパーウェルター、そしてミドルの中量級三階級制覇を達成してやるんだよ」


「てことはさー、やっぱりあの男を倒さない限りは実現できないんじゃない?」

 奈緒が口を開いた。


「あの男っていうと……」

 丈一郎は首をかしげ、しばらく考え

「フリオ・ハグラかー!」

 

「正解!」

 そう言うと奈緒は人差し指を突き出した。

「フリオ・ハグラーも一昔前ならロートル扱いされてたはずなのに、なんだかもう10年くらいは戦っていそうな感じだよねー」


「そうだね。今のボクサーは昔と違ってかなり選手寿命は延びているからね」

 アリに敗れた後、伝道師を経て復帰し、ヘビー級王者に返り咲いたジョージ・フォアマン、そのフォアマンの持つ最年長王者の記録を塗り替えたバーナード・ホプキンス、技術や栄養学の進歩などが、ボクサーの競技寿命を一昔前よりも格段に延長させた。

「マー坊君がタイトル戦やるとしたらフリオ・ハグラーと戦う可能性も、もしかしたらあるかもね」


「じゃねーと意味ねーんだよ」

 ぼそりと真央がつぶやいた。


「え?」

 その言葉がかすかに耳に届いた奈緒は言った。

「マー坊君何か言ったー?」


「あ? あ、ああ」

 真央は頭をぐしゃぐしゃとかくと

「強えー相手とやんなきゃ意味がねえ、ってことだよ」


「マー坊君すごいな」

 そう言って丈一郎はため息をついた。

「僕なんかさっきのマス・スパーだけでおなかいっぱいなのに」


「ぎゃははは」

 そう言うと丈一郎の腹を小突いた。

「そのうち顔をぶん殴られる快感に目覚めさせてやんよ」


「ははははは、勘弁してよ」

 微笑みながらも心底嫌そうに丈一郎は笑った。


 奈緒が笑って言った。

「丈一郎君はリングの上で一勝する、マー坊君は世界チャンピオンになる。お互い夢が明確になったねー」


「なんだか僕の夢はものすごく矮小な感じもするけど……」

 丈一郎は肩をすくめた。


「関係ねーよ」

 そう言うと今度は丈一郎の肩を組み言った。

「夢に大きさなんて関係ねー。その夢に対し、どれだけ真剣に取り組めるか、男にはそれしかねーんだよ」




「あ、あそこだよ」

 奈緒は体育館の入り口を指さした。

「体育館のに入って右側に行くと、シャワールームがあるんだよ」


「これが本当に高校の体育館かよ」

 真央はその威容を誇る鉄筋コンクリート造りの建物を見上げて言った。


「地下二階に地上三階建て。最下層は屋内プールになっているんだ」

 体育館の扉を開けながら丈一郎が答えた。

「その横がシャワー室だよ」


「もう驚かねーつもりでいたんだがな」

 そう言うと丈一郎の後に続き体育館に入る。

「お前らの学校、スポーツも盛んなのか?」

 そう言うと体育館の扉を手で支えた。


「あ、ありがとー」

 その隙間から奈緒も体育館に入る。

「女子はどの種目もだいたい強いよー。この学校、半分以上が女子だからねー」


「情けない話だけど、男子の方はそれほどスポーツ盛んじゃないんだ。だから、男子は少々肩身が狭い感じ」

 丈一郎は靴を脱ぎながら言った。

「さ、はやくシャワー浴びちゃおうよ」


「そうだな、そろそろ腹が減ってきたしな」

 同じく靴を脱ぐ真央。




「じゃ、早く終わったらここで待っててねー」

 と奈緒は中央のベンチを指さし、女子のシャワールームへと消えていった。


「ああ。んじゃ行くか」

 と真央は丈一郎を促した。


「うん」


 ギイッ、シャワールームの扉を開ける。


「おおー、ちょっとした温泉施設みてーだな」


「まあね」

 ウインドブレーカーを脱ぎながら丈一郎は言った。

 そしてタンクトップを脱ぎながら

「この学校合宿所もあるから、これ位の浴室は必要なんだ」


「成程な」

 そう言うと真央はあっという間に素っ裸になり

「さっさと浴びてくるわ。お先にな」

 タオルを片手にシャワールームへと入って行った。


「あのさ、少しは恥じらいを持って脱ぎなよ」

 丈一郎は顔をしかめた。

 同じく裸になった丈一郎は、ふと自分の体を鏡に映す。

 そしてしばらくシャドウを鏡の前で繰り返す。

「やっぱ貧弱だなー、僕の体」

 そう言うと体の隅々を頭の中にある真央の体と比べてみた。

「もっと強くなりたいなあ」


「んなこたーねーよ」

 ヌッと後ろから顔を出す男が。


「!?」

 心臓が止まるかのような衝撃を覚えた。

「マー坊君? もう上がったの?」


「お前もマスとはいえ初めてスパーリングしたんだ。あまり体あっためないように、できる限り汗流す程度にとどめといた方がいーぜ」

 一枚の布も身にまとわず、腰を隠すこともなく真央は言った。


「そ、そっか。わかった」

 丈一郎は顔を触ってみた。

 痛い。

 先ほどまでは気がつかなかったが、顔のところどころがはれている。

 ボディについては、青あざが出来ている。

 あまり体を温めない方が得策なようだ。


「あとな、お前もう少し自分に自信持た方がいいぜ。見てみろよ」

 そう言うと真央は鏡の中の丈一郎の体を指さした。

「その擦り傷、青あざ、その一つ一つがお前が努力した証拠、強くなった証しだと思え。それを毎日積み重ねていけば、間違いなくお前は昨日のお前よりも強くなってるんだ」

 言うが早いか真央はあっという間に学生服に着替え

「さ、俺はもう上がるぜ。お前もさっさとシャワー浴びてきな」

 

 ギイッ、シャワールームを後にした。




「ん、さすがに奈緒ちゃんはまだ出てきてねーな」

 そう言うと真央は自動販売機に歩み寄り

 ゴトン、缶コーヒーを購入した。

 そしてカチャッ、缶コーヒーのプルトップを開け、一口それを含んだ。

「ふうっ」

 思わずため息がこぼれる。

「やっぱなんか落ち着かねーな」

 広々とした、清潔で近代的なその空間に真央はまだなじめない。

「やっぱさっきのあのジムの方が落ち着くわ」

 そして再びコーヒーを口にした。




 トン、トン、トン


「……でね……」


「……うっそー……」


 階段から話し声が。

 人の降りてくる気配がする。

 見れば聖エウセビオ高校の女子生徒の一団だ。

 全員競泳用水着に身を包み、バスタオルを肩にかけている。

 水泳部がシャワーを浴びに来たのだ。


「……それでね……」

 先頭を歩く女子生徒が後ろの生徒に話しかけたとき


「あれ?」

 その女子生徒に話しかけられた女子生徒がベンチを指さした。

「ねえ、あれ誰?」

 そこには、聖エウセビオの男子生徒のブレザーとは似ても似つかない学生服を身に纏った真央の姿があった。


「……もしかして、不審者?」

 

 ……ヒソヒソヒソ……


 しかしその様子に全く頓着することなく、真央は缶コーヒーを飲み、ボーっとしながら丈一郎と奈緒を待ち続けていた。


「どうかしましたか?」

 その一団からやや遅れてまた一人の女子生徒が階段を下りてきた。

 青みがかった見事な黒髪ストレートが水にぬれてキラキラ輝いている。


「あ、礼家さん。実は……」

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