6.3 (火) 8:30
「……ん……んん……ちゅっ……ちゅ……」
真央と紫、その唇と唇、舌と舌が絡まりあう、小さな小鳥のさえずりのような音が響いた。
周囲の誰もがあっけに採られ、あるものは目を丸く、あるものは口を開いて呆然とそのシーンを目の当たりにする。
周囲の通勤客や学生たちも注目する中――
「ぷはあ」
ようやく二人の影は離れた。
紫は頬を赤らめながら、勝ち誇ったように胸を張る。
「いっとくけど、一応これ、紫のファーストキスだから。大切にしてね」
真央は、魂が抜け去ったような表情をする。
そして自身の唇に指を触れさせ、そしてそれが幻ではない、現実の出来事であったことを改めて確認する。
「て、て、て、て……」
「んー? なーに、秋元?」
両手を後に組み、首を傾げて微笑み返す紫。
「なにしやがんじゃこのやろおおおおおおおおおお!」
眉間にしわを寄せ叫んだ真央は、紫の胸倉を掴んだ。
「きゃ? ちょっと、秋元乱暴だよ。みんなも見てるんだから、もっと優しく――」
「……え? ちょ、ちょっと、マー坊君!?」
ようやく正気に戻った丈一郎は、怒り狂う真央の腕を掴もうとするが――
「んぎぎぎぎぎ……だ、だめだ……レ、レッド君! ぼ、ぼぉっとしてないで! はやくマー坊君を止めて!」
「……? は? ははは、はいっしゅ!」
レッドも慌てて真央の胴体を羽交い絞めにする。
「マ、マー坊先輩! お、おおお、おちついてっ! くださいっ!?」
「てめえええ、なんてことしやがんだぁあああああああ!?」
真央の声は、怒りを通り越し、もはや哀れみを感じさせるほどの勢いだ。
なぜ彼がそこまで紫の行動に怒りを炸裂させたか、その理由――
「俺だって……俺だって初めてだったんだぞこのやろおおおおおおおおおおお!?」
「はっ?」
葵の眉間にしわが寄る。
「はあっ?」
奈緒の奥歯が、ギリリとかみ締められる。
「はああっ?」
岡添は、アンダーリムの眼鏡の位置を直す。
「「はあああっ?」」
真央を必死で食い止めていた、丈一郎とレッドの体は硬直した。
「ほんと?」
一方の紫の顔は、ぱあっと明るくなった。
「まじまじまじ? もしかして、秋元にとって紫が始めての相手? ちょーうれしーんだけどー! ごちそーさまー!」
「何のんきなこと言ってやがんだこのや――うぉっ?」
「……てめえ紫に……俺の妹に何しやがる……」
真央と紫の間に割って入り、そして真央の胸元を掴みあげるのは――
「あ、ああん? な、なにいってやがんだこの野郎!?」
真央はあっけにとられて神埼を見た。
「俺か? 俺のせいか? 俺じゃなくててめーの妹が――ぐえ……」
「……人の妹、傷モンにしやがって……」
両手と胴体を羽交い絞めにされたなすすべない真央の胸倉を、ぎりぎりと掴みあげた。
「……殺す……今ここで殺す……」
「……ぐええ……て、てめえ……じ、実はてめえもシスコンだったの――」
バシンッ!
「あだっ!?」
「さいってい!」
奈緒は真央の右頬にもみじのようなその手を張った。
「マー坊君、実はロリコンだったの!? だから……だからわたしたちがアプローチしてもなびかなかったの?」
「ロ、ロリコンだあ!? な、何勝手な解釈してんだ! 何度も言うけどなあ! お、俺がやったわけじゃねえぞ!? そ、それに、奈緒ちゃんだってそう年齢違うわけじゃ――」
「――そんなに……そんなにわたしのことが嫌いなの? なんで私には何にもしてくれないの? 絶対……絶対許さないんだから!」
「だーから!」
真央は悲痛な表情で叫ぶ。
「なんでそうなるんだよ!? とにかく……とにかく落ち着けって……そ、そうだ先生! な、なんとかこの状況を」
パリン――
「――あら」
岡添の手元から滑り落ちた眼鏡は、その足元で粉みじんに砕け散った。
「ごめんなさい。眼鏡が壊れちゃって、私には何も見えないわ」
「てめえこのやろおおおお!」
「うわーん!」
奈緒は泣き叫びながら走り去った。
「……秋元……殺す……」
「だからてめーわさっきから人の話聞けっつってんだろぉがあああ!」
「……絶対に許さん……」
「てめえが許そうが許すまいがどーだってええわ! さ、さっさと逃げねーと――」
しかし、時すでに遅し。
闘争の為の猶予は、もはや真央には残されていなかった。
「マー坊……」
「ひっ!?」
真央のおびえきった子犬のような叫び声。
その異変に気づいた神崎が真央の視線の先を見ると――
「……っ……」
「……神崎君ありがとう……川西君もレッド君も……この最低変態ロリコン野郎を捕まえておいてくれて」
「……本当にありがとうございます、神崎君……もう、真央君ったら、本当に私達を怒らせるのがお得意なのですから……」
ジリッ――
「……」
今まで感じたことのない威圧感と恐怖に、思わずたじろぐ神埼。
「……は、は、はははは……こ、これで僕立ちは用済みみたい、だね……」
「……そ、そ、そうっすね……じ、自分たちはもう……」
「……うん……」
こくり頷くと、丈一郎は荷物を手にとった。
「……ほら……新幹線がちょうど滑り込んできたよ……はやく……」
「……マー坊、インターハイ出場決定したからって調子に乗りすぎたね……」
「……本当にそうですね……年端もいかない女の子の唇を奪って、襲いかかろうとするなんて……これはやっぱり……お仕置きが必要ですね……」
光のともらない冷たい氷のような瞳に、真央は早々と覚悟を決めた。
「……頼む……何をされても受け入れる……ただ……言い訳だけはさせてくれ……」
「……そんな必要はない……」
パキパキパキ――
奈緒の指がなる。
「……そのとおりですね……男の人なんですから……言い訳なんてせずにお仕置きを受け入れるのが肝要ですよ……本当に真央くんは男らしいんですね……」
真央はゆっくり瞳を閉じる。
パアァ――ン――
プラットフォームに滑り込んできた新幹線の風圧が、響き渡る鈍い音と真央の悲鳴をかき消す。
「あらあらあら」
秋元真央と神埼桐生、二人のボクサーに愛された“ファム・ファタル”、綾子はその様子をのんびりと眺めていた。
「なんじゃろね。きっとこの子、まーちゃんは“女難の相”があるんじゃろうね」
そして、プラットフォームの空にのぞく葵空を眺める。
「はあ、夏なんじゃね」
―――――
音も少なく走る新幹線。
わずかな揺れと、高速による重力が、乗客たちの体にのしかかる。
「……ったく……ひでー目にあったぜ……」
良の鼻腔に、ティッシュペーパーをつめた真央はぼやく。
「……誰も俺の言うことなんか聞きゃあしねえしよ……なんで俺がこんな目にあわなきゃならねーんだよ……」
「ま、まあまあマー坊君」
とりなすようにして笑う丈一郎。
「最終的には誤解が解けたから良かったじゃん。ねえ、レッド君?」
「そ、そうっすよ……たぶん……」
レッドは何とか笑顔を作ろうとするが、顔が引きつりうまくはいかなかった。
「も、申し訳ありません……」
葵は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「けど、いきなりあんなことが起こったものですから……私たちも、少々混乱していたのかもしれませんね……」
「……ごめんねマー坊君……」
こちらもしゅんとしてうつむく奈緒。
「……それに……マー坊君のファーストキス、なんて聞いちゃったら……なおさら頭に血が上っちゃって……」
「誤る必要はないよ二人とも」
しかしこの少女、桃だけは腕組みをして断固謝罪を拒否した。
「実際に、中学生の女の子にキスしたのは変わりないんだから。本来なら、淫行で警察に突き出されてもおかしくないんだ。これくらいで済んだことをあたし達に感謝するんだな」
「ああん? てめー話きいてたんか? 俺ぁ――」
桃の言葉に怒り心頭、食って掛かろうとする真央だったが――
「うっ……」
鋭い桃の眼光に、その反論は胸のうちにしまいこむより他なかった。
「だ、大体よ! あんた教員なのになんで止めねーんだよ! 殺されるところだったんだぞ!?」
「あら? 何か起こったのかしら? 私、眼鏡が壊れちゃったもので、何も見られなかったのよ。ごめんなさいね」
「スペアの眼鏡持ってたんならさっさと掛けろやぁ!」
もはや真央が何を言っても無駄なようだ。
「……くっそう……せっかくインターハイ出場と関東優勝決めてやったっつーのによ……何一ついいことなんかなかったぜ……」
「けど、よかったじゃん」
丈一郎は、あっけらかんと口を開く。
「広島にいたときから、ずっと心に引っかかってたんでしょ? 綾子さんのこと」
「丈一郎……」
「きっとさ、これがマー坊君にとっての新しいスタートだよ。ボクシング三階級制覇の夢も。それに……僕達との関係も、ね」
そういうと丈一郎は、小さくウィンクして見せた。
「……ったく、わかったようなこといいやがって……」
真央はぼりぼりと頭をかいた。
「……あー、っつーかよ、女の子とでこんなぐちゃぐちゃするのはもうごめんだぜ。俺はとにかく、ボクシング一筋に生きることに決めるわ。女なんかもう眼中にねーよ」
「……女のこのことが目に入らないのはまあ……安心ですけど……」
「……うん……私たちも目に入らないのは……どうなんだろう……」
「……」
奈緒と葵、そして岡添はじとりとした目で、うんざりした表情で窓の外を眺める真央を見つめる。
一方の桃は、我関せず、と言った表情でコーヒーのカップを傾けた。
そして、真央は窓の外を、どこか名残惜しげに見つめながら小さく呟いた。
「ほいじゃの……綾子」




