3.9 (日) 9:40
「じゃ、奈緒ちゃん、頼むぜ」
10分程度の休息をはさんだ後、三人は部室へと入った。
汗をしっかりとぬぐった後、真央は再びウィンドブレーカーを着込み、奈緒に指示を出した。
「インターバル30秒で、1ラウンド分、アマチュアだと2分間か、カウントお願いな」
「うん! それじゃー、まずは……」
と元気よく返事をする奈緒。
「何からいくのー?」
「ん、そうだな」
腕組みをし、しばらく考えた後
「ロープいこうか」
そう言うと壁にかかったスピードロープを手に取り、丈一郎に投げ渡した。
「うん。頑張るよ」
丈一郎はそれを受け取ると、結び目を緩め
「何ラウンド?」
ロープスキッピングの準備をした。
「ま、8ラウンドってとこか。あ、ロープはインターバルなしでラウンド計算な」
「よし! 頑張る!」
自分に言い聞かせるように丈一郎は言った。
「じゃーいくよー! よーい、」
カチッ
「スタート!」
奈緒はタイマーをランにした。
本格的なデジタルタイマーはないものの、決められた時間ごとにゴングの音がなるストップウォッチだ。
ヒュンヒュンヒュン、トントントン
空気を入り裂くロープの音と軽やかな足の着地音がジム内にこだまする。
「いいペースだな、丈一郎。だがな」
ヒュンヒュンヒュンヒュンヒュンヒュン、真央はギアを一段階あげた。
両足から片足、片足のみ、前後への移動、様々な細かいステップを踏む。
「もっと早く! もっといろんなステップワークを加えんだ! いろんなリズムを自分の体にしみこませんだ!」
タンタン、タタン、タタタン、タンタン
「うん!」
タンタン、タタン、タタタン、タンタン
必死で真央のペースに追い付こうと丈一郎はあがき、その動きをコピーした。
「ストーップ!」
奈緒の声が響く。
あっという間に8ラウンド、プラス30秒のインターバル7回分の時間が流れた。
「はあっ、はあっ、はあっ」
膝に手をついて丈一郎がへばりこむ。
先ほどまでの長い距離のランニングとはまた違う疲労が足腰に蓄積していた。
ずっとかかとを上げ続けていたため、ふくらはぎが破裂しそうなほどに張り詰める。
何よりも、前腕と後背筋に鈍い重みがのしかかる。
明日の、今まで経験したことのないような筋肉痛を丈一郎は覚悟した。
「疲れても、絶対、膝に手をついちゃ、だめだ」
さすがの真央も疲れを隠せない。
ようやくウィンドブレーカーを脱ぐと、タンクトップ一枚になった。
その体から立つ湯気は、一瞬の霧が発生したかにも見えた。
「ロープ終ったら、グローブつけろ。サンドバッグだ」
パンチンググローブを装着しながら真央は言った。
のどに何かが絡みついたような、かすれた声。
「う、うん」
その様子を見て、丈一郎も慌ててパンチンググローブを装着した。
「あと15秒だよー」
と指示する奈緒。
「用意……スタート!」
カァン、デジタル音のゴングが鳴り響く。
「うっしゃ!」
ズシン、ズシン、鋭く、重いパンチがミットに食い込む。
「僕だって!」
パシッ、パシッ、真央に比べると軽いが、シャープなパンチが心地よい音を立ててバッグを弾き返す。
その様子を横目で見ながら、丈一郎に細かい指示を出す。
「そうだ丈一郎! 手だけで打つんじゃねえ! 踏み込みしっかり意識しろ!」
「うん!」
歯を食いしばってそれに応える丈一郎。
その言葉とは裏腹に、両腕が重い、いやすでに痛い。
今まではいつまでもフォームを維持できていたはずなのに、すでに体が悲鳴を上げていうことを聞かない。
しかし丈一郎はその攻撃を緩めようとはしない。
体が完全に機能停止するまで、体を動かし続けようと誓ったからだ。
「はあっ、はあっ、はあっ」
丈一郎は体力を使い果たし、床にへばりこんだ。
「もう、腕が、上がんない……」
「ぜえっ、ぜえっ、ぜえっ」
さすがにへばりこむことはなかったが、真央も完全に体力を使い果たした。
「とりあえず、少し水入れようぜ」
「お疲れさまー、二人とも」
奈緒は両手にタオルとスクイージーを抱える。
「丈一郎君どお? 何とかなりそう?」
「おお、サンキュ」
真央はそれを受け取り、汗を拭きながら水を数口含む。
「自己流でやっていた割にはなかなかのモンだ」
そして水を頭の上にかけ
「うっひょー、気持ちいー!」
そして頭をタオルで拭きながら
「かなりきっついことやってるつもりなんだが、真面目な性格なんだろうな、きちんとついて来ようとしてるよ。ただな」
「ただ?」
「どうしたってボクシングには一人でできねー部分もある。ま、それを教えるのが俺の役目ってこったな」
そう言うと奈緒にタオルとスクイージーを渡し
「うっし丈一郎、ミットやるか」
「ミット?」
「ああ。そういやお前にとっては初めてのミットか」
そう言うと棚からパンチングミットを取り出しリングに上がり
バシィン、ミットを胸元にたたきつけた。
「とにかく俺が指示出すからよ、それに合わせて動きゃいーんだ」
「う、うん!」
そう言うと再びパンチンググローブを手にはめ、丈一郎もリングへと上がった。
「よろしくお願いします!」
そう言うと左手を差し出した。
「よっしゃ、その意気だ」
真央はにやりと笑い、そのグローブを左のミットで合わせた。
「んじゃ奈緒ちゃん、準備してくれ」
「うん!」
そう言うと奈緒はストップウォッチを手にし
「用意……スタート!」
カァン
「ゴングだ!来い丈一郎!」
そう言うと左ミットを差し出し
「ジャブ!」
「シッ!」
鋭いジャブが繰り出される。
ビシィ!
「おら、脇があいてる!いちいち休むな!」
煽り立てるようなトーンで指示を出す真央。
「シッ! シッ!」
ビシッ、ビシッ!
「あごががっている!」
そして右ミットをあごの脇に置き
「右ストレート!」
「はぁっ!」
ビシィッ!
左ジャブからのストレート、基本のワンツーがリングの上で繰り返された。
カァン
「ストーップ!」
ゴングの音とともに、奈緒が声をはりあげた。
「はあっ、はあっ、はあっ」
初めて経験した、他人からミットをもってもらってのミット打ち。
重いサンドバッグを叩くよりも、真央の角度調節の妙ゆえか、心地よく打ち続けることが出来た。
しかし、それも最初のうちだけだ。
手を休めようにも、絶対に休息を与えさせない真央の指示が飛ぶ。
少しでも手を抜けば、それがそのままミットもち手の真央に伝わる。
そのたびに真央から怒声がとんでいた。
「よし、この後ミット5ラウンドやるから、きつかったら言ってくれ。こっからがきついんだからな。行けるか?」
真央が丈一郎に訊ねる。
正直に言えば、もうこれ以上体を動かすのはきつい。
しかし
「もちろん!」
強がりのような言葉の、真っ青な顔が持ち上がり、ファイティングポーズをとった。
「よっしゃ、その意気だ!」
その心意気を、真央は真正面から受け止めた。
「用意」
あっという間の30秒が過ぎ
「スタート!」
カァン
「よっしゃ!もう一度、ジャブ!」
「しゃっ!」
ビシィッ!
「はい! しっかり腰入れろ!」
鼓舞するような真央の声。
「うあぁぁぁぁぁ!」
それにこたえるような丈一郎の声。
二人の一挙手一投足を真剣に見つめる奈緒。
三人の熱気は春休みののどかな学校の空気を一瞬で真夏の空気へと塗り替えていった。
「ストーップ!」
奈緒の絶叫が5ラウンドの終了を告げた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
ロープに右手をかけた。
緊張の後の弛緩が丈一郎の体の隅々に疲労を行き渡らせた。
そのせいだろうか
「ぅ……」
そう言って丈一郎は口元に手を当てた。
「……ごめん、ちょっと……」
そう言うとグローブを外し、よたよたとジムの外へと出ていった。
「丈一郎君、どうしたの?」
リングの横でタオルを渡そうとした奈緒が声をかけるが
「……」
丈一郎は何の反応もなくドアの外へと出ていった。
ニイッ、真央は笑いながら
「まあ、そっとしといてやれ」
奈緒の肩を叩いた。
「?」
奈緒は振り返り、真央の顔を見つめる。
その意味が理解できない。
「男にはさ、女には見られたくねー瞬間てモンがあるんだよ」
奈緒の顔を見ることなく、丈一郎の出て行った扉の方向を見つめていた。
「どういうこと?」
やはりその意味が分からない。
「今がその時、ってこった」
男にしかわからない、いや、男同士であるからこそわかる気持ち。
強くありたいと思う男にとって、自分の情けない瞬間というものは、女には絶対に見せられないものだ。
きっと今、丈一郎は胃の中のものを全てぶちまけていることだろう。
その情けない瞬間、たとえ頑張った証拠だとしてたたえてくれる女性はいようとも、男は皆やせ我慢でそれに答えるのだ。
こんなことなんでもない、という風に。
「男なんだよ。あいつは」
「そうそう、初めてのミット、丈一郎君どうだった?」
目を輝かせて奈緒が訊ねる。
「んー、そうだな」
そう言うと真央は腕組みをして応えた。
「ビデオを見ながら練習をしてきたってのはわかるわ。サンドバッグなんかは結構様になってたけどな」
「うんうん、丈一郎君ね、すごい努力してたから」
奈緒は小さく拳を握りしめ、胸を張った。
「だが、やっぱりそれだけだ」
突き放すように真央が言った。
「圧倒的に対人練習の時間が足りねー。実際いろんな部分にぼろが出てる。これから二週間、どこまで修正できるか、ってとこか」
「難しそう?」
奈緒が心配そうな目で真央を見た。
「あいつ次第だ」
ガラッ、ジムのドアが開いた。
「ごめん、ちょっと……」
丈一郎がフラフラしながら入って来た。
目にはうっすららと涙がたまり、顔は青白かったが、休息をはさんだ盛夏期ほどよりは元気そうに見えた。
「あ、丈一郎君、大丈夫?」
奈緒は心配そうに声をかけたが
「……」
表情は笑っていたものの、言葉を口にするのもきついのであろう、丈一郎は黙ってサムアップを返すのが精一杯だった。
「じゃあ交代な」
真央は丈一郎にパンチングミットを差し出した。
「え? 僕が、持つの?」
「たりめーだろ。持ってもらったら持ってあげるのが礼儀ってモンだ」
「でもミット持ったことないし、それにどう指示したらいいか」
丈一郎は困惑した。
「絶対迷惑かけちゃうから」
「グダグダ言わんでリングに上がれ」
そう言うと真央は一足先にリングへと上がり
「大体のことは教えっから」
そう言って軽く屈伸をした。
「う、うん……」
促されるままリングへと上がった。
生まれて初めてミットを構える丈一郎。
「こう、かな?」
真央がその位置の修正を行う。
「もぅちっと、こう……」
ミットを真央の高さに構えなおさせ
「……こうして、こう……」
右手をあごの位置にひかせ、左手をやや前に構えさせた。
「……おし、これが基本の位置だ。大体でいい。覚えとけ」
「うん」
その言葉を丈一郎は真剣に聞いていた。
「最初の方は俺のほうで指示出すからよ。それにしたがって構えてくれればいい。そこから徐々に覚えていけ」
そして奈緒のほうを見て
「よっしゃ、じゃあ奈緒ちゃん、これから5ラウンド、またよろしくな」
「わかった!じゃーいくよー。用意」
グッ
丈一郎と真央、二人の体に緊張が走る。
「スタート!」
カァン
「しゃあ!」
真央の気合がジム中に響く。
リングが、壁が、そして丈一郎の体がびりびりと震える。
「ジャブ!」
真央の構えを思い出しながら、丈一郎が右ミットを差し出す。
「シィッ!」
ボンッ!
「うわっ!」
初めて経験するミット持ち。
しかも自分より20㎏は思いウェルター級のパンチだ。
その重さと迫力に丈一郎は圧倒され、思わず体ごとミットを引いてしまった。
「びびんじゃねえ!」
真央のどなり声が再びジムを震わせる。
「う、うん」
丈一郎の目はやや潤んでいた。
「いいか!? 持つことも練習だ! パンチをミットで迎えるんじゃねえ! パンチを掌で殴り返すんだ!」
「ジャブ!」
恐怖感を噛み殺し、真央の前に正対する。
「うっしゃ、いくぜ!」
バシィ!
「そうだ! 俺のパンチをよく見るんだ! これがスパーリングで生きてくるんだ!」
バシッバシッバシィ!
カァン
「ストーップ!」
奈緒が時間の経過を知らせる合図を出した。
「ふうっ」
大きく真央が息をついた。
「はあっ、はあっ、はあっ」
ミットを持っていた、当の丈一郎が息を上げていた。
およそ15分間、指示を出しつつ真央のミットを持ち続けた。
最初は、持つだけならばそれほどつらいものではない、そう考えていた。
しかし、軽いはずのミットが、いつの間にか石のようになった。
真央のコンビネーションを受けるたび、自分もその鏡あわせで体を動かし続ければならない。
「どうだ、結構きついだろ?」
こともなげに訊ねる真央。
「まだ俺に動かされてるから、ってのもあるんだ。きちんと意識して俺を動かせるようになれば、そんなに疲れねーよ」
「はあっ、うん。はあっ、はあっ」
再びロープにもたれかかり丈一郎が答えた。
ミット打ちとは、相手の練習だけではない。
自分自身のコンビネーションの練習でもあるのだ、と丈一郎は気がついた。
そして再び丈一郎は
「……」
無言でミットを外し、そのままジムの外へと出ていった。
その後姿を、真央はまぶしそうに見つめ、小さく呟いた。
「……ま、しばらく休めや」
そのまま丈一郎がジムに戻ってくるまで休憩となった。




