第六部 6.4 (水) 7:30
「ねえねえ、そういえば、夏期講習の予定とか決めてる?」
「うーん、まだわかんないなあ……私はできれば内部進学で大学行きたいと思っているんだけれど……」
うんざりしたような表情で、二人の少女はため息をつく。
聖エウセビオ学園へと向かうその足取りは重く、これから自分自身に待ち受けてる未来、その現実の重さに耐えきれないと出も言わんばかりのものだった。
「あーあ、どっかにいい男でもいないかなあ」
「無理無理。うちの学校の男なんて、みんなひょろいっていうか、ダサい感じの男ばっかだもん。合コンとかで見っけた方が全然いいよ」
「けど……ほらあの人。二年生の」
「二年生のあの人って……秋元先輩のこと?」
「うん!」
一人の少女は大きく頷いた。
「背も高いし恰好いいし、それに、ボクシングで関東大会出るとか超格好良くない? 私実は結構好きなんだけど」
「まあ、そりゃ確かにそうだけど……」
ふう、その横を歩く少女はため息をついた。
「正直ライバル多いよあの人。聞いた話だと、秋元先輩って、釘宮さんの家に同居してるんでしょ?」
「うん。確かいとこ同士なんだっけ」
「お姉さんの釘宮先輩は、今すぐにでもモデルになれるくらいのクールビューティーだし。妹の奈緒ちゃんは、女の私が見たって抱きつきたくなるくらいのグラマーボディーだしさ」
コツコツコツ、ローファーの底が鳴らす音は、聖エウセビオ学園へと続く、ていねいに舗装された歩道が作りだす音だ。
「それだけじゃないよ。あんたも知ってるでしょ? 礼家先輩のこと」
「え? もしかして、生徒会副会長の礼家葵先輩も秋元先輩を?」
“寝耳に水”の友人の言葉に、少女は目を大きく開いた。
「あの人ってすごくおしとやかに見える人だから……ただ釘宮さんと同じクラスだから一緒にいるもんだとばかり思ってたんだけど……」
「私もそう思ってたんだけどさ」
もう一人の少女は耳元でささやいた。
「……水泳部の子から話聞いたんだけど、結構大胆にアプローチかけているらしいんだって。どうやら、あの釘宮姉妹と秋元先輩の間に割って入ろうとしているらしいよ……」
「……はあ……あんな才色兼備の塊みたいな人相手に、あたしみたいな平凡な女子高生が迫ったって勝ち目無いじゃん……」
少女は深いため息をついた。
「あーあ、結局は最初から無理だったってあきらめるしかないのか……」
「……あながちそうだとも言い切れなんじゃないかとも思うんだけど……」
もう一人の少女は、首を傾げて呟く。
「これも聞いた話なんだけど……秋元先輩、あれだけ女の子に囲まれてても、全然なびくそぶりを見せないんだって」
「え?」
少女は目を輝かす。
「そういえば、川西君とか瀬川とかとかと一緒にいることも多いし……もしかして、秋元先輩ってゲイ?」
「……それはそれで私も興味深いところだけど……」
隣を歩く少女は苦笑いを浮かべる。
「けど、そういうわけでもなさそうだよ。暮らしの女の人に囲まれてるの見たことあるけど、いつも顔真っ赤にしてるしさ。女の子に完全に巨皆買ったら、あんな顔にはならないんじゃないかなって思うんだ。それに、どうやらあんな感じなんだけど、女の子と付き合たこいとないらしいよ?」
「マジで?」
少女は目を輝かせた。
「うそー、超かわいいんですけどー。そっかー、そういう意味では、まだまだ私にもチャンスがあるのかなー」
「チャンスは、きっとこの学園のすべての子にあるんじゃないかな?」
隣の少女の目の前には、がっしりとした作りの学校の正門が見えた。
「きっと……私にだって……」
「ん? どうしたの?」
「へっ? ううん! 何でもないっ! ……って、あれ? なんだかすごい人だかりできてない?」
「……本当だ……いったい何があったんだろ……」
——―
「っぷふあー! たまんねーぜ!」
ホースの蛇口を頭の上にかざし、我らが秋元真央は心地の良い歓声を上げる。
いや、それはむしろ雄叫びといってよいものかもしれない。
「いやーもう夏なんだな。久方ぶりのホースシャワーだけどよ、こんなに気持ちいもんだったこと、すっかり忘れてたぜ」
「本当だね」
ゴムホースを受け取るのは、川西丈一郎。
「けどさ、始めのうちはこのホースシャワー、ちょっと恥ずかしかったんだけど、怖いものだね、僕もなんだか慣れちゃって全然気にしなくなっちゃったよ」
そして、ばしゃばしゃと頭の上からホースの冷水を浴びせかけた。
「ふわー、っていうか、こんな開放感のあるところでの水浴びの心地よさ知っちゃったら、しばらくはシャワールームなんか使う気にならないよ。レッド君も、そう思わない?」
「そ、そう思います。自分も」
今度はレッドがホースを受け取ると、ばしゃばしゃと冷水にその身を浸した。
「ふわー、なんだか、本当に気持ちがいいっす」
「へっ、温室育ちの手めーらにも、ようやくこの心地よさが伝わったか」
真央はにやりと口元に不敵な笑みを作った。
「しっかしよ、三人でホースシャワー浴びるなんて、もしかして初めてじゃねーか? 今までレッドがもたもたしてっから、大体俺と丈一郎だけなのによ」
「そうだね。レッド君、今日は遅れながらも何とか自分の力だけで走りきれたもんね」
へにゃっとした、いつものあどけなさの残る笑顔を丈一郎は浮かべた。
「僕たちとか大会運営の手伝いばっかりだったから全然練習の相手してあげられなかったのに。すごいじゃん」
「い、いやー、実は、練習終わった後も、家に帰ってからもロードワークしていたものでして」
レッドは少しだけ顔を赤らめた。
「ほ、ほんの少しだけですが、体力がついた様な感じがします」
「おお! そういやレッド、少しやせたような気がするな」
真央は大きく頷いた。
「今、体重どれくらいになった?」
「だ、大体六八キロくらいには……」
「すごいじゃん!」
ぱちぱちと丈一郎が手を鳴らす。
「この調子でいけば、ライト級まで手が届きそうだね!」
「ウェイト落ちてきた分、体の負担が軽くなってきたってことだな」
真央はその丸太のような腕を組んだ。
「へっ、ようやくお前も、俺らと同じステージに立つ準備ができ始めてきたってとこか」
ニイ、その顔には再び笑顔が浮かぶ。
「おっしゃ! さっさと授業終わらしてよ、ボクシングやろうぜボクシング! 俺らにゃボクシングしかねーんだよ! 勉強とか女とか、そういうくだらねーもんにを向けてる暇なんかねーんだよ!」
「ははは、そ、そうだね……けど……」
――マー坊君が、完全に綾子さんの事を吹っ切れたみたいで、本当に良かった――
そう言いかけた丈一郎だったが、口をつぐんだ。
―――
「ん? なんかあそこに、すげー人だかりできてんぞ?」
手早く着替えを終え、エナメルバッグを肩に下げる真央は目を細める。
「……うっとおしいな……さっさと行くぜ、丈一郎、レッド」
「う、うん」
「は、はいっしゅ!」
二人はそれにつき従った。
「あれ?」
三人の姿を認めた人だかりの中の一人の少女が歓声を上げる。
「秋元君だ!」
「えー! ホント!?」
「ほんとだ! 秋元君だ! それに川西君もいるよ!」
「う、うぉっ!? なんだ?」
悲鳴にも似た歓声を上げた少女の一群は、あっという間に真央と丈一郎を取りかこんだ。
「すごいすごいすごいすごい! 秋元君って、本当にすごいね!」
「やーもう、なんで大会群馬県でだったの? あーん、せめて日曜だけでも応援行けばよかったー!」
「ほんと格好いいんだからー! ねえねえねえ! 感想聞かせてよ!」
「だーっ! 何なんだよ!」
真央は顔を真っ赤にして、自らの体に密着する少女たちから体を離した。
「なんで? だって。もー照れ屋なんだからー」
少女の一人は真央の腕をとると、正門の上を指差した。
「ほら、あんなにでかでかとかいてあったら、気づかない子なんていないんだからー」
「あん?」
その指先がさす方向、真央が目にしたものは――
“祝 二年A組秋元真央君、関東大会優勝、インターハイ出場決定”
「? いつの間にこんなもんが……ってうぉっ!?」
真央の体に、競うようにして奥の女子生徒が群がり、その体を密着させた。
「あの壮行会で言ってたこと、本当に実現させちゃうんだね! 有言実行じゃん!」
「インターハイっていつなの? 今度こそ教えてよ! 絶対応援行くんだから!」
「ねえねえねえ! 今日も練習あるの? よかったらさ、どっか行こうよ! 祝勝会しようよ!」
「お、お願いだから……そんなに体密着……」
真央の前身は凍り付いたように硬直した。
その時
「おわっ!?」
「いい御身分だな、マー坊」
「も、桃ちゃん……」
真央の腕を強引に引きずり、桃は真央をその囲みから救い出した。
「た、助かった……って、あん?」
真央は全身が縮み上がるような寒気を覚えた。
「あらあら真央君、女の子に囲まれて、すごく幸せそうな表情をされていらっしゃるようで何よりです」
「ほんとだねー。最近のマー坊君、なんだかモテモテだねー。そんなに鼻の下の美ちゃってるんだもんー。男冥利に尽きる、ってもんだもんねー」
笑顔のその両目の奥には、一切の火がともっていない。
真央の脳裏には、昨日の“紫との一件”がよぎる。
「……やべえ……」
そうつぶやくと真央は肩にエナメルバッグをかけなおし
「じゃ、じゃあな! お、俺は一足先に教室いってんぜ!」
そう叫ぶと一目散に教室の中へと駆けていった。
「あーん、まってよお秋元君!」
「話聞かせてよー! 秋元先輩ー!」
真央を取りかこんでいた女子は、不服そうな叫び声を上げた。




