6.3 (火)11:30
シュウゥ――ン――
静かになる、自動ドアの開閉音。
改悪時代のアメリカ西部をイメージした、真央たち行きつけの喫茶店“カフェ・テキサコ”
食洗機から取り出した食器を、神経質に棚に添えている中年の店主は、その音のなった方向を振り向く。
「いらしゃいませー」
来客用ではあるが、どこか気の置けない雰囲気の微笑を向けたその相手――
「おー、久しぶりじゃない。確か……聖エウセビオのボクシング同好会のメンバーだったよね?」
「二名ばかり、部外者がいますけど」
葵はおしとやかな微笑と、慎ましやかな仕草で小さく頭を下げる。
「もしよろしければ、席をご案内いただけますか」
その後ろで桃も小さく微笑み会釈した。
「あらあらあら、いーじゃない。店の中がまるで芸能事務所にでもなったような感じだよ」
店長は目を細めてカウンターから出てきた。
「あれ? そういえば、君だけはすごーく久しぶりじゃない? もじゃもじゃくんが来てくれたのなんて」
「……うっせーよ」
店長は、能天気ににこにこと口を開く。
「ところで……君たち、今日は学校じゃないの? もしかして、集団エスケープ?」
「表現が古いんだよ大将」
真央は少々いらだったように言った。
「昨日まで部活の公式戦だったんだよ。ほんで今日まで学校公認の公欠なんだよ。わかったらさっさと席に案内しろ」
真央の“大将”という言葉に、店長は少々不服気味だ。
「……だから大将、って呼ばないでよ。居酒屋じゃないんだから。このアメリカ西部をイメージした店には似合わないでしょ? だから、マス―」
「――おらあ、大将! 注文してんだろうが!」
背後から響くがなり声に、店長はため息をついてこぼした。
「……もう……ヤマさん……いい加減にしてくれよ……」
「あ? 何つべこべぬかしてやがんでぇ。さっさとラガー持ってきやがれ! ラガーだ。ら・が・あ!」
「ぎゃははは。ようじじい、相変わらずこの昼間っぱらから飲んだくれてやがんのか」
真央は豪快に笑い、そして憎まれ口を叩く。
「定年迎えたじじいは気楽なもんだな。どうせアル中じじいにゃ行くところねーんだろうから、仕方ねーか」
「けっ、なにをいやがる、ガキ。てめえこそ学生の分際でふらふらこんな店きやがって。勉強しねーとただでさえ悪い頭がいそう悪くなるってモンだ」
空になったラガーのグラスをいい調子でつまむと、こちらも笑って憎まれ口を返した。
「ところで、大会終わったなんていってるが、ボクシングの大会だよな? 普段あんだけでけえ口叩いてんだから、当然それなりの結果出してんだろうな?」
「誰に物言ってやがんだじじい。この世界最高の大天才に向かってよ」
口の端をゆがめてニイと笑った真央は、さも当然、といわんばかりに胸を張った。
「関東大会優勝とインターハイ出場だ。ま、この俺にとっちゃあ、当たり前の結果だがな」
「ほお、なかなかやるじゃねか」
隙間だらけのはをむき出しにして、ヤマさんは豪快に笑った。
「おっしゃ! だったらなおさら祝杯挙げなきゃなあ! おう大将、さっさとラガーもってこいや!」
「……なにかにつけて飲む口実にするんだからもう……」
店長はため息をついて、そしてカウンターの奥へと向かって叫んだ。
「ごめーん! 今こっちのお客さんのご案内するから! 悪いけど、ヤマさんにラガー、グラス一つ一つ出しといてえ!」
店長の呼びかけに
「はーい」
カウンターの置くから明るい声が一つ返ってきた。
―――――
「なんだか、ほんとにあっという間ー」
昔着ていた服を、何年かぶりにまた来たような、なんともちぐはぐな感覚をおぼえながら奈緒は言った。
「ついさっきまで群馬県にいたのにねー。東京に戻ってきたのが、なんだか嘘みたいー」
「ははは、そうだね」
へにゃりとした微笑を返したのは、丈一郎だった。
ガラスの大きな壁を通して、忙しく行きかう人々と自動車の群れは、丈一郎の心を少しだけ疲労させる。
「今までは見慣れていた風景だけど、あの群馬の静かな雰囲気のほうが、今となってはしっくりきちゃうな」
「ま、もうそんなのんびりしたことも言ってられなくなるけどね」
こちらも、ほんの少しだけ疲労感をにじませる言葉を口にする桃。
「明日からは普通に学校が始まるし。それにあたしだって再来週には関東大会があるんだから。あんたたちにかまけていられるのも、今日くらいまでだからな」
「お、そうか。陸上の関東大会は、どこでやるんだ?」
「神奈川」
桃はそっけなく真央に答えた。
「おっし、じゃあ、今度は俺達が応援に――」
「――来なくていいから」
またも感情のこもらない言葉を、桃は真央に返した。
「はははは、釘宮さん、もしかしてマー坊君が来ちゃうと、意識しちゃってベストなパフォーマンスができなくなっちゃうから――」
「川西君!」
「ははは、冗談冗談。ごめんごめん」
丈一郎は笑って舌を出した。
「ほら、そんなことより。注文したメニューが届いたよ」
「お待たせしました」
向かい合う六人の頭上から声が響く。
「えと……こちら、ブレンドですね」
「おう」
真央はその声の方向を振り向くこともせず、ヒジを付いたまま目の前にすえられたカップを眺めた。
そして、コーヒーカップに指をかけ、そしてそこからク揺る香りを静かに吸い込む。
こちらもまだ東京に戻ってきたという実感のわかない、少々ぼやけた真央の感覚を一瞬にして引き戻した。
「……久しぶりだな……この感覚……」
「こちらは……バナナジュースでしたね」
「あ、は、はいっす」
真央の頭上から響く、やや高めの声の主は、レッドの目の前にバナナジュースのタンブラーを吸えた。
カチャリ、という金属とガラスの触れ合う音が小さくなった。
真央は、ゆっくりとカップに唇をつけ、そしてその中に満たされた琥珀色の液体を少しずつ流し込む。
「!」
真央の心に、数週間前の思い出が鮮明に蘇ってきた。
「こいつは……」
真央が顔を上げると、そこには――
「ひさしぶりじゃん」
「てめーは……」
「てめー、だなんて本当に君は口が悪いね。ミキよミキ」
数週間前、真央の目の前から、そしてこのカフェ・テキサコから姿を消した女子大生、ミキは明るく微笑んだ。
「けど、覚えていてくれて嬉しいな。君の周りには、かわいい子や綺麗な子がたくさんいるから。その中で、私の存在なんてかすんじゃってると思ってたから」
「ああ、三日ほど前に帰って来てくれたのよ」
カウンターの奥から覗く店長の顔は、ものすごく嬉しそうなものへと変わっていた。
「しばらく実家のほうに帰ってたんだけど、いろいろ整理が付いたからって。本当に助かったよ。ただでさえこのじいさんの相手で忙しいんだからさ……」
「あ? なんか言ったか?」
ヤマさんの地獄耳に辟易とする店長。
「なんでもないよっ!」
「いろいろ整理が付いた、か」
真央は目を閉じ、ゆっくりとその香りと味を堪能する。
「コーヒー入れるの、上手くなったな。なんつーか……もう大将の入れたブレンドより、なんぼか味がいいような気がするぜ」
「そういってもらえると嬉しいな」
ミキはから担った金属のトレーを胸に抱いた。
「きっと、うん、いろいろ私の中で整理が付いて、迷いから吹っ切れたから……そういうのも関係してるのかもね」
「え、えとぉ……」
奈緒がおずおずと口を開く。
「て、店員のおねーさんとマー坊君……そんなに深い知り合い、なの?」
「なんでもねーよ。そんなんじゃねー」
ニイ、小さく笑う真央は、またコーヒーを一口すすった。
「もう、踏ん切りはついたのか?」
「おかげさまでね。あの時は、君にいろいろ迷惑掛けちゃったね」
ほんの少しだけ寂しそうに、ミキは真央に謝罪した。
「それより、君もなんだかちょっとだけ雰囲気変わったね。なんていうか……少しだけ大人っぽくなたって言うか……うまく表現できないんだけどね」
「俺にも、まあ、いろいろあったんだよ」
真央は頬杖を月、視線を窓の外へと移した。
「あんときゃ、俺のほうこそ悪かったな。今思えば、結構なこと言っちまってたな。今んなってようやく……あんときのあんたの気持ちってのが理解できたような気がするぜ」
「そっか。そういうことか」
ミキはその言葉からすべてを察したようだ。
「君も、新しいスタートなんだね」
「ああ」
すると、ミキは腰をかがめ――
スッ――
「あ?」
「「「え?」」」
真央の頬にその形のいい唇を触れさせた。
「せめてものお礼ね」
そしてミキは、手元のメモ用紙にさらさらと何かを書いて真央の胸ポケットに入れた。
「これあたしの連絡先。メールでも電話でも何でもいいから。いつでも連絡頂戴ね」
そして、トレーを抱えてカウンターへと戻る。
すると、何かに気がついたように振り向き
「あ、今の君、すごく格好いいよ。もしカノジョとかいないんだったら、いつでも私に声をかけてね」
小さくウィンクをしてカウンターの奥へと姿を消した。
あっけに採られた真央は、ゆっくり頬をさすると――
「へっ」
小さな微笑を口元に作った。
「どういうことですか!」
葵はあっち上がり叫ぶ。
「真央君! あの店員のお姉さんとどういう関係ですか?」
「そうだよマー坊君!」
同じく奈緒もいきり立つ。
「しんじらんない! マー坊君、どれだけ女の子に手を出せば気が済むわけ!?」
「人聞きの悪ぃこというんじゃねえよ! 事故みてーなモンだろうが!」
静かな店内は、聖エウセビオボクシング同行会のメンバーの大騒ぎで、一転して騒然となる。
綾子という女性が真央の元から去った。
しかし、神埼紫、そしてカフェ・テキサコの店員ミキも真央を巡る女性関係に加わった。
我等がヒーロー、マー坊君は一体誰を選ぶのか。
マー坊君の青春模様は、ますます混迷を深めていくのであった。




