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    6.2 (月)21:00

「マ、マー坊先輩遅いっすね……」

 トランプのカードの束を片手に、レッドは言った。

「い、一時間以上前に温泉に行ったはずなのに……何かあったのでしょうか……」


「言われて見ればそうだね」

 トランプを片手に挟んだまま、腕組みをして首を傾げる丈一郎。

「マー坊君、お風呂でじっとしてるのとか嫌いだから、いつもシャワーとかで汗をさっと流して出てくるだけの人なんだけど……そんなにこのお湯が気に入っちゃったのかな……」


 ドシドシドシ――


「「ん?」」


 床を振るわせる、低く鈍い音。


 スッ――


 ガタンッ――


 荒々しく開け放たれた障子殿置くから姿を現したのは――


「あ! マー坊先輩! どこ行ってたんっすか?」


「そうだよ! 僕たちすごく心配――」


 ゴンッ!


「あだっ!」


「うっせえ!」

 真央は鼻息荒く、鬼の形相で丈一郎の頭を殴りつけた。

「てめーらのせいで散々な目にあったんだからな!」


「あいたたたた……もう、痛いんだって、マー坊君の拳骨……」

 久しぶりに響いた衝撃に、丈一郎は顔をしかめて頭をさすった。

「大体、何で僕たちのせいなの? 一体何が起こったって――」


 ガンッ!

 

「いだっ!」


「つべこべ抜かすんじゃねえ!」

 石のようなその拳には、よほどの力を込めているのだろう、青く太い血管がありありと浮かんでいた。

「てめえらのせいでなあ……てめえらのせいでなあ……俺ぁ……俺ぁ……」


「「?」」


「あーもう! とにかくどえれー目にあったんだ! てめーら一生恨んでやっかんな!」


「は、ははは……なんだかわからないけど、大変な目にあったんだね……」

 詳しい事情はわからないものの、丈一郎は何かを嗅ぎ取り、そして真央をなだめるように言った。

「そ、そんなことよりさ、最後の夜なんだから、せっかくだから一緒に遊ばない? ほら」


「そ、そうっす! いま、自分らトランプやってたんすけど……」


「そうそう、もしよかったらマー坊君も――」


「ぶったるんだこと言ってんじゃねえっ!」

 真央は声を張り上げ、二人をにらみつけた。

「俺らは何だ? ボクサーだろうが! 大会が終わろうがなんだろうが、生きてる限りボクサーだろうが! 何がトランプだ? さっさと寝んぞ! 明日の朝もきっちりロードワークだかんな!」


「「イ、イエッサー!?」」

 思わず立ち上がる丈一郎とレッドは、直立不動で敬礼をした。



※※※※※


 朝の通勤ラッシュの時間帯。

 しかし都内のそれとは違い、行き交う人々の流れにはどこかしら温かみが感じられる、高崎駅。

 両毛線を乗り継いだ聖エウセビオボクシング同好会の一行、そして神埼姉妹と綾子は、新幹線のプラットフォームで向かい合った。


「あーあー、あっというまだったなー」

 大会開始前とは打って変わった名残惜しさを、奈緒は素直に口にした。

「もっといたかったなー。いろいろ行ってみたかった場所あったしー」


「観光に来たんじゃないんだ。当然だろ」

 こともなげに、冷静に言葉を返したのは桃だった。

「まあでも、うん、終わってしまえば楽しかったな。せっかくあの旅館が学園の保養施設に指定されてるんだったら、また遊びに来てもいいかもな」


「まっとるけ、来るときは連絡しての」

 綾子は朗らかに笑い、柔らかく言葉を返した。

「初めて会うたときははあ、どうなるか思ったけんど、まあ、終わりよければ全てよし、じゃの」


「へっ、好き勝手いってろよ」

 真央は腕を組み、とある理由から、直視できないその瞳から視線をそらした。

「こんなとこ二度と来てやっかよ」


「……ボソボソ……あの、川西君、レッド君……」

 怪訝な表情で、葵は丈一郎とレッドに耳打ちをする。

「……なんだか真央君、不機嫌そうですが……何かあったのですか……」


「……」

「……」

 青白い顔色に二人は無言のままだ。

 今日の早朝四時にたたき起こされ、ロードワークから´、そしてシャドウボクシング。

 通常のトレーニング並みのハードワークを課され、そしてしごき上げられた疲労が、普段は陽気な彼らをそうさせた。


「……なんだか……こちらも表情に覇気がないですね……」

 葵は複雑な表情を浮かべ首をかしげた。


「……秋元」


「あん?」


「……今度会うときは国体、そうだな、選抜大会になるか」

 クールに呟く神埼桐生の口元には、やはりクールな笑みが浮かんだ。

「……昨日のお前との約束……一生掛けて守るから。だから安心してくれ」

 すると神埼は、静かに右手を差し出した。


「だーっ! 気持ち悪ぃんだよ!」

 真央は顔をしかめてあさっての方向を向いた。

 そして、まるで自分に言い聞かせるように大きな声で叫ぶ。

「言っただろうが! 別にそのブスに興味なんか、はなっからこれっぽっちもねーってよ!」


「あらら、言われてもうたわ」

 綾子は柔らかく笑い、そしてぽりぽりと頭をかく。

「ほうじゃね。あんたのまわりには、それこそ芸能人やモデルさんみたいな綺麗な子ぉがおるし。うちははあ、まーちゃんにふられてしもうた。これでええんよね」


「……へっ、さっきっから言ってんだろうが」

 その言葉は、どう見ても強がりにしか聞こえなかったが、真央は顔を真っ赤にしたまま、またも言い放った。

「俺ぁな! これからボクシング一筋に生きるんだよ! てめーらみてーな軟派な生き方なんか金輪際ごめんなんだよ! 女の事なんか考えてる暇なんかねーんだよ! わかったか!」


「あらあら、また強気に出たの」

 すると綾子は、真央の周りの女性人を見回して、いたずらっぽく微笑んだ。

「あんたらも大変じゃね。こんなことこの年で本気で言いよるくらい子どもじみた男じゃけ。ほんとにこのおとこでええん?」


「「「綾子さん!」」」

 実施で顔を真っ赤にする女性陣に対し


「あらら、冗談じゃ。まともに受けんでも良かろうに」

 ケラケラと明るく笑った。

 すると、不意に真剣な表情に戻るり、静かに口を開いた。

「うちは、もうまーちゃんに対してしてあげられること、もうこれ以上はないんよ。だからあとは……あとは、あんたらに任せるしかないんよ。きっとあの子ぉ、これからあんたらには思いもよらんことが降りかかるような気がしてならないんよ。それがいいことなのか悪いことなのかはもう……うちには何とかしてやることはでけん」


「綾子さん……」

 桃は、その真剣な表情に真剣な視線で答えた。


「もしあんたらの中で本気で……本気でこの子が心を開いて、受け入れてやれる子がおるんだとしたら……うちは……」

 綾子の目に、わずかだが光る何かが見えた。

「……まーちゃんのこと、子のこのこれからの子と……よろしゅうたのんます……」

 そして、深々と頭を下げた。


「あん? さっきからおめーらなにをぶつぶつ話し合ってんだ?」


「なんでもなあよ」

 綾子は、いつもの穏やかな、包み込むような笑顔で嘯いた。

「ほんなことより、ほれ」

 綾子は真央の方をつんつんとつつく。


「……」

 真央の視線の先には、差し出されたまの神埼の右手があった。

「……ああくそがっ!」


 ギュ――


「ったく! きもちわりぃんだよ! これで気が済んだか?」


「……ああ」

 ニィ、クールな微笑がその顔に浮かんだ。

「……インターハイ、負けんなよ。俺に勝った男が全国とれねーなんて、おれは認めねーからな」


「ああん? 誰に物言ってんだ?」

 ニイッ、こちらには、不適ではあるものの、いつもの真央の笑顔が戻った。

「おれぁ世界三階級制覇を上に確約された男だぜ? 狭い日本の、高校生だけの大会での優勝ごとき、鼻かむよりも簡単なんだよ。ま、おめーは俺のいないライト・ウェルターで精々お山の大将気取るんだな」


「……言ってくれるぜ」

 

 二人の天才ボクサーの右の拳は力強く結ばれ、そして離れた。


「秋元!」


「あん?」


「秋元……また……また、会えるよね?」

 先ほどまで明るい表情を浮かべていた紫は、搾り出すように真央に訊ねる。

「このままさよならなんて……ないよね? また遊びに来てくれるよね?」


「さあな。ま、いずれどっかで会えるんじゃねーか?」

 ニイッ、またも不敵な笑みを浮かべると、紫の頭をポンポンと叩いた。

「てめー兄貴とはどうやら腐れ縁が続きそうだからな。ま、兄貴のケツにへばりついてりゃどっかで会えると思うぜ。ションベンガキ」


「……だから、ションベンガキって言うなよ……」

 右の手で、紫はごしごしと目もとをぬぐう。

「決めた! 紫、聖エウセビオに転校する!」


「「「はぁ?」」」

 全員の驚愕が、一つの言葉に結ばれた。


「ねえ岡添先生、聖エウセビオって編入試験ないの?」


「えと……あるにはあるけど、すごく難しいわよ?」


「大丈夫! 紫頭いいんだから! 決めた! 絶対転校する! 兄貴はこっちで、綾子さんとよろしくやって! 絶対、ぜーったい転校してやるんだから!」


「……お前がそんな前向きなこと言うのは、初めてだな」

 最初はあっけにとられてはいたものの、神埼桐生はクールに髪をかきあげた。

「……好きにしろよ。サポートくらいは、してやるから」


「ったく、わけわかんねーこといってんじゃねーよ」

 真央は呆れたように顔をしかめた。

「ま、俺には関係ーねーしな。ションベンガキ」


「……だから紫って呼んでっていってんじゃん」

 すると紫は、真央の目の前に静かに立つ。

 そして

「ねえ秋元、ちょっと耳貸して」


「あん?」

 その言葉に従い、背の低い紫の口元に体をかがめたその瞬間――


「「「!」」」

 その場にいる全員が硬直し、言葉を失った。


「……ん……んん……ちゅっ……ちゅ……」


 真央と紫、その唇と唇、舌と舌が絡まりあう、小さな小鳥のさえずりのような音が響いた。


「ぷはあ」

 紫は真央の口元から、自身の唇を離した。

「いっとくけど、一応これ、紫のファーストキスだから。大切にしてね」

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