5.31 (土)18:30
「あ! みんな見て!」
ふと顔を上げた視線の先に見えた、待ち望んだその姿に丈一郎は歓喜の声を上げた。
「マー坊君、帰ってきたよ! 釘宮さんも! って、わっ!?」
「よう、おめーら雁首そろえてなに青い顔してやがんだ?」
真央は晴れやかな顔で丈一郎の頭を乱暴になでた。
「俺が史上最高の天才ぶりを発揮して、絶頂ものの爽快なノックアウトを見せてやったつうのによ、そんな葬式見てえな面しやがって。しんきくせーんだよ、ぎゃははは」
「そ、そうだね、ははは」
豪快な笑い声に、丈一郎は頭を抑えながら明るい表情を返した。
「け、けどさ、みんな心配してたんだよ? 急に姿を消しちゃったしさ、それに……あんなことがあったし……」
「あん? あんな根暗ヤロー相手にしたって全然体があったまった気がしねーからよ、今まで河原でロードワークしてたんだよ」
頭をがりがりとかき憎まれ口を叩くその様子からは、先ほどまでの表情、気持ちはまったく伺い知ることはできなかった。
「そこでばったり桃ちゃんと会ってよ、ほんでおめーらが俺のこと探してるってきいてよ、ほんでいま一緒に帰ってきたんだよ」
「マー坊君……」
ややはれた遼のまぶたに、丈一郎は何かを察しながらも
「あはは、そうだね」
丈一郎はなおも明るい笑顔を返した。
「マー坊君が帰ってきて、まあ一安心、だね。僕たちはこれから、ね? レッド君?」
「え? そ、そうっす」
レッドは大きく頷く。
「じ、自分たちはこれから、ロードワークに行こうと思ってたところなんっす」
「おお、そうか、そういつぁ都合良いわ」
真央は首筋に掛けたタオルを取り出し、頭に巻きつける。
「俺もまだまだ動き足りねーからよ、付き合わせてもらうわ」
「「ええー!?」」
唖然として叫ぶ丈一郎とレッド。
「マ、マー坊君、たった今までロードワークに行ってたんだよね?」
「そ、そうっす! 鹿も今日はあれだけの熱戦を繰り広げたわけですから、今日はゆっくりと……」
「だーっ! うっせんだよ!」
真央は二人をどやしつけると、コキコキと首を鳴らした。
「四の五の抜かすな。俺ぁまだまだ動き足りねーんだよ。おら、ぐだぐだしてねーでさっさと行くぜ」
瞬く間に、風のように玄関を飛び出した真央。
その後姿を、慌てて二人のボクサーも追いかけた。
「ったく、あわただしい男だ……」
その三人の後姿を見てため息をついた桃。
しかし、今度はその桃の後姿に
「桃さん」
真剣な表情で、葵が声をかけた。
「もしよかったら、一体何が起こったか、教えていただけませんか?」
「お願い、桃ちゃん」
奈緒は、桃の手にすがるようにして懇願する。
「あの後、どうなっちゃったの? ちゃんと教えて欲しいの」
「どうなったもこうなったもないよ。二人が心配することなんて、何一つないよ」
桃は小さく微笑み、奈緒の肩に手を置く。
「全て、終わったんだ。綾子さんとの関係も、あいつの中でも。だから、後は――」
ふう、桃は瞳を伏せ、そして二人に涼やかに微笑みかけた。
「後はあいつの優勝の瞬間を、ただ待つだけさ。あたしたちは」
「そうですね。きっとそれはその通りなんでしょう。ですが――」
しかし返ってきた青いの言葉は、ほんのわずかだが桃をなじるようなトーンが混じっていた。
「――桃さんは、あの後真央君とどのようなことをお話されたのですか?」
葵の言葉に、桃の脳裏に河原での出来事が浮かぶ。
桃の胸に顔をうずめ、しゃくりあげて子どものように涙を流す真央の姿。
そして、その背中に優しき手を回す桃。
今にして思えば、なぜあんなことをしてしまったのだろう――
桃の端整な眉間に小さなしわが寄る。
しかし、あのまま真央を頬って置くわけにはいかない、桃はそれだけは偽りなく断定できた。
そしてその事実は、口が裂けても言うことはできなかった。
「なんでもないさ。ただ、あいつに帰ろうって言っただけさ」
ふう、再びため息を漏らす桃。
「あたしたちの……葵や奈緒、丈一郎君やレッド君、みんなが待っている、聖エウセビオに帰ろうって、そう言っただけだよ」
「きっと、総論で言えばその言葉に偽りはないのでしょうね。ですが――」
葵は、唇をかみ締めるようにして吐き出す。
「ですが、きっとそれだけではないことくらい、私にだってわかります。それはきっと――」
「桃ちゃんとマー坊君だけにしかわからないことなのかなー」
瞳を潤ませ、葵の言葉に自身の言葉を継いだのは奈緒だった。
「なんか悔しい。また、桃ちゃんだけ、マー坊君のこと理解できちゃったみたいじゃん」
「そんなんじゃないよ」
苛立ちを隠せないようにして、桃は首を振る。
「ただこれだけは言えるよ。全て終わったって事。そしてそれは、あいつにもあんたたちにとっても新しいスタートラインなんだ。それだけは、理解して欲しい」
「失礼します」
葵は、表情を読ませまいとしたのだろう、すばやく体を翻す。
「申し訳ありません。きっと今の私は……私自身が嫌いな、嫌な私の姿ですから」
そういうと、葵は玄関の奥へと姿を消して行った。
「ごめんね桃ちゃん」
奈緒は振り返りボクサーたちの飛び出した道へと向かう。
「わたしもきっと……うん、葵ちゃんと一緒……」
カチリ、桃は爪を噛み、そして宿舎の旅館の中へと歩みを進めた。
「あら、釘宮さん」
「あ……」
旅館のロビーでコーヒーを飲む桃に声をかけたのは、役員としての業務を終えて旅館に戻ってきた岡添絵里奈だった。
「みんなは……秋元君たちはどうしたのかしら?」
真央との"二人だけの秘密"は守りながら、桃は先刻までの出来事を語った。
——————
「そう……そんなことがあったのね……」
桃に向き合い、こちらはミルクティーを一口すすった岡添はため息交じりにこぼした。
「新しいスタートライン、ね。やっぱりあなたってすごいわ。私にはそんなこと考えられないもの。おかしいわね、私は教員なのに」
「まあ、あたしはしょせんこういう男みたいな性格ですから」
気持ちを切り替え、さっぱりとした言葉を桃は返す。
「だから、そんな風に言われてもあんまり嬉しくもないんですけどね」
「だからこそ、なのね」
アンダーリムの眼鏡を押し上げ、岡添は真っ直ぐに桃を見つめた。
「きっとそれは、礼家さんにも奈緒さんにもできないことだもの。そして、この私にもね」
「大げさです」
桃は眉をひそめた。
「言ったじゃないですか。あたしはしょせん、男っぽい質だってだけですよ」
「あら。けど、秋元君の気持ち、同じ男の子の川西君やレッド君に気づくことができたかしら」
「えっ?」
桃の心臓が、コトリ、と速まる。
「そ、そんなこと言われても……」
「きっと、無理だと思うわ」
自嘲的な笑みを浮かべ、岡添はまたひと口ミルクティーをすすった。
「だからきっと、この聖エウセビオ学園のなかで秋元君の気持ちを理解してあげることができたのはきっと……きっとあなただけよ、釘宮さん」
静かだが心臓を貫くようなその言葉に、桃は言葉を飲みこむほかなかった。
「それをあなた自身が気が付いていないのも、きっと礼家さんや奈緒さんを苛立たせたんだと思うわ。そんなに飄々としていながら、秋元君としっかりとこころが結びついているみたいに見えるんだもの」
「それは勘違いです」
ようやく自身を取り戻した桃は、はっきりと断言した。
「あたしとあいつの間に、そう言う……男と女としてのこころの結びつきなんて、ありえませんから」
「あなたが言うのなら、きっとそうなんでしょうね」
岡添は柔らかく微笑み、そして言った。
「そしてそれは、きっとそうであって欲しいことだと思うわ。礼家さんにとっても奈緒さんにとっても……そして私にとってもね」
「先生……それって……」
「忘れてちょうだい、今の言葉」
岡添はそう言うと立ち上がった。
「少なくとも、もう綾子さんと秋元君の関係、それは完全にクリアになったんだもの。みんな同じスタートラインに立ったって言うその言葉、それは悪いことじゃないはずよ。秋元君にとっても、みんなにとってもね」
桃はうなずくこともせず、岡添を見つめた。
「さ、秋元君は桐生君に勝ったけど、関東大会が終わったわけじゃないわ。こういう話は、彼が優勝して空にしましょう」
そういうと、自身の部屋へと向けて姿を消した。
——————
「桃さん」
ロビーのソファー江まどろんだような表情を見せる桃に声をかけたのは
「葵……」
「先ほどは、申し訳ありませんでした」
折り目正しく上半身を折る葵の、青みがかった黒い髪がはらりと舞った。
「まるで八つ当たりをしてしまったみたいで……お恥ずかしいところをお見せしてしまいました……」
「気にしないでよ。そんな風に言われたら、むしろあたしが申し訳ないじゃん」
桃の笑顔は、いつもの明るさを取り戻していた。
「だからさ、もうこんな話は忘れてあのバカと川西君の事をしっかり応援しようよ。ね?」
「桃ちゃーん!」
「うわっ!?」
ソファーに座る桃の顔を包むたわわな果実。
「うえーん、さっきはごめんね桃ちゃーん」
ロードワークを終えた奈緒は一足先に宿舎へと戻り、最愛の姉への謝罪のハグをプレゼントした。
「お願いだから嫌いにならないでー」
「わかった! わかったから!」
なだめるように言って、桃は奈緒を引きはがした。
「さあ、これからあの汗まみれの男たちが帰ってくるんだろ? 早く夕食の支度とかをするんだね。なんたって、あんたはこの聖エウセビオ学園ボクシング同好会の、たった一人のマネージャーなんだからさ」
「うん!」
気持ちよく返事を返すその笑顔に、桃と奈緒もつられて気持ちのよい笑顔を浮かべた。




