6.2 (月)19:30
「あー、っと……さすがに疲れちまったな、っと」
生あくびを浮かべると、真央はぼりぼりと頭を掻き、ごしごしと両目をこする。
「……ん……っと……男風呂は……」
きょろきょろと見回すと
「ん、こっちだな」
染め抜かれた紺地に浮かぶ、白い"男"の文字に反応し、ずかずかとその方向へと歩いて行く。
そして
ガラリ――
白木づくりの扉を、何一つ疑問を持つことなく開けた。
そこにかけられた、"20:00より、女性用"の表示板に気づくこともなく。
―――――
「やったー、温泉なんて、紫すっごい久しぶりなんだけどー!」
浴衣とタオルを左手に抱え、神崎紫は小さなステップを踏んだ。
「こんな"温泉王国"にすんでるのに、温泉にはめったに行かれないんですか?」
目を細めて、微笑ましげにその後姿に語り掛ける葵。
「私がこの県にすんでいましたら、毎日でも温泉に行きますのに」
「いくら群馬にすんどるいうても、そんなめったに温泉なんて行くもんじゃなあよ」
葵の左を行く綾子はおっとりと笑った。
「うちとって久しぶりじゃけ。堪能させてもらうわ」
「そういえば、わたしたちも久しぶりなんだよねー、温泉なんてー」
紫の横で、同じくスキップ気味に抑えきれない胸の内を表現する奈緒。
「それに葵ちゃんたちと一緒に入るなんて、初めてだもんねー。ね、桃ちゃん?」
「まあ、あたしは中学時代の修学旅行で葵とは一種にお風呂には入ってるけどね」
クールな物言いにも、桃の言葉にはどこか浮ついたような雰囲気が感じて取れる。
「確かにこういうの、久しぶりかもな。こういうのも、たまにはいいんじゃないかな」
「あなたたちには本当に助けてもらったもの」
ほんの少しだけアルコールが残っているためだろう、いつもよりもやや饒舌な岡添も、楽しげな様子だ。
「それに、せっかく綾子さんや紫ちゃんに会えたんだから。最後の夜くらい、ね」
「「やったー!」」
奈緒と紫は、まるで姉妹のように手を取り飛び跳ねた。
―――――
「あ、申し訳ありません」
赤地に"女"の文字が染め抜かれたのれんの前、白木の扉に手をかけた奈緒の後ろから声が響いた。
「こちら、八時から浴室の男女入れ替えの時間なんですよ」
紫が壁にかけられた時計を見れば、なるほど、あと五分ほどで八時になる。
「今から入っていては、入れ替えまでに間に合いそうにありませんね」
葵はもっともらしく頷く。
「まあいいんじゃない? 別に温泉の成分に変わりはないんだしさ」
腕組みをして、桃は言った。
「ちょっと早いけど、向こうのお風呂場に行こうよ」
「そうしましょうか」
岡添は頷き、桃の言葉に賛同した。
「あれまあ」
拍子抜けしたような綾子の声。
「けんど、いまそこに男さんが入っとったら嫌じゃね」
「大丈夫じゃないですか?」
桃は事もなげに言った。
「今日はあたしたち以外に宿泊客居ないみたいだし。基本的に平日ですしね。さっき川西君とかは部屋に戻ったみたいだし、心配ないと思いますけど」
「けど、秋元は?」
紫が桃に訊ねる。
「秋元はあいつらより遅く風呂にいったでしょ? もしかしたら……」
「大丈夫だよ。十分以上たってるから。あのバカ、いっつも烏の行水だから」
「あらあら、よく知っとるんねぇ」
綾子の微笑みは、またいたずらなものに代わる。
「さすがに一つ屋根の下に暮らしとるだけあるわ。よぉしっとるの」
「綾子さん!」
眉間にしわを寄せ叫ぶ桃に
「冗談じゃ。冗談」
綾子のけらけらという軽い笑いが返ってきた。
―――――
チャポン――
カラン――
「ん……」
背中に下たる水滴の冷たさが、夢うつつの真央をこちらの世界へと引き戻す。
「……ん……ふ、くわぁ……」
両腕と背筋を伸ばすと、どろりと濁った温泉の水面がきれいな水面の円を描いた。
「……あんだ……ふ、わぁ……寝ちまってたんか……」
ふぅ、小さなため息をつく。
「……やっぱ疲れてたんかな……そういや三日前には高熱も出ちまったしな……」
バシャリ――
湯船から上がりその石でできたヘリに腰をかけると、再び大きく伸びをし、こきこきと首を鳴らした。
胸に蘇るのは、高崎駅近くの公園で再会した綾子の顔と、神崎桐生との一触即発の事態。
そして、リング上での決着と、綾子との別れ。
そのすべてがまざまざとよみがえり、そして真央の心の傷にぐじぐじとしみた。
「……うるぅああっ!」
バシャバシャバシャ――
真央は温泉を手にすくうと、すべてを洗い流すかのように顔をぬぐった。
「やめだやめ! もう全部終わったんだよ! っしゃぁっ!」
そして、力強く立ち上がる。
「おっしゃ! さっさと上がって、さっさと寝るか――」
「……」
「……」
「……」
「なんだ?」
かすかな会話が、脱衣場より聞こえる。
そしてそこに混じる、明るい笑い声。
「……ぁんだ? 今日別の客なんているんか? 確か今日は誰も――」
「……あー、やっぱり奈緒ってマジ胸でかいんだー……」
「!?」
真央の耳に飛び込んできたのは、聞きなれた少女の名前と黄色い声。
「……きゃっ!? ちょ、ちょっとやめてよ紫ちゃんー、くすぐったいじゃんー……」
「ま、まじかよっ!? なんで男風呂にあいつらがいるんだ!?」
真央は思わず、頭に乗せたタオルで股間を隠した。
―――――
「だってしょうがないじゃん。奈緒の胸って、思った以上にでかいんだもん。この間よりまたおっきくなったんじゃない?」
「ちょ、ちょっとやめてよー、えへへへー、くすぐったいよー」
タオル越しに自分の胸を持みしだく紫の手を、何とか奈緒は払った。
「もー、しばらく一緒に暮らしてたんだから、そんな簡単に大きくならないよー」
「でも本当に大きいですね、奈緒さんの胸は」
やや苦笑交じりの笑顔を葵は浮かべ、同じく白いタオルを体に巻き付けた。
「ついこの間までは中学生でしたのに。本当に羨ましく思いますわ」
「何いってんの。葵だって十分おっきいじゃん」
自身の凹凸のない胸を抑えながら、紫はため息をついた。
「それだけじゃないよ。くびれもきれいだし髪の毛もさらさらだしさあ。絶対男だったらほっとかないと思うもん」
「……」
その言葉を、聞こえていながら聞こえないふりをし無言を貫くのは桃だった。
「紫ちゃんだって、ものすごくかわいらしいと思いますよ」
照れ笑いを浮かべながら、ヘアゴムから解放された紫のその髪を葵はさらさらと撫でた。
「紫さんの髪の毛だって、こんなにきれいなんですもの。きっとこれからもっと大人っぽくなって、女らしくなると思いますよ」
「にひひひ-、嬉しいこと言てくれるじゃん」
紫は葵の手に自分自身の手を重ねた。
「髪の毛はねー、いままで兄貴に切ってもらってたんだー。だけど、これからは綾子さんに切ってもらうことにするよー」
「あら、ようやく桐生以外の人に髪の毛触らせる気になったんじゃね」
ゆったりと裸体にタオルを巻きつける綾子が言った。
「いままでは、うちがどれだけ切ったろうかいうても、"兄貴に切ってもらうからいい!"なんて意固地になっとったんに。どういう風の吹きまわしかねぇ」
「だってもう兄貴が一番じゃないんだもん」
タオルを胸に巻き付けたまま、その薄い胸を紫は張った。
「だからもういいの! 綾子さんは兄貴と幸せになってくれればそれでいから! 紫、もう完全祝福モードだもんね!」
紫がふと目を横にやると、そこには岡添絵里奈の姿。
「あー! 先生ってちょー色っぽいじゃん!」
「え? えええ? そ、そうかな?」
眼鏡を落とさんばかりに岡添は取り乱した。
「そ、そんなこと……初めて言われたんだけど……温泉とかにも、高校卒業してから入ってないし……」
「「「「え? そうなんですか?」」」」
岡添の言葉に、紫をはじめ、女性陣が全員反応した。
「な……なに?」
体を硬直させる岡添。
そしてその体を
つん――
「きゃっ!」
紫がほんの少しだけつつくと、その艶やかな肢体に似合わない初々しい反応が返ってきた。
「えっと……紫の想像で、間違ってたらごめんなさいなんだけど……もしかして……」
こほん、紫は咳払いをして、そしてゆっくりと、はっきりと言った。
「先生って……処女?」
「はあっ!?」
岡添は顔を真っ赤にし、慌てふためく。
「ななななな、なにを言ってるの紫さん? そそそそそ、そんなことは、私のプ、プ、プ、プ、プライベートに属する問題であって、それでそのプライベートに属する問題をこんなところでその……」
「図星みたいだね」
紫の言葉に、女性陣はみんな腕組みをして頷いた。
「う、う、ううう……」
すると岡添は、きっと顔を上げて叫ぶ。
「仕方ないじゃない! 子どものころからずっと女子校に通って、大学だって女子大で、友達は女の子しかいなかったんだから! なによ! 馬鹿にして!」
「も、申し訳ありません、先生。決して馬鹿にしたわけではありません」
苦笑いをしてとりなす葵。
「この聖エウセビオ学園だって、ほとんど女子校みたいなものなのですから。私たちだって、ほとんど男の人と交流がありませんし……真央君と川西君くらいですけど……」
「そんな慰めいらないわよっ!」
「まあまあ先生。そんな気にすることもなあよ」
ぽんぽんと、慰めるようにその背中を叩くのは綾子。
「大丈夫ですよ。先生はすごく綺麗ですけ。男なんていくらでも見つかりますけ」
「なによ! あなたより私の方が、少しだけ年上なんですからね!」
岡添は、悔しそうに眼鏡をとると振り向き、そして振り返ることなく言った。
「バカにしたければ、好きなだけバカにすればいいじゃない!」
怒りに任せて浴室の扉を開けて踏み込むと――
「あ?」
「え?」
ぷにゅん――
何かが岡添の胸元にぶつかった。




