3.9 (日)10:50
「あ、戻って来たよー」
奈緒がドアを指さした。
ガチャリ
「ごめん、もう大丈夫」
ミット持ちがきついとはいえ、さすがに自分が打つよりは体の負担は少ない。
先ほどと比べてだいぶ体力は回復してきた。
すると真央は、ごそごそとバッグの中を探り
「よし、んじゃマウスピース噛め」
マウスピースを取り出した。
「軽くマススパーいくぞ」
マス・スパーリングとは、対人練習の一つ、スパーリングの一種だ。
力を込めて打つスパーリングとは違い、当たる瞬間に力を抜き、皮一枚撫でるだけであるため、距離感やコンビネーションの確認などに大変有効な練習法だ。
「……」
固まる丈一郎。
それもそのはずだ。
以下に寸止めのマス・スパーリングとはいえ、生まれて初めて他者とグローブを交し合うのだ。
恐怖心を抱くな、という方が難しい。
なおも心配そうに声をかけた。
「大丈夫? 丈一郎君マスとかしたことないけど。ウェイト差もあるし……」
「しょーがねーだろ。俺しかいねえんだから」
そう言うとマウスピースをタバコのように口元に咥える。
「大丈夫。無茶なことはしねーよ」
ポンポンと16オンスグローブで奈緒の頭を叩き
「未来の世界チャンピオンと初体験できるんだ。泣いて喜べ。ホンモノのプラチナチケットだぜ」
丈一郎に言葉をかけた。
しばらく迷った後
「うん! やるよ!」
そう言うと、パンッ、両手のひらで顔をたたき
「玉砕覚悟だ!」
拳を握り締め自身に活を入れた。
「よっし、いい覚悟だ」
そう言うと
「んじゃ先に待ってるぜ」
ヘッドギアを装着しリングへと上がった。
「んじゃ奈緒ちゃん、ゴングの準備よろしくな」
「わかった……けど……」
そうは言いながらも奈緒はまだ不安そうだったが
「よろしくお願いします!」
決意にあふれた表情の丈一郎はヘッドギアとグローブ、そしてマウスピースを装着しリングへと上がった。
「とにかくマススパーで重要なのは、体の緊張をなくすことだ。倒すことが目的じゃねー。ミットとかバッグで身に着けたコンビネーションを、相手の攻撃まで想定しながら繰り出すんだ。わかったな?」
拳を交える前、必要な心がけを説く真央。
「うん!」
バシン、丈一郎は胸元で大きくグローブをたたきつけた。
「二人とも準備、いい?」
リングの下から奈緒が声をかける。
「よっしゃ、こいや丈一郎!」
真央の声が、再びリングをびりびりと揺らす。
カァン
ゴングの音が、リング上の空気を一瞬にして張りつめたものに帰る。
キュッキュッキュ、真央はリング中央で警戒にフットワークを踏む。
それに対し、固まったまま全く動こうとしない丈一郎。
先ほどの言葉とは裏腹に、緊張と恐怖が丈一郎の体を支配していた。
「ふっ」
真央が軽くジャブを丈一郎の鼻先に当てる。
「!っ」
丈一郎は無意識のうちに目を閉じ、顎を上げ大げさに後ろに顔を背けた。
「おらビビんな! 皮一枚触っただけじゃねーか!」
フットワークを軽やかに、再びジャブを繰り返す真央。
「シッシッシッ」
「っ! ひっ」
再び目を閉じ顔を背ける丈一郎。
「丈一郎君!」
奈緒が悲鳴にも似た声を上げる。
「おら、そんな顔上げちまったらなあ!」
真央は一足飛びに距離を詰め
「こうなるんだ!」
軽くひざを折り曲げ拳を下げ
「よ! っと」
右アッパーで軽く丈一郎の下顎をかちあげる。
「! っか」
丈一郎は大げさにキャンバスにへたり込んだ。
「どうしたオラ! あたってねーよ! こんなモン撫でただけじゃねーか!」
右拳を握りしめ、アリのように丈一郎を煽り立てた。
「男だろーが! ボクサーだろーが! 立て! さっさと立てよ!」
軽く頭を振った丈一郎は無言で立ち上がり、よろよろとファイティングポーズをとった。
「よぉーし、いい顔だ!」
そう言うと再び真央はジャブを繰り出した。
「ふっ」
バシイ
左手のパーリングでそれを払う丈一郎。
「そうだ、その調子だ!」
そして何度も左ジャブを繰り返す。
「だがなあ」
そう言うとおもむろに左拳を大きく引き戻し
「ボディがら空き!」
「! こッ……」
前にかがみこんだ丈一郎。
初めて体験したボディーブロー。
空っぽのはずの胃からさらに胃液がこみ上げてくるようだった。
しかし
「ふわぁ!」
今度は左アッパーを返した。
「よっと」
スウェーで軽々とよける真央。
「そんなんじゃ虫も殺せねーぞ!」
そう言うと左フックを丈一郎のこめかみに当てる。
「ふうっ!」
ひるむことなく右フックを返す丈一郎。
「そうだ丈一郎!」
受けて立つ真央。
「うらぁ!」
左手を外側に引っ掛けるようにパーリングを行い、左手でフックを返す。
そしてその手をそのまま引き戻し、左ジャブを鼻先にヒットさせる。
「かはっ!」
再び崩れ落ちる丈一郎。
「どーした、そんなもんか? やめるならやめていーんだぞ、お嬢ちゃん?」
丈一郎に、あえて挑発するような声をかける。
「!」
その言葉に丈一郎は奮起し、よろよろと立ち上がりながら再びファイティングポーズをとり
「うわあああ!」
右フック、そして左フックを繰り出す。
カァン
二分間が終了した。
「はあっ、はあっ、はあっ」
「とりあえず、今日んところはこんなもんにしとこーか」
そう言うと真央はグローブを外した。
「そんな、僕、僕まだやれるよ」
丈一郎は言ったが
「今日はもうやめとけ。相当疲労してるはずだからな」
真央も小さくため息をついた。
丈一郎の熱気に当てられたせいだろうか、いつも以上に飛ばしていたことを、体の疲労が伝えていた。
「明日からちっとづつラウンド増やしていこう」
「うん……」
そう言うと丈一郎はヘッドギアを外し、何となしに顔を撫でた。
「どうだったよ、初めてのマススパーは」
真央もヘッドギアを外しながら訊ねた。
「うん、全然動けなかった。それに…」
ため息とともに丈一郎はつぶやいた。
「…なんか怖かった」
ニイッ
「そんなもんだ。リングの怖さが実感できた、それだけでもでかい収穫だ」
そう言ってわしわしと丈一郎の頭を撫でた。
リングでグローブをかわした経験のあるものであるならば、誰しも経験があるはずだ。
体中の神経が集中している顔面を殴られる恐怖を。
鼻が折られ、頬骨が陥没する。
痛みとともに、取り返しのつかないことが自分自身の体に残るという恐怖。
リングにおがるもので、それをかんじないものなど1人もいないはずだ。
「ボクシングってのはな、殴ることじゃあねえ。殴られることなんだ。覚えとけ」
「う、うん」
丈一郎は恥ずかしそうにうつむいた。
「二人とも、お疲れ様」
そう言うとタオルを差し出し
「どうだった? 丈一郎君」
奈緒が真央に訊ねた。
「さっきも言ったけど」
タオルで頭を拭きながら真央は言った。
「体力とか筋力とか、基礎体力はなかなかのモンだ。それしかやれなかったからだろうけどな」
「うんうん」
わくわくした表情で奈緒が答える。
「ただな」
「ただ?」
「やっぱり対人練習の経験がぜんぜん足りねえ。あと」
ヒュン、ヒュン、ヒュン、何発かの左ジャブを放つ。
「固くなってマススパーじゃ腰の入ったパンチの打ち方ができてねえ」
「ごめん、怖くって、全然いい形できなかった」
頭を抱える丈一郎。
「ま、とりあえずの形には仕上げられんだろ。二週間あれば、ある程度の形にはなってると思うぜ」
励ますような言葉を真央はかけたが
「それじゃだめなんだ!」
ヘッドギアを壊れんばかりに強く抱え、丈一郎が怒鳴った。
「丈一郎君?」
丈一郎の言葉に、奈緒は戸惑いを隠せなかった。
「それだけじゃだめなんだ。聖エウセビオのボクシング同好会はすごい、そういわせてみたいんだ」
そう言うと丈一郎は肩を震わせた。
「なめられたくないんだ。僕も男なんだ。やるからには絶対勝ちたいんだ!」
その様子を、真央は無言で眺めていた。
そしておもむろに口を開き
「そうだったな。男はなめられたらお終いだよな」
そう言うと丈一郎の肩を組んだ。
「わかったよ。お前の男、立てられるように、俺も最大限努力するわ」
「マー坊君……」
目を潤ませて奈緒が言った。
「そんかわしハードル上げたのはお前だからな」
ぎろり、丈一郎の目を睨む。
「明日からはもっときつくなっから、覚悟せーよ」
「う、うん」
丈一郎は小さく頷いた。
「うっし、今日はあとシャドー10ラウンドやって終わりにすっぞ!」
そう言うと奈緒にヘッドギアを投げ渡した。
「きゃっ」
慌てて奈緒がそれを受け取った。
「奈緒ちゃん、よろしくお願いします!」
そう言うと丈一郎は真央よりも一足早く鏡の前に立った。
「よっしゃ、その意気だ」
そう言うと真央も鏡の前に立った。
「んじゃ、よろしく頼んます!」
そしてファイティングポーズをとった。
「わかった!」
そして奈緒はストップウォッチを構え
「用意!スタート!」
かわいらしいが力強い声がジムに響いた。




