6.2 (月)18:00
――trrrrrr……trrrrrrtrrrrrr……trrrrrr――
ガチャリ――
聖エウセビオ学園の理事長室、電話に点灯する「外線」のマークを確かめ
「はい」
岡添理事長は受話器を取る。
「はい……はい……そうですか。それは良かった。岡添先生、あなたもご苦労様でした」
威厳にあふれるポーカーフェイスは、その瞬間、ほんの一瞬だけ口元にほころびが生じる。
そして、コホン、自分自身を戒めるかのような咳払いを一つ。
そして口にした。
「了解しました。秋元真央君、関東大会Aブロック優勝、そして、インターハイ出場決定、ですね。おめでとう……ええ。それくらいはいいでしょう。今日くらいは、あなたの教え子たちを十分労ってあげなさい。お疲れ様」
ガチャリ――
静かに受話器を置くと、岡添はその視線を窓ガラスの外に移す。
桜の木の奥にわずかに見える古いプレハブ。
それは聖エウセビオ学園、かつてのボクシング部、そして現在のボクシング同好会のジム。
岡添理事長の胸に去来する、自分自身の青春時代。
「運命……そんなものを信じるような年齢ではありません」
シャッ――
岡添はすばやくカーテンを閉め、そしてがっしりとしたデスクで事務作業を再開した。
※※※※※
「それではっ!」
関東大会の宿舎、群馬県前橋市内の旅館の一室。
丈一郎の掛け声とそれぞれの配膳を前に、皆グラスを右手に掲げる。
「えー、我等がせいエウセビオ学園ボクシング同好会のエースであり救世主! マー坊君こと秋元真央君が関東大会で優勝の栄冠を勝ち取ったことを祝福いたしまして!」
「ぎゃははははは、なんてことねーよ。大騒ぎしすぎなんだよ」
先日までの気持ちはどこへやら、いつも通りの無限大の自信に満ち溢れた秋元真央は、上座にてどかり、胡坐を組んだ。
「まあ、世界三階級制覇を約束されてる俺に取っちゃぁ単なる玄関マットで足拭いた程度にしかすねーからな」
「はははは、そうだね」
苦笑する丈一郎も、しかしその言葉を信じざるを得ない。
「とにかく! マー坊君の優勝とインターハイ出場をお祝いいたしまして、乾杯いたしますっ! 乾杯っ!」
「「「乾杯っ!」」」
カチン――
涼やかな音が広間に響いた。
「しかしよぉ、なかなか粋な演出だな、先生よぉ」
ニヤリ、口元に不敵な笑みを浮かべながら真央は岡添絵莉奈の下に近づく。
「わざわざ食堂じゃなくて部屋にこんな豪華な配膳頼んでくれるなんてよ」
「本当にそうですね」
その横にしっかりと背筋を正して座る葵は、まるで伝統的な技術で作り上げられたきめ細かな二本人形のようだ。
「けれどよろしいのでしょうか、私みたいな、まあ、部外者までこのような場に預かれるだなんて。小書記が引けますね……」
「いーんだよ葵ちゃん!」
その豊な胸をぷるんと揺らし、奈緒はグラスのオレンジジュースを飲み干す。
「なんだかんだでマネージャーみたいなこともしてくれたんだしー、葵ちゃんがいたからこそ、マー坊君の優勝手結果も出たんだよー」
「そ、そ、そうッフよっ!」
もごもごと咀嚼していたレッドは、その驚異的な嚥下力で口の中を空にした。
「け、結局自分は全体の仕事の補助係をするしかなかったものですから! 皆さんのおかげで、すごくたすかったっす!」
「はあ、けど、なんだかまた才能の違い見せ付けられちゃった感じだよ……僕なんかさあ……」
その後丈一郎は決勝戦まで進出したものの、僅差の判定で敗れていた。
フライ級Aでは、関東大会予選で丈一郎を破った西山大附属の鄭が優勝を飾っていた。
「やっぱり……鄭さんはすごいなあ……鄭さんがいる限り、なんだかフライ級で勝ちあがろうってこと自体が無謀な感じがしてきたよ」
「そんなことないよ、川西君」
励ますように、穏やかな微笑を浮かべたのは桃だった。
「Bだろうがなんだろうが、君が関東大会準優勝だったことに変わりはないんだからさ。しっかり胸を張りなよ。それこそ、君に負けた選手たちに対し失礼じゃないか」
「う、うん!」
「そうよ。これは川西君、あなたの祝勝会でもあるんだから」
ちびり、ビールの入ったグラスをわずかに傾けた岡添は、教員としての励ましを丈一郎に向ける。
「秋元君だけじゃないわ。あなたの活躍だって充分賞賛に値するものよ。だから今日は後ろ向きな事を考えたりいったりする必要はないわ」
「お? あんたもなかなか言うようになったじゃねーか、先生よぉ」
にやり、上機嫌な真央は岡添の配膳上にあるビールの瓶を手に取った。
「おう、だったらよ、呑んでくれよ。そもそもあんたが顧問やってくれなきゃ、そもそも大会にすら出られねーんだからよ」
「え? ええ?」
思いもよらぬ真央の急接近に、岡添の顔は回りが見ても不自然なほどに赤くなる。
「え、えと、その……」
コホン、岡添は喉元を潤すと、かろうじて教師としての威厳を建て直しグラスの金色の液体を半分ほど飲み干す。
「教員としての勤めよ。それこそあなたたちが、そういったことで感謝する必要はありませんから」
「ぎゃははは、なかなかいける口じゃねーか」
「きゃっ!? ちょ、ちょっと!」
トクトクトク――
岡添の手をとり、そのグラスに無理やり注がれたビールが、白い泡とともにあふれ出る。
岡添は急いでその縁に口をつける。
「んっ、んっ……はあっ、もう……ゴニョゴニョ……教師酔わせてどうするつもりよ、もう……」
「あん? なんか言ったか?」
「な、なんでもないわ!」
教員としての境界を越えた一人の女としての言葉を、ビールとともに奥へと流し込んだ。
「へっ、美味そうに飲みやがるぜ。けどよ……」
真央は顎に手を置き、その岡添の姿を上から下へと舐めるように視線を移す。
「え、えと……な、なにかしら……」
「い、いや、な……」
真央は口ごもったように、そして顔を少々赤らめる。
「なんつーか、いっつもあんたはスーツ姿とかジャージー姿しか見たことなかったからよ。だからこういう格好……」
その言葉に、岡添は何か体尾晋を隠すかのような仕草を見せる。
岡添が身にまとうのは、この旅館のマークの印刷された薄手の浴衣。
証書崩した座り方は、そこから伸びる白い足を艶かしくみせ、少々のアルコールは形のよくふくよかな胸元を一層生々しく映えさせる。
「なんつーかさ……新鮮だわ……」
「え? あ、あの……そんな……ほめたって赤点減ったりしないわよ……」
「へっ、へんなこといっちまったな。まあ飲んでくれ」
再び真央は瓶を手に取ると、岡添の下へ差し出した。
「あれー? 先生、顔が真っ赤ですけど」
その様子を見た丈一郎は、ニヤニヤ笑いながら揶揄する。
「へー、先生って、もしかしてお酒のめなかったりするんですかー? ほんのちょっとのお酒で、そんなに顔が真っ赤になるなんてー」
「川西君っ!」
その顔を更に校長させて岡添は怒鳴った。
「ははは、怒られちゃった。ところで――」
ふと気がつけば、宣告と違う室内の景色に気がつく。
「あれ? ねえ、レッド君」
「は、はい? あ、あれっ?」
モゴモゴモゴ、一心不乱に料理を片付けるレッドも、ようやくその異変に気がついた。
「ん……ん……んぐっ……あ、あの、そういえば……」
「うん……そうだね」
丈一郎は腕を組んで首をかしげる。
「奈緒ちゃんと葵ちゃん、どこ行っちゃったんだろう?」
「……ったく」
そのすらりと長い足を無造作に胡坐にして、桃は不機嫌そうに食事をほおばった。
「……どいつもこいつも……発情期のネコかっつーの……」
スッ――
静かに、しかしすばやく障子戸が開けられる。
「じゃじゃーん!」
「中座してしまい、申し訳ありません」
ふう、ため息をつき顔をしかめる桃。
目を見開いてあっけに取られるレッド。
そして
「うーん、期待通りの展開」
にやりほくそ笑むのは丈一郎だ。
そこにいたのは、同じくあでやかな浴衣姿の二人の少女。
二人の少女は真央の腕を取ると
「お? お、おい、一体……」
その配膳の上座へと引っ張っていく。
「さ、やはり教の主役は真央さんなのですから」
座椅子に座る真央の右肩に手を置き、葵はしなだれかかるようにしてささやく。
「あ、葵……ち、近すぎやしねーか?」
「やはり主役は主役らしくしていただきたいものです。さ、ごゆっくりしてくださいね」
そういって真央のグラスにウーロン茶を注いだ。
「そうそう!」
ムニュン
「うおっ!? 」
「わたしたちの同好会からインターハイメンバーが出るなんて、本当にほこらしーんだからー!」
左腕に押し付けられる奈緒の胸元は、ますます大きく、柔らかく真央には感じられる。
「な、奈緒ちゃん……も、もうちっと離れてくれるとありがてーんだが……」
それが柔らかくなればなるほど、真央の体は硬くなっていった。
「さ、お飲みになってください」
葵は真央の口元にグラスを運ぶ。
「お、お、おお……」
そのグラスを受け止め、思わず視線を落とすととそこには――
肩口に覗く、白い葵の下着のストラップ――
「!」
真央はすぐさま視線をずらすと、気持ちと高ぶりを鎮めるかのようにグラスを空にする。
「ぷはあっ! はあっ、はあっ……って、うぉっ?」
「はい、マー坊君、あーん」
今度は、可愛らしい手のひらの添えられた箸が一膳、真央の目の前に差し出された。
「しばらくは体を休める時期だよー。マー坊君すぐやせちゃうんだからー。しっかり食べないと、ウェルター級の体重維持できないよー」
「あ? い、いや奈緒ちゃん、飯くれー自分で……」
見まいとすれど、嫌が応にも泳ぐ視線。
その視線の先には当然――
そのカップ数はもはや片手には納まりきれない、奈緒の胸の深遠の谷間――
「!!」
バクリ、慌てて箸先につままれた魚の切り身を真央はかじりとった。
「う、うめーよ! う、うん! け、けどよ、飯くれー自分でくえっからよ! サ、サンキューな!」
「うーん、これはなかなか面白い展開だなあ」
腕を組み、うんうんとうなづくよな仕草を見せる丈一郎。
「ん?」
視線を移せば、眉間にしわを寄せながらも強いて“我関せず”の態度を崩そうとしない桃の姿。
「あれー? どうしちゃったの釘宮さん? 何でそんなに怖い顔をしちゃってるのー?」
ジロリ、無言で丈一郎を睨みつける桃。
「ははは、どうもまた余計なこと行っちゃったみたいだねー」
その反省の言葉には、当然反省の意などこれっぽっちも含まれてはいなかったが。
すると
「あれ?」
丈一郎の目の前を、かすかな衣擦れの音とともに薄手の布が翻った。
「秋元君」
「ん?」
顔を上げた真央の目の前には
「どわっ!」
「長らくお疲れ様。本当にあなたは良くがんばってくれたわ」
その目の前には、胸元がはだけ肩口と下着の黒いストラップをあらわにし、そして太ももまではだけさせた岡添の姿だった。
「そ、そんなことはいーから! あんた、もうちっと服装――」
何かの暗示に掛けられたように視線を溶かした岡添は、右手に持ったビールのグラスを一気に傾け
「ぷう」
顔を赤らめ口をぬぐう。
「顧問として、きちんと労うように、お母さんに言われたんだもん」
「だー! あ、あんた飲みすぎじゃねーのか!」
「ちょ、ちょっと、岡添先生?」
葵の目の前で浴衣の裾を翻した岡添は、すばやく真央の後ろに回りこみ
「おいいいいっ!?」
「特別よ。マッサージしてあげるんだからぁ」
ろれつが回らない様子で真央の肩口をも魅し抱きはじめた。
「すごい筋肉……全然壷に指が届かないわぁ……」
「いいっ? せ、先生! も、もういいからよ! な? だ、だからウーロン茶でも飲めよ!」
真央の指さしだしたグラスを受け取ると、その縁に口をつけようとした。
「あー! だめー! 間接キスじゃん!」
奈緒は慌ててその手からグラスを奪い取った。
「そんなの、絶対だめなんだからー!」
「くだらねーこといってんじゃねー!」
更に真央はその手からグラスを奪い取った。
「いいからこの女の酔い覚まさせなきゃしょーがねーだろーが!」
「あらそれでしたら」
真央の手から奪い取られたグラスはその人の口元で傾けられ、あっという間に空になった。
「私が飲めば問題はないわけですね」
「あー! ずるいー!」
子どものような声を上げたのは、何と岡添だった。
「もともとは私がもらったグラスなんだからぁー。これは私のものだもんー」
「だめったらだめー!」
そしてグラスは再び奈緒の下へ。
「マー坊君! 今度はわたしについで! 私もマー坊君のグラスでジュース飲むー!」
気がつけば、浴衣の胸元をはだけさせ、肌もあらわな三人の女性が真央の体に纏わり付く構図が生まれていた。
「い、いいから離れてくれ! 大概こういうときは――はがっ!」
静まりかえる広間、真央の顔面に、桃のかかとがめり込んでいた。
「あんたさあ……インターハイ出場したからって調子に乗りすぎなんじゃない?」
「い、いや別に……お、俺が悪いわけじゃねーし……」
薄れ行く意識の中、真央は思った。
ああ、きっとこの聖エウセビオ学園で学生生活を続ける限り、こういう事態は絶対に避けようがないのだな、と。
「は、は、はははは……」
蒼白の顔面で、笑顔を引きつらせるのは丈一郎。
レッドは体を硬直させ、その額に脂汗をにじませていた。




