3.9 (日) 8:40
「あ、うん、僕は川西丈一郎」
恐る恐る手を差し出し
「はじめまして」
少しはにかむようにして笑った。
「よろしくな、丈一郎君」
ごつごつした石のような手が、丈一郎の手を握り返す。
「えと、秋元君、でいいのかな?」
その目をのぞき込むように丈一郎が訊ねると
「さっき言ったとおりだ。マー坊って呼んでくれればいい」
真央も笑顔でそれに答えた。
「う、うん。わかったよ」
再びその顔はふにゃりとした笑顔に変わった。
「じゃあ、マー坊君、僕のことも丈一郎、って呼んでよ」
「丈一郎、か」
ニヤリ、真央も笑った。
「ボクサーらしい、いい名前だな」
真央の頭には、“浪速のジョー”こと、元WBCバンタム級チャンピオン辰吉丈一郎の名前が思い浮かんだ。
1990年代に一世を風靡した、天才的センスとスピード、そして華やかさを持った最高のカリスマだ。
おそらく、父親が強くなって欲しいという願いを込めてつけた名前なのだろう、ともすれば女性と間違われかねない名前をつけられた真央はそれを少々羨ましくも思った。
「丈一郎君はね、わたしのわがままに付き合ってくれた唯一の人なんだ」
それまでその様子を眺めていた奈緒は、わずか一年前の当時を懐かしむかのように言った。
「去年の春ね、わたしが同好会を立ち上げたとき、丈一郎君だけがあたしのわがままを聞いて一生に同好会員になってくれたんだー」
「ってことは……丈一郎のボクシング経験は?」
と真央は訊ねるが
「最初は奈緒ちゃんの強引さに根負けした、って形で始めたから、まだ一年もたってないよ」
丈一郎は苦笑いし答えた。
「けど実はもともとボクシングには興味あったし、今となっては感謝してるんだ」
丈一郎自身も、直接は聞いたことはないが、父親がどのような思いを込めて自分に名前をつけたかは薄々感づいていた。
だからこそ、名前に負けない男になりたい、そのような思いは口にこそ出さなかったがずっと抱いていたのだ。
「丈一郎君、すっごい真面目だし頭いいからさ、メニューとかも自分で考えてくるんだよ」
奈緒は自分のことのように胸を張った。
「とはいっても、ほとんど自己流だけどね」
と丈一郎は照れ笑い。
「きちんとした、生きた練習かどうか実感わかないし。何よりスパーリングパートナーもいないから、ほぼ素人同然だよ」
「だからマー坊君にコーチをお願いしたんだよ」
奈緒は言った。
「二週間後の練習会、練習会って言うよりもスパーリング会って言うべきかもだけど、マー坊君の力があれば、絶対丈一郎君がいいところ見せられるようになるよ」
その言葉に
「マー坊君って、やっぱり強いんだ」
目を輝かせて丈一郎は訊ねた。
「うん! マー坊君ね、ひったくり三人をまとめて倒したくらい強いんだよー」
「本当に!?」
丈一郎は目を丸くし、羨望のまなざしで真央を見た。
「ったりめーだろ? ばあさんの荷物ひったくるような連中、何人来たって敵じゃねーよ」
と自慢げに語るが
「ま、そのあとこの子に警察に突き出されそうになったけどな」
奈緒にたいし皮肉を込めた言葉を真央は口にした。
「えへへへへへ」
奈緒は頭をかき、ごまかすように笑った。
「ま、それはご愛嬌、ってことで……」
「いや、洒落になんねーって」
そう言うと真央は顔をしかめた。
そして丈一郎に向かって
「一応こーみえてもボクシング歴10年以上になるんだ。今年、プロテストうけよーかとも思ってる。ボクシングに関しては妥協するつもりはねーよ」
「すごいね! 何か、すごいカッコいい!」
そう言うと丈一郎は顔を輝かせた。
「いやー、それほどでも……あるけどな。何せおれは世界チャンピオンになることを約束された人間だからよ」
それがさも当然、とばかりに真央は自信あふれる言葉を口にした。
他の人間が口にすれば、場合によっては鼻持ちならない言葉だが、この底抜けに陽気な男が口にすると、どこか稚気を含んでほほえましく、そしてそれが実現可能であるようにも思えた。
「けどよ、奈緒ちゃんにも言ったけど、俺も人に教えた経験ねえし、何よりアマチュアボクシングのことあまりよく知らねーんだ」
そう言うと真央は頭をもしゃもしゃと掻いた。
「だから、まずはとにかく一緒に練習してみようや」
「それで十分だよ!」
丈一郎はぷるぷると顔と両手のひらを振った。
今までは全て、自分自身で考えてメニューを作らなければならなかった。
すべてが手探りの状態で、本当にこれでいいのだろうか、と迷うこともあった。
しかし、ようやく本物のボクサーに出会うことが出来たのだ。
自分は、もっと強くなることができる、その実感に丈一郎は胸を高鳴らせた。
「マー坊君、よろしくお願いします!」
と頭を下げた。
「じゃあ予定通り9時から練習開始ね」
そう言うと奈緒は自分のバッグを肩に抱え直した。
「二人とも着替えてまっててねー。私も支度してくるから」
そう言うと校内の更衣室へと向かって出ていった。
奈緒が扉を閉めたことを確認した後
「じゃあさマー坊君、ここ更衣室ないから、僕はいつもここで着替えてるんだ。その辺で適当に着替えてよ」
「ああ、ほんじゃ、適当に」
そういうと、真央はバッグを下ろして支度を開始した。
学生服を脱ぎ、そしてバッグからタンクトップを出して上半身裸になった。
「うわっ」
丈一郎は驚嘆した。
「マー坊君って、すごい体してるね」
「そう?」
真央は自分の体を見回す。
「まあ、俺ウェルター級だしな、こんなもんだろ」
「……」
その体を見て丈一郎は恥ずかしそうに、できるだけ裸体を目立たせないように着替えを続けた。
「どうした? 男同士なんだから、恥ずかしがる必要もねぇだろ?」
上半身裸のままの真央が言った。
「いやぁ……」
丈一郎はブレザーで体を隠した。
「マー坊君の体見ちゃったら、なんかさ、僕の体貧弱すぎて、恥ずかしい……」
「んだよ、気持ちわりーな」
その言葉を聴くと真央は丈一郎の体を一瞥し
「そんなことねぇよ」
強引にブレザーを取り上げた。
「結構いい体してんじゃねぇか」
真央の目に飛び込んできたのは、確かに屈強な体とはいえないが、脂肪のついていないボクサーらしい体型だった。
「地道なトレーニングばっかやってたってのは、嘘じゃねーみてーだな」
「そ、そうかな」
丈一郎は顔を赤くした。
「お世辞でも嬉しいよ」
「お世辞なんか言わねーよ。ほら腹筋だって」
真央は指で丈一郎の腹をつついた。
「これだけ絞り上げられてるんだ。相当鍛えてきた証拠だぜ」
「ははっ、ちょっとやめてよマー坊君」
丈一郎は脇の下にこそばゆさを感じた。
「ひゃはははは、やめてよ。そう言う君だって、ほらこんなに」
「ぎゃははっ、やめろって」
今度は丈一郎が真央の脇に手を滑り込ませた。
「へんなとこ触んじゃねえよ。ぎゃははは」
男同士が和気藹々とじゃれあっていると
ガラッ、出入り口の扉が開けられた。
「奈緒ー、あんたあたしの靴下間違えて……」
奈緒に用事があって部室に入って来た桃の目の前には
上半身裸の男たちがくすぐり合う姿が。
「あんたたち! 男同士で何やってるんだ!」
桃は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「あ、く、釘宮さん!」
裸で男同士、一体何を想像しているかは、丈一郎にも容易に想像がついた。
「ん? お前ら顔見知りか? って、いや、桃ちゃん、何想像してんだ!」
そしてそれは真央も同様だった。
「うるさい! 問答無用だ!」
頬を赤らめた桃は二人を怒鳴りつけた。
「ほえ、桃ちゃん、どおしたの?」
その後ろから奈緒がジムを覗き込み
「ありゃー」
頬を赤らめる。
「「ちがう!勘違いしないで!!」」
二人の声はむなしくジムにこだました。




