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    6.2 (月)18:30

「失礼いたします」


 スッ――


 静かに、厳かに障子戸が開けられる。

 そこに姿を現したのは、頃合いの良い和服に身を包んだ、この旅館の女将。

「お食事中申し訳ありません」

 三つ指を付きながら一礼すると、穏やかな微笑みをたたえて顔を上げる。

「ただいま、皆様にお客様……が……」

 女将の笑顔は、別の種類の笑顔に変化する。

 彼女の目の前に展開された光景――


 あられもなくはだけ、太ももと肩口、さらには下着まで露出している三人の女性の姿。

 そして、背の高い女性の踵が、これまた屈強な少年の顔にめり込んでいる、この経験豊かなお上をして目の当たりにしたことのない光景だった。

 

 見てはいけない光景を見てしまった、女将は慌てて頭を下げる。

「し、失礼しましたッ!」


「ちょ、ちょっとまってくださいっ!」

 女一郎は慌てて女将を呼び止めた。


―――――


「ったくよお……なんで祝勝会なのにこんな目にあわなくちゃならねえんだよ……」

 先を歩く女性陣の後姿を睨みつけながらこぼす真央。

「毎回毎回……今回ばかりは三途の川が見えちまったぜ……」


「は、ははは、そ、そうだね……」

「た、大変だったっすね……」

 丈一郎ととレッド、二人の聖エウセビオのボクサーは顔を引きつらせながら、リングの上では誰にも負けな屈強なボクサーをなだめていた。


「にしても誰だよ……こっちは飯だってまだまともに食ってねえっつうのによ……」

 首元をこきこき鳴らしながら、真央はぶつくさこぼす。

「そもそも、俺ら東京から来てんだからよ、群馬に知り合いなんていねーだろーが」


「言われてみれば、そうだね」


「そ、そうっすね。も、もしいるとしても、同じく関東大会に出場している西山大付属の方々くらいしか……わっぷ?」

 横を向いて歩いていたレッドは、立ちすくむ女性陣の背中にぶつかった。


「ああん? なに呆然としてんだてめーら」

 女性陣をかき分けるようにしてその前に出た真央の目の前には――

 

「……夜分に押しかけてすまない」


「神崎、じゃねえか」

 

「……とりあえず、関東大会優勝とインターハイ出場、ねぎらいに来させてもらったよ」

 ポケットに手を突っ込んだままいつものようにクールに、しかしどこか、今までよりも柔らかい表情で神崎は言った。

「……まあ、お前は俺に勝った男なんだ。優勝してもらわなきゃ、今俺がお前をぶん殴ってたところだけどな」


「へっ、下らねーこと言ってんじゃねーよ」

 腕を組み、顔をしかめて憎まれ口を口にする真央。

「なんだ? たかだかそれだけのためにこんなとこまで来たっつーのか?」


「いや、それなんだが――」

 神崎桐生が何かを言いかけたその瞬間――


 ガラリ――


「いっ!?」


「あっきもとー!」

 

「ぐほあっ!?」


 真央のみぞおちに、不意打ちの頭突きがくい込んだ。


「て、てめーは、ションベンガキ!?」

 

「やーん、秋元、優勝おめでとお! すっごく格好良かったよお!」

 天使の羽のような二つ編みが、軽やかに芳香を醸し出す。

 神崎の妹紫は、ありったけの感情を込めて真央の体にその顔をこすりつけた。

「兄貴に買った男だもん、当然だよね! 紫すっごく感動しちゃったんだからあ! もう、こんなに紫を興奮させてどうするつもり? 紫まだ中学生なんだよ? ねえねえねえ!」


「し、知るか! は、はなれやがれションベンガキ! さもないと――はぐあっ!」

 

 桃の膝、葵のひじ、奈緒の踏みつけ、そして岡添のつねりが真央の前身を蝕んだ。


「……がはっ……ま、まだこの年で死にたかねえんだよ! いいから離れろ!」

 真央に絡みつくあつい抱擁の腕を、真央は無理やりほどいた。

「てめえ神崎! なんでこんなガキ連れてきやがったんだ!」


 ふう、呆れたようにため息をついた神崎は、再び口を開いた。

「……本命はこっちじゃない。紫じゃなくて――」


「あら、なんだか楽しそうじゃね」

 にこにこと明るい微笑みをたたえた、穏やかなしぐさの女性の姿。


「……綾子……」

 真央は、その一言を発するのがやっとだった。


「おめでよう、まーちゃん。さすがに桐生を倒しただけのことはあるの」 


「神崎、てめえ、どういう――」


「――秋元、少しだけツラ貸してくれないか」

 神崎は、ストレートな視線を真央にぶつけた。

「……俺とお前、話すべきことがあるだろう」


「……ああ、いいぜ」

 

「……外、いいか?」


 真央は頷くと、その言葉に促されるように下駄をはいて玄関を後にした。


「……レッド君……」

「……はい……」

 

 その後姿を見届けると、丈一郎とレッドはその場を後にした。


「さて、これで女だけになったの」

 そう言うと綾子は、靴を脱いで玄関へと上がる。

「ほんの少しだけ話をしたいんは、うちもおなんじ。ほいじゃけ、桐生についてきたんよ」

 そして、聖エウセビオボクシング部関係者の女性たちに声をかける。

「ちょっとだけ、ええかの?」


――――


「……飲むか?」

 神崎桐生は、コーラの缶を真央に差し出す。


「ああ」

 真央は受け取ると、プシュウ、プルトップを引き、旅館近くの公園のベンチに腰を下ろした。

「……っぷはあ……なかなか気が利くじゃねーか。まあ、これが勝者の特権てやつか」


「……ぬかせ」

 同じくコーラの缶を片手に、神崎は真央の隣へと腰を下ろした。

「……まあ、お前の言う通りかもな。俺はお前に負けた。何の言い訳もなく、真正面からぶつかって、俺のすべての引き出しを開けて、それで負けたんだ」

 ぷう、コーラを一口含んで、一つため息をつく。

「ここまでの差見せつけられたら、もう何にも言うことはねえよ。俺の完敗さ」


「へっ、ずいぶんしおらしいじゃねーか、天才君」

 ゴクリ、乾いた真央の喉に、コーラの炭酸が心地よい。

「っぷふう、まあ、次は国体か? そん時までに、せいぜい鍛えなおしておくんだな」


「……もうお前とやるつもりはねーよ」


「あん?」


「……ウェルター級はこれで終わりだ。俺は次からは、ライト・ウェルター級にエントリーすることにする」

 

「……てめえ……」


「……それだけのもん、見せつけられちまったからな。お前とこれからどれだけやっても、勝てる気がしない。悔しいが、仕方ない。俺は頭悪いからな。これ以上無様な姿見せて、大学と就職、ふいにするわけにはいかないしな」


「……てめー、プロにはいかねーのか?」


「……今のところ、そのつもりはない」

 神崎は、人差し指と親指につまんだコークの缶をゆっくりと揺らした。

「……俺はあくまでもアマチュアボクサーさ。大学行って就職して……守るべきものを守りながら暮らしていく、それが俺の人生さ」


「……てめーんちも、両親いないんだってな」

 がりがりがり、真央はすでに伸び始めた髪の毛を掻く。

「……そんでてめーの守りたいものってのは……あいつかよ」


「……ああ」

 コクリ、神崎は頷いた。

「……俺の人生は、綾子と二人で歩むべきものだって、俺は信じている」


「……」

 真央は俯き、そしてしばしの間無言になった。

 何分すぎたであろう、真央は再び顔を上げて口を開く。

「……俺の知ったことかよ。俺はもうあいつとは何の関係もねー。俺とあいつは……ただの幼馴染ってことくらいしか共通点はねーからな」


「……賭けに負けたのは俺だってのにな」

 自嘲的な笑みを、神崎はこぼした。

「……すまねーな。優勝の祝いよりも何よりも、それだけは言っておきたくてな」


「……お前も……あいつのことが好きなのか?」


「ああ」

 何のてらいもなく、神崎ははっきりと断言した。

「俺はあいつを、幸せにしてやりたい。誰よりもつらい思いをしてきて、それでも明るさを失わずに、前向きに人生に立ち向かっているあいつを……綾子を……俺は、この世の中の誰よりも幸せにしてやりたいんだ」


“きっといまうちは、この世界の誰よりも幸せよ。うちには……うちには桐生がおるけ”


「……へっ、お熱いこった」

 不敵な笑みを浮かべ、またひと口真央はコーラを口に含んだ。

「俺はオリンピックでメダル取ってよ、ほんでさっさとプロ転向して、日本人初の中量級三階級制覇を成し遂げるんだからよ。まあ、せいぜいこの狭い日本で、お前らにぴったりの、スケールの狭い家庭でも築いてくれや」


「……もうしそうなれば、俺としては願ったりの人生だ」

 真央の前で始めて見せたその笑顔は、高校生の一人の少年としての素直な笑顔だった。

「……だが、中量級で日本人がベルトをとるのはそう簡単じゃないってことくらい、お前も知ってるよな。しかも、今ミドル級の絶対王者といえば――」


「ああ」

 コクリ、真央は頷いた。

「あのおっさん、フリオ・ハグラーの野郎だよ。当然俺はあいつをブッ倒す。ほんで、最強のボクサーだって、世界に認めさせてやるんだよ」


「……IBFのベルトじゃだめなのか? あの男が今手にしていないベルト、そこを狙うって手もあるはずだが――」


「それじゃー意味ねーんだよ」

 真央は立ち上がると


 ヒュンヒュンヒュン――


 一切のダメージを感じさせない軽やかな動きで拳をふるって見せた。


「あのおっさんが全盛期のうちに挑戦して、WBC、WBA、WBO全部のベルトを俺が手に入れんだよ。そんで最後にIBFはいただく」


「……また大きく出たな」


「当然だろ。あのおっさんを倒さねー限り、最強のボクサーの称号は手に入れらんねーんだからよ」

 ニイ、真央はあのいつもの不敵な笑みを口元に浮かべた。

「……まあ、もしタイトルマッチが実現したら、お前らも呼んでやっからよ。綾子とあのションベンガキ、紫も連れて見に来いや。まあ、飛行機代くらいは出してやってもいいぜ。何なら自家用ジェット出迎えに行ってやるよ。庶民の一般家庭に、ラスベガスまでの往復チケット買うだけの余裕はねーだろうからな」

 

「まあ、今回の結果で俺はもう、フリオ・ハグラーの前に立つ事はなくなったみたいだな」

 フッ、こちらはクールな笑みを浮かべる神崎。

 そして


 ヒュンッ――


 右ストレートを真央に打つ神崎。


 パシン――


 そしてそれを、左手で受け止める真央。


「……お前ならもしかして……その無謀な夢を実現できるかもな」


「ぬかせ。そんなことより――」


 フンッ――


 神崎の腕を払ったその左手で、スナッピーなジャブをふるう真央。


 パチン――


 同じく受け止める神崎。


「――お前の……お前らの言葉……信じていいんだよな」


「秋元……」

 そう言うと神崎はふたたびクールな笑みを作り、そして目を伏せた。

「……ああ。俺はきっと……いや絶対、綾子を幸せにして見せる」


「何度も言うが、俺の知ったこっちゃねーよ」

 真央はそう言うと、ポケットに手を突っ込んで振り向いた。

「さ、かえんぜ。いつまでもこんなとこにいたって仕方ねーだろ」


「……そうだな」

 神崎もまたポケットに手を突っ込み、真央の横に並んで旅館までの道のりを二人で歩き始めた。

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