3.9 (日) 8:50
「ほんじゃまあ」
真央はジーッとウィンドブレーカーのファスナーを上げた。
念入りな柔軟体操を終え、いかにも準備万端整ったという余裕を見せる。
ふっ、と大きく息を吐くと
「とりあえずはじめっか」
「いよいよだねー」
と奈緒は胸を高鳴らせる。
自分が立ち上げたこの同好会、今まですべてが手探り状態だったが、それが始めて形になる、奈緒はそれが一番嬉しかった。
それは丈一郎も同様だった。
「うん! よろしくお願いします!」
同じくウィンドブレーカーに身を包む丈一郎。
今まで自己流でも一生懸命やってきた。
しかし、その自分がプロ志望の本物のボクサーの動きについていけるだろうか。
不安とともに沸き上がる高揚は隠しきれない。
「うっし、まずはっと……」
そういうと真央はポケットからメモ用紙を取り出し
「ロードワークといくか」
奈緒にメモを手渡した。
「とりあえず、5㎞が目安だ」
入念なストレッチを繰り返しながら真央は言った。
「後から自転車でついてきて、どこをどう走るか指示してくれ」
「うん!」
意気込む奈緒は、元気よく返事を返した。
「でも、このメモに書いてる文字、これはなーに?」
「奈緒ちゃんの判断でいいから、様子見ながらそこに書いてある指示出してくれ」
と真央は注文をつづける。
「わかった!」
明るく返す奈緒。
「じゃあマー坊君、お願いします」
ニヤリ、真央は丈一郎を見て笑う。
「ついて来いよ。俺ははえーぜ」
そう言うと
「うっしゃ!」
部室の前を校門に向かって走り出した。
「うん!」
パンパンッ、丈一郎は気合を頬に注入し、勇んでその後を追う。
「よし! ファイトファイトー!」
その後ろで二人に明るい声をかけながら奈緒は自転車をこぎだした。
軽快に走る二人。
その後をマネジャーの奈緒が追いかけ
「次、校門出たら右側に曲がってー!」
二人に声をかける。
「なかなか、いい、ペースじゃねーか」
真央が丈一郎に声をかける。
「うん、ラン、ニング、だけは、しっかり、やって、きたから、ね」
と返す丈一郎。
タッタッタッ
「成程、な、じゃ、大丈夫、か」
タッタッタッ
「え?」
「ペース、上げん、ぞっと!」
タタタタタタタタタ、真央のペースが一気に上がった。
「ちょ、ちょっとまってよ、マー坊君!」
「しばらく行って待ってっから、奈緒ちゃんは丈一郎よろしくな」
タタタタタタタタタタタタタタ、風のようなスピードで真央は二人の前から消え去った。
「……すごーい、マー坊君」
奈緒は驚嘆の声を上げた。
その後姿を丈一郎はしばらく呆然と眺めていたが
タタタタタ
「僕も! 負けて! いらんない!」
真央の後を全速力で追いかけた。
「うん! 丈一郎君もファイト!」
奈緒の声がそれを後押しした。
シュッシュッシュッ
「おっ、ようやくきたか」
河川敷の土手の上、すでに真央は待ち構えていた。
よほど余裕があったのだろうか、軽快にシャドウをこなしていた。
「はあはあはあ」
真央の顔を見た丈一郎は、その足を止めようとしたが
「まて、止んな」
シャドウをしながら真央は言った。
「え?」
丈一郎が返す。
「止んなっつってんだ。きつくても体動かせ。口で息すんな」
同じボクサーとして、絶対に心がけておくべきことを、厳しい口調で真央は言った。
「はあはあはあ、でも」
今まで経験したことのような心肺の動悸に、つい丈一郎は弱音を吐きそうになたが
「まー始めたばっかだからな。きついなら別にいーぜ。これから徐々に上げてけば……」
余裕綽々と言った漢字の真央は、やや挑発するような言葉を浴びせる。
その言葉を聞くと、丈一郎は発奮し
「やるれよ! 全然問題ない!」
シュ、シュ、シュ、シュ、よろよろとシャドウを開始した。
「ほー、やるじゃねーか」
真央は呟いた。
見た目によらないその根性は少々以外でもあったが、ここからが本番だ。
「じゃ、奈緒ちゃん、最初のメニューよろしく」
「うん。えーと」
そう言うとポケットからメモを取り出し
「ダッシュ、用意!」
「よっしゃ!いくぜ!」
と自分を奮い立たせる真央。
「え?どういう……」
事態が呑み込めていない丈一郎が戸惑う中
「スタート!」
奈緒が元気よく号令をかけると
「いよっしゃぁぁぁぁぁぁ」
ダダダダダダダダダダダダダダダ
胸を高らかに張り、両手両足を大きく振りすさまじいスピードで真央が駆け抜けていった。
その気合の入った後姿を見た丈一郎は
「僕も! 負けない!」
ダダダダダダダダダダダダダダダ
苦しさをかみ殺し、全身全霊のダッシュを見せた。
「あぁん、まってよぉー」
奈緒は二人の後姿を自転車で追いかけた。
真央と丈一郎、全くの無呼吸のままいつ止まるとも知らないダッシュを続ける。
丈一郎はもはや完全に意識がとびかかっていたが
「ストーップ!」
後ろから奈緒の声が響く。
すると真央は少しづつ足を緩め、再びジョギングのスピードへと戻った。
それに合わせ、丈一郎も足を緩めた。
「かはぁ、かっ、はっ」
丈一郎の横腹がきりきりと痛む。
酸素を体内に行き届かせようにも、体がそれを受け付けようとしない。
すると
「ダッシュ、用意!」
奈緒の、非情にも聞こえる声が響く。
「スタート!」
「いよっしゃぁぁぁぁぁぁ!」
ダダダダダダダダダダダダダダダ
先ほどと変わりのないスピードで真央が走り去った。
「……」
丈一郎は、信じられない、という表情でその後姿を眺めた。
「……えと、ねえ、丈一郎君」
奈緒が、ためらいがちに声をかける。
「マー坊君はプロボクサー志望なんだし、いきなりそんなに無理しなくても……」
すると丈一郎はふるふると体を震わせたかと思うと
「うわぁぁあああああああああ!」
口中からあふれる唾液や胃液とともに、悲壮な叫び声を上げて走り出した。
トタトタトタトタ
気合とは裏腹のスピードだったが、丈一郎は自分自身に喝を入れ、真央の後を追いかけていった。
シュッ、シュッ、シュッ
「ふっ、ふっ、ふあっ」
再びシャドウをしながら真央が待っていた。
丈一郎が追いついたことに気づくと
「きついか?」
「……」
青い顔をした丈一郎は無言で親指を立てた。
きつくないはずはない。
意識は朦朧とし、軽い耳鳴りまでする。
その様子を未ながらも真央は
「じゃあそろそろ、奈緒ちゃん頼むぜ」
次なるダッシュの準備を促す。
こくり、奈緒は真剣な表情でうなづき
「ダッシュ、用意!」
「「いよっしゃああああ!」」
二人は悲鳴にも似た叫び声を上げ、自身のこころを奮い立たせる。
「スタート!」
奈緒の号令に食い込むかのような勢いで
ダダダダダダダダダダダダダダダダ
トタ トタ トタ トタ トタ トタ トタ トタ
スピードは全く違うものの、気合にあふれた二人の姿を奈緒は自転車で追いかけた。
「はあっ、はあっ、はあっ」
真央から十分以上遅れて丈一郎は部室の前にたどり着き
「はあっ!」
そしてそのままへたり込んだ。
シュッシュッシュッ
「きついか?」
軽やかにシャドウをこなしながら真央は言った。
「はあっ、はあっ、はあっ、うん」
丈一郎は青天井を仰いだ。
「はあっ、はあっ、はあっ、マー坊っ、君っ」
もはや会話のための呼吸もままならない。
「はあっ、はあっ、はあっ、きつくっ、ないのっ?」
シュッシュッシュッ
「んな、わけねーだろ」
冷静にシャドウを繰り返しながらその言葉に答えた。
「え?」
その言葉に丈一郎は驚愕した。
きつくないはずはない、といいながらも、ダンスを踊るような軽やかなフットワークを踏む真央。
とてもきついようには見えなかった。
シュッシュッシュッ、さらに真央は言葉を続けた。
「こんだけ追い込むランニング、きつくないわけねーだろ」
その言葉は、丈一郎には理解しがたかった。
「でも、なんでそんなに……」
シュッシュッシュッ
「きつければきついほど、俺は強くなれると信じてーんだよ」
真央の瞳は、あくまでも真っ直ぐ前を見つめていた。
当然だ。
これほどのランニングとダッシュ、きつくないはずはない。
真央自身も、何度かこころを折りかけたほどだ。
しかし、世界チャンプになるという夢が、その折れそうなこころをどうにか支えた。
自分の強さに、真央は絶対的な確信を持っている。
その裏には、絶対的な練習量と、それをこなしてきたという自身が存在しているのだ。
「マー坊君……」
真央のその言葉に何かを悟った丈一郎は立ち上がり
「ふっ、ふっ、ふっ」
シュ、シュ、シュ、シュ、シャドウを開始した。
この一年間、必死で自分自身を追い込んできたつもりだった。
しかしそんなものは思い上がりでしかなかった。
目の前で拳を振るうこの少年に比べれば、その密度からして全く違ったのだ。
だからこそ、だからこそこの少年と同じ景色が見たい。
本当の強さを持った、1人の男としてみる景色をこの目にしたい。
この体が完全に機能停止するまで、今日はこの少年についていこうと思った。
その様子、1人のボクサーの誕生をその目で見た少年は
「ぎゃははは、やるじゃねーか」
と笑った。




